災厄の序章
ティキはベリンディスへ。オデイアはクティックへ。その二つの国は、隣接する小国がある国である。
クティックにはニアスが、ベリンディスにはケルシュトイルとミスアネイアが、隣接する小国家だ。
では、ティキが挙げた小国家群の中で、隣接する国のない小国……ケニムスとワルテリーには誰が向かったか。もちろん、元『シキノ傭兵団』の人間である。が、ティキは彼らに対しては明確に取るべき行動を指し示していた。
オデイアのように自分で考えて動けるわけでもない。その上、少しの噂話を両国に流せば勝手に互いに連絡を取るわけでもない。
ただ、大国に隣接した小国。正直なところ、それらにティキが向かった方が巻き込むとしては効率が良かったのかもしれない。だが、小国一つ二つを巻き込むことより、大きな戦争の流れを作ることの方が大事であるとティキは判断した。
「良いですか、皆さん。まずは国の中枢に、その後民衆、特に力を持つ貴族の複数派閥に。時間をかけて、情報を流すこと。国王に対しては今から一か月後、貴族派閥に対しては二か月後。それからは、勝手に話が進みますから。」
彼女のその宣言を疑うものはここにはいない。同時に、完全に信じる者もまた、いない。
彼らは将ではなく兵である。考えることは仕事ではない。
言われたことの範囲の仕事をこなすこと。多くを語らないこと。それが使える兵隊の必須条件だ。余計なことをする人間を、自分で考えて蛇足を付け足す人間を、優れた将ほど望まない。
ゆえに、彼らは言われた指示には従順だった。まずは一月。どう国王に、国の中枢に、“神の愛し子”が死んだという情報を流すか。そして、中枢だけに抑え込むか。
彼らはまだ、山の中。ティキのベリンディスでの活動が本格化するまで、彼らはその場から動かなかった。
宿の天井を見て、ティキはここがベリンディスの辺境の村であることを思い出す。宿の下に降りると、忖度されたのがまるわかりの、随分と豪華な食事が置かれていた。
「全く、民衆は冒険者組合を何だと思っているのでしょう?」
久しぶりに見た金属製のナイフを手に取り、とても堅い石パンをすでに浸したシチューを眺めて呟く。
「そんなお金、どこから出たのか。」
言うまでもない。ティキの宿泊代金である。女将はティキの払った、持ちたくないような大金を、ほとんど彼女への接待にあてることにした。
というより、迷惑料と貸し切り料として払ったティキの大金ではあるものの、それにしては多すぎたため、接待費として使うしか利用価値が思いつかなかったのである。
世間知らずのお嬢様、転じて永年無双の最強組織が一員。
広く一般的な適正価格を知ることのないティキでは、民間の宿に宿泊するのは向いていなかった。
ちなみに、宿というのは希少である。冒険者組合が統治する学園都市、工業都市、商業都市は他と比べて宿の数は多いものの、それでも十軒もない。
当然である。どんな大都市であれ、旅人や狩人などは絶対的に少ない以上、民宿経営というのは儲からない。
平和な世でなければ儲からないのが宿泊施設というものである。それゆえに、国内では各都市の要所要所に国営の宿が一つ置かれているだけの方が多い。
この都市で、ティキの泊まるこの宿が民宿として機能している理由はただ一つ。
『神の住み給う山』に隣接する村として、多大な支援を受けているからだ。
何せ、戦争のないこの国は、それでもいつ滅びてもおかしくないという状況下にある。
山の頂に住む神獣たちの王が、ただ一声、『人間を滅ぼせ』というだけで、この国は戦火に飲まれる。
そしてその最初の被害者は、この村に住む彼らである。ゆえに彼らには相当量の迷惑料を支払われていた。
そのお金を使って、ただの享楽にしかならない民宿を持つというのは、つまり娯楽になるものも何もないということであるが……。
下手なものを導入して(例えば歌劇場などで)工事などしたら、神獣たちを挑発する恐れがある。そうでなくとも、人の往来どころか、商人の来訪自体、国が主導する数名の行商がいいところ。
使いどころがないお金は、ただ無為な日常を送るために、そしてこのような、道楽としか考えられないような民宿を経営するために使われる。
国も、彼らも、それが無意味だと理解していながらもただお金のやり取りは続けていた。
