ミスラネイアの戦争
アントン町防衛砦。通称、アントルーク。
神獣の脅威があった方向と真逆の位置に設置されたこの砦が攻撃されたのは、当初予定されていた神獣からの魔法攻撃ではなく、隣国ミスラネイアの人間の手による、油の樽の投入行為からだった。
「矢を放て!!」
油の樽を、そうと知らずに兵士たちは迎撃する。何かが砦の中に入ってからでは遅いとばかりに、次々と、躊躇もせずに。
だが、矢で樽を迎撃するのはほとんど不可能に近い。仮に当たっても、突き刺さるだけで撃ち落とすことなど出来っこない。
ところで、矢というのは鏃の部分と箆の部分に分けられる。そして、箆の部分というのは、多少の差こそあれ、鏃よりも小さいものだ。
油の入った樽に、矢が突き刺さった。どうなるかは簡単だ、鏃の太さと箆の太さの差分だけ、樽に穴が空く。そしてその穴の分だけ、油が樽からこぼれ出るのだ。
「火矢を放て!」
フローラの声に応じて、騎馬に乗った長弓兵たちが、曲射姿勢から矢を放つ。
樽から溢れた油は、砦内の木々……木造の宿舎に当たり、染み込んでいく。そもそも投石機は、砦の壁をはるかに越える位置めがけて樽を投げていて、その通り、砦中枢付近にある宿舎や厩舎に当たっていた。
その上での、油を染み込ませた火矢の曲射である。
長弓は、弦の長さの分、飛距離が長い。それは高さであっても同様だ。
地面から斜め60度、砦の壁、兵士の頭を軽く越えるくらいの角度、距離から弓を放つ。それだけで、矢はちょうど投石機から投げられた油と同じくらいの位置へ飛んでいくのだ。
「火の手が上がった……破城槌、急げ!」
油は既に広がっている。火が燃え広がり、砦の中が熱気に包まれるのは時間の問題だ。
とはいえ、これが万全の状態であれば、火の手が上がったところで砦の兵士たちはすぐに消化出来ていたに違いない。
しかし、アントルークは現在、万全とはとうてい言えなかった。アストラスト軍の精鋭が敗北したのは、ほぼ一月前。その敗戦理由は、二大国の侵略と小国たちの決死の抵抗、そして生存する神獣たちの襲撃。
未だに神獣が残っている。しかもアストラスト軍の誇る精鋭は、その九割以上が命を落とした。アストラスト最南端の砦、アントルークは絶望感に苛まれている。
救援部隊が来るとして、それは神獣たちに対抗できる精鋭たちではない。そもそも、その精鋭たちも、神獣たちの前で命を落とした。
多くの兵が、そんなうわさ話に恐れをなして逃げ出した。この砦にいる兵士たちは、それでも最初の一線を請け負う覚悟のある兵士か、逃げ出す勇気すら持たなかった兵士しかいない。元々6万人が詰められる砦に、2万人しかいない。そして、ミスラネイア軍に攻め込まれた。
「火消し!急げ!!熱で倒れる前に熱源を止めろ!」
砦を護る将が怒声を上げる。熱さで倒れる兵士が続出するまでに、火を止めねばならない。何より、熱で疲弊した兵士がいると、これからの推測的に大きく困る。
「将軍!敵、破城槌を撃ち込んでいます!」
「長弓隊、馬を狙え!足を止めろ!!」
「将軍、敵、抜け道から砦内へ侵入、油を撒きながら南門へと進軍をしてきています!」
「どこからそんな兵を出した!いや、投石機と破城槌を用いているのは少数か!」
アントルークの将は一瞬動きを止め、10秒ほど状況を飲み込むために使い、その後2秒で答えを出した。
「北門を開けろ、撤退を開始する!!」
敗北を受け入れ、逃げる。それが、アントルークの行える唯一の決定で。
そして、その決断が、アントルークの将の寿命を、最大まで縮める原因となった。
炎が、燃える。そんな中、敵が砦から去っていくまで、シーヌは壁沿いで見守っていた。
「さて。じゃ、仕事はこれで終わりかな?」
シーヌはそう呟くと、空に手を向ける。まるでシーヌが呼んだかのように雲が集い、層になって、雨を降らせていく。
油はシーヌの魔法で避けられていく。炎は雨に消されていく。
二時間もしたころには、雨は消え、そしてミスラネイア軍が砦に侵入していた。
アストラスト女帝国女帝は、敗戦して逃げてきたアントルークの将と謁見した。アントルークが奪われて、10日後のことである。
「あなた方が敗けたことは、把握しているわ。」
最短距離を最速で走ってきたアントルークの将より、女帝の方が情報は早い。その事実をはじめて知って、将は驚愕に目を見開く。
「私が持つ『魔法』よ。魔法概念“奇跡”。その区分を“愛情”、冠された名を“我ぞ国母”。」
ミスラネイア軍がアストラストに進軍したことを、彼女は誰より真っ先に知った。そして、国境沿いの村々、町2つは、抵抗もせずに降伏したことも。
少しずつ減っていた、彼女の把握できる国の領域。南東からミスラネイアが、南西からクティックが。きっと、アストラストを攻めている。
「あなたに言い渡す沙汰はありません。敗けるべくして敗けた、と思いなさい。我が国は、“神の住む給う山”の攻略に失敗した時点で、敗北者です。」
女帝はそう言うと、笑った。
「今は休みなさい。別室にもてなしを用意してあります。」
彼の謁見は、それだけだった。
翌日。アストラスト女帝国内、帝都にて。
2つの首が、晒された。一つは、クティックに奪られた砦、ブデオスの将のもの。もう一つは、ミスラネイアに奪られた砦、アントルークの将のもの。
咎は、敵の侵入を阻めなかった罪。相手が人間だけであるにも拘わらず、いもしない神獣の恐怖に囚われ、兵士たちの逃亡を許した罪。およびそれに伴う、作戦立案の甘さ。
敗北の責任は誰かが取らねばならない。そして、神獣の脅威がなくなったこともまた、民衆に周知させなければならない。
二人の敗戦の将の首は、アストラストの女帝にとって、これ以上ない手土産であり。
「ふふふ、ブランディカやグディネが勝たなくて良かったわ?」
自国が勝てなかったからといって、女帝は状況を悲観しない。むしろ、アストラストはまだ敗けていない。盛大な被害をもたらす痛み分けだ。
ブランディカ、グディネ両国のいずれかが“神の住み給う山”を占領していれば、アストラストの緩やかな滅びはおそらく確定していた。しかし、現状ではその様子はない。
「小国家が私たちに並ぶのは、ちょっとどころではない時間がかかる。」
その間に、国を立て直す。一気に落ちた兵士たちの練度を上げなおし、ピリオネに替わる将を抜擢し、10年かけて軍力をもとの状態にまで戻す。
その間に、ミスラネイアもクティックも、多少国力は上がるだろう。一筋縄ではいかない、中規模の国にはさせてしまうかもしれない。
「滅びなければ、私の勝ちよ。」
彼女は、国母であり、女帝である。
女帝国に必要なのは、女帝の座。彼女が女帝として君臨し、また次代の候補が潰えない限り、彼女にとって敗北はない。
こうして、アストラストはこれからも、近隣で力ある国として、君臨し続けるのだ。




