第七章:何にも覚えていないなんて嘘だよね?
私にとって大きな転機が訪れたのは、木枯らし一号なんかが観測されて少したった、カリキュラム上では冬休みの少し前だった。私たちの学部では顕微鏡実習というものがあり、列になった顕微鏡の前の席に出席番号の指定制で座ることになる。私と彼の出席番号は15番違いだから、何もないと思ったら、彼は真正面の席だったのだ。まったく関連のなかった二人が偶然なのか、それとももともと決まった出席番号だから必然なのか、とりあえず運命的に私たちは面と向かって、実習時間中を共に過ごすことになったのだ。有頂天になりながら、彼に話す機会をうかがうことにした。
勉強ができるキャラである私にその機会は私が思っていた時よりも早く来た。なんと彼が私に話しかけてくれたのだ。
「石井さん、これどういうことかわかる?」
実習の実習帳を彼は私に見せてながら言った。勉強を頑張っておいてよかったなぁと思いながら、彼の質問にちゃんと答えた。彼は喜んでいて、彼の力になれたことをとても喜んだ。そして、あろうことかずっと雑談をしながら、彼と実習していたのだ。ただ……
「石井さんと初めて話したけど、思ってた感じじゃないね! すっごく明るくて優しいね」
「もっと早く出会ってればなぁ……」
そんな彼の発言はとてもうれしいのだが、彼は私のことを覚えていないように感じた。そんなことはないはずなのに、彼の中に私は1カケラもいない……。勇気をだして、聞いてみることにした。あの入学の前に春の日、桜の木の下で初めて出会ったときの話、入学の式隣に座ったときの話。そんな話を振ってみた。でも、彼の反応は残念ながら予想通りのものだった。
「ごめん、出来事自体は覚えているんだけど、君だってことを覚えてなかった。ごめんね」
「そっか、隣は君だったのか。入学式はずっとソワソワしてて、そればっかり記憶に残って、他のことを覚えてなくて」
私はそんな彼の記憶の悲しい事実への哀情を押し殺して、
「そうだよねー、私もあなただってわかったのは偶然だし、そんなもんだよねー」
とか
「私も言われてみれば、緊張しててあんまり覚えてないうやー」
なんか言ってみたり強がってみたりする。その日の帰り道は喜びの反面、すっごく寂しくて電車の中だというのに泣いてしまった。私が覚えていた彼との数少ない記憶は私だけのものであり、彼にはなかった。記憶を共有だけが私にとっての彼とのつながりだったのに……。
……いや、そんなはずはないはず。全部は覚えていなくとも覚えているはずだ。人間は都合のいい記憶ばかり、何度も思い出して記憶に残す。ただ消えることはないはず、実際彼はあの桜の日の記憶はあったわけだし、入学式の記憶もある。きっとそれを私が突いてあげればちゃんと思い出してくれるはず。彼の記憶の中に私がいないなんてことはありえない。必ず思い出してもらう。私は絶対にあきらめない。