ロンリネス・オブザ・シトロエン
(あらすじに同じ)
これは「僕」の古いトヨタが緩慢な最期を迎える話だ。あとは何本かの煙草に火が点けられ、「彼女」の機嫌が少しばかり上がったり下がったりする。そうだ、彼女は髪の色がとても綺麗だよ。そんなところかな。
僕が22歳で、彼女が19歳のときに起きたことだ。ほんの些細なこと、二人で煙草を吸い始めた。
中古のトヨタ車で、僕らは山陰地方のバイパスを通り抜けていた。傾いたはずの太陽は厚い雲の向こうだ。
何日も雨が降り続いた冬の終わりで、道路も空気もじっとりと湿っていた。朝から僕らは互いに機嫌があまりよくなかった。原因はそれぞれ。けれども一度、二人の間の空気そのものに不機嫌の色が見て取れると、それは上流の雨で川が濁っていくみたいに、何らかの増幅エネルギーを糧にして悪化の一途を辿った。
大学の近くに、僕らはそれぞれアパートを借りていた。けれどもこの数ヶ月は、実質的に彼女は僕の部屋に転がり込んで生活していた。彼女はシンクと手洗いと風呂場の使い方にうるさい。その徹底主義は、大陸の間を運ばれた外来種の草が平原を侵していくように僕の部屋でも幅を利かせた。
今朝、彼女は何度目かの不満の種を飛ばした。微細な綿帽子みたいに、それは服や髪から払っても払っても空間の中に残った。そして僕は別の原因を抱えていたことにより、その空気のほころびをうまくいなすことができなかったのだ(その 僕側が抱えていた理由については、もう思い出すことができない。きっとあらゆる植物の種子よりも微細なものだったのだろう)。
出かける前、僕は彼女が手洗いに入った隙に小さく舌打ちをした。具合が悪くなっていく様は、まるで第二次世界大戦のヨーロッパ戦線のように思えた。ドイツが堤防を増殖させるように拡大した戦線は、その勢いを失った途端に内側へ収縮する圧力にミシミシと蝕まれていった。堤防にあちこちで大きな決壊が起きるたびに、敗北と犠牲が泥の汚れのようにビシャリと、誇りに満ちた国土を汚がした。僕らの間の空気はその日、まさしくそのようにして退廃していったのだった。
出かける予定は前から立ててあったので、その嫌な周波数で鳴る雑音のような空気まで一緒に積み込んで出発してしまったのだ。きっとお互い意地になっていて、意識と無意識の中間あたりに「予定のキャンセルの提案はするまい」という、全く無意味で害悪的な誓いを立てていたのかもしれない。不吉さは投げやりなペンキ補修のように分厚く塗り重ねられていった。暗喩は力を持ち、やがて決壊を起こして現実になだれ込む。
車は長いトンネルに入った。入り口から100メートルほどは黒い壁に塗られ、やがてそれは白いタイル張りの造りに切り替わった。オレンジではなく白の照明が、タイルの連続を淡々と映した。ときどき道路の端に水のシミが広がっていた。ラジオの音はノイズの向こうに遠ざかって消えた。嫌なことが起きそうな部屋からこっそりと退散するように。
突然車は衝撃を受けた。助手席で長く黙り込んでいた彼女が鋭い悲鳴をあげ、僕は一瞬の警戒で身体を強張らせた。車はぶつからずに進み続けたが、その足元をトラブルが完璧な蹴りで掬い上げていた。
「おい、冗談じゃないぜ」
僕に悪態をつかせたのは、フロントガラスに刺さったタイルの破片だった。前は見える。後続車の追突を喰らっても面白くないので、とりあえずはトンネルを反対側まで抜けてしまうことにする。彼女はおそらく(トンネルの照明じゃわからない)真っ青になって固まってるはずだ。幸い、ダッシュボードの上に2、3つのかけらが落ちているだけで、ガラスはそれ以上車内に飛び散っていないようだった。