立場上、立地上、そうせざるを得ないのだということを、ティキは食事を終えて村を見回る過程でなんとなく理解して。
「やるべきは、まずは。」
そう言って、こっそりと村の外へ出て行くのだった。
『神の住み給う山』は、広い。
その高さは約3500メートルあり、一帯の山の中でも特別高い。が、それ以上に、広い。
実は、高さ2000メートルを超えたあたりからは随分急な角度であるものの、それまでは本当になだらかで、道がなく木々が生い茂っている以外はただ少し傾きのある程度の坂程度にしか感じない。
総合的には十万に近い数の神獣が住んでいた場所だ。獣のテリトリーが人間よりはるかに広いことも考えると、土地の広さも平面にすれば小国三つ程度……人間が5、600万人程度は不自由なく暮らせる程度の広さはある。
だからこそティキは、『ここが戦場』と決めていた。
罠を張り巡らせることも、軍勢を配置するにも申し分なく、さらには土地に関するデータが何一つない。
地の利を完全にこちらのものにしておくためにも、ティキはこの『神の住み給う山』を戦場にしておきたく……それでもって、そのために必要なものもいくつかあった。
ティキがシーヌの復讐のために戦争に持ち込まなければならない大国は三つ。グディネ、アストラスト、ブランディカ。そのうちグディネ以外は『神の住み給う山』と国境が隣接している。
言い換えれば、グディネは国境が隣接していない。グディネと『神の住み給う山』の間には、ケルシュトイル、ベリンディスがある。
グディネとの戦争で考えなければならないことは、至極単純にして、出来るかどうかで言えば非常に難しい。
いかに全軍を『神の住み給う山』の中に入れ、ブランディカやアストラストと戦争をさせている中でベリンディス以下小国家群に包囲させるかである。そしてそのために蒔かなければならない種が何か……。
それはまだ、ティキの頭の中にしかない。
ということを頭の中で納得させながら、ティキは幻想で作り出した剣で樹を伐採していた。
ドゴン、ドゴン、という大音が、辺り一帯に響き渡り、朝一番を知らせるかのように朝いた村が騒がしくなる。
ティキはその気配を索敵魔法で感じ取り、笑みを顔に張り付ける。これで、彼らは騒ぐだろう。おそらくティキを捕らえ、尋問しようとするだろう。
その前におそらく、ティキが宿泊した民宿の荷物と、ティキが“従属化”させた狼を質に取ろうとするはずだ。そうしようとして、民宿の女将と話をするだろう。
「得体のしれない冒険者組合員と、神獣。どっちの方が怖いんでしょう?」
ティキは笑み続け、伐採を続ける。
村人たちが恐る恐るティキの方へと近寄ってきたのは、日が沈む頃だった。
轟音。それが空気を震わせるのを感じ取ったその男は、背中に冷や汗を流しながら警戒の姿勢をとる。
「神獣?」
呟いて、村の生命線である柵の前まで出向き、驚いたように目を見開いて。
「誰だ、あの女‼」
見るからに魔法で作りましたと言わんばかりの剣を持ち、誰も手を付けないがゆえに巨木になっている樹を伐採する。
その姿は女神のように、その行為は狂人のように、男の目には映った。
即座に村へと駆け戻る。彼女が一体何者か、という情報を求めて、さして広くもない村を縦横無尽に駆け回り。
昨日ここへ、狼に乗ってやってきた、貴族である。その情報を得ると同時にまずその男が考えたのは、敵、今回の場合挑発している神獣たちに彼女を引き渡し、それで怒りを治めてもらうこと。
そのためにはなんとしても、彼女を捕えなければならない。彼女の宿泊している宿へと、男は急ぐ。
馬を止めるのもそこそこに、男は慌ててその宿の玄関を開き……そこに、この村の重役たちが揃って頭を抱え、座り込んでいるのを見た。
「どうした、じゃない、どうしたのですか?……彼女の荷物は?」
「持ち出してよい相手のものではなかったのじゃ。のう、ブレド。“神の愛し子”と冒険者組合員、わしらはどちらに命を預けるべきなのじゃ?」
さながら、神と魔王、どちらに従うのかと問いかけられたように。男……ブレドは、感じた。
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