けれどもそんな車で、何キロも先の目的地に行って戻って来て、帰りにファミレスでも寄って食事をするわけにはいかない。トンネルを出るとちょうどいい具合に高速バスの停留所があったので、その先のゼブラの中に車を入れて止める。バスが通る幅は十分に空いている。エンジンを切って僕らは車の外に出た。
「⋯⋯破片で怪我なんかしてないだろうね」
不機嫌ながら僕は彼女に確かめた。彼女は車の横で両腕を寒さに震えるように抱き、硬く小さく頷いた。
彼女を初めて見た時、その髪は目に痛いほどの緑色に染められていた。彼女が1年、僕が3年の時の学園祭だ。特設ステージではバンドがひどい荒削りの演奏をし、それは何よりも、鬱屈したエネルギーの塊たる僕たちをストレートに象徴していたと思う。僕と彼女は盛り上がりの外縁で熱気を吸っていた。
この場面はそれだけで終わる。
祭りの期間が終わると、彼女はあっさりと髪を黒く戻し、そして学内のカフェテリアで、僕の向かいの席にもう一度姿を現したのだ。僕は聞いた。
「ねえキミ、少し前まで緑色の髪をしていなかった?」
彼女は、見知らぬ僕が突然話しかけたもので警戒していた。僕はそこで言い訳をせず、ただ舞い上がった時間が静かに沈殿するのを眺めていた。彼女は口を開いた。
「そうかもね。けど、わたしは昔のことを思い出すのが苦手なの。女の子のことを『キミ』だなんて言い切っちゃうような人の前では、それはますます酷くなるのよ」
顔の割に恋人のできないタイプの、そんな女がよくするようなものの言い方だった。僕は俄然興味が湧き、なんとか彼女の連絡先を聞き出した。そういった消耗のための消耗の中に、満足とか格好よさとかを感じられる年だったからだ。その頃の僕にはまだティンカーベルが見えていたのかもしれない。
高速バス停留所には屋根付きの待合所と飲み物の自動販売機があるだけだった。僕らはそこに腰を下ろし、そして僕がJAFと道路管理に電話をかけた。電話の答えはどちらも書かれた文章を読み上げるように素気なかった。それを聞いているとトンネルのタイルが落ちたことによるトラブルというのは世の中にありふれていることのように感じられた。電話をしまい、彼女の方を見た。そして声をかけた。
「ビックリしたろ」
彼女は驚いて硬くなった機嫌の悪い女の標本でありつづけていた。博物館に飾るべきだ。この町と町の間の中途半端な空間で、僕は一人の味方も見つけられずに立ち尽くしているような気分になった。喉の奥で小さな小さなため息が出る。
待合所の後ろには下へ降りる階段があった。僕はブラブラと、その下へ降りていってみた。そこはどちらを見てもずっと枯れた畑が続くだけの、世界の終わりでもない、「世界の半端」とでもいうべき場所だった。いったい誰が、どこからやってきてバスに乗り降りするんだろう。
諦めて上へ戻ろうとした時、階段の裏側にポツリとタバコの自動販売機があるのに気がついた。何かの間違いで取り残されているのだろうか。カードのいらない旧型の自動販売機だった。僕は何も考えずにフラフラと吸い寄せられ、ポケットから小銭を出してインディアンの顔がついたデザインの箱を一つ買った。
上に戻ると、彼女は顔をあげて遠くを見ていた。視線を追っても、そこには空と山しか見えない。彼女は僕に振り向いて言った。
「下には何があったの?」
「タバコの自販機があっただけだよ」
僕は手の中でインディアンの箱をもてあそんでいた。
「それ買ったの? どうするのよ」
吸うのさ。決まってるだろう。僕は何も言わず、そういう顔をチラッとだけしてみせた。フィルムを切って一本抜き出し、よく観察して口に咥える。僕はタバコを吸ったことがない。
それから車の方へ行って、助手席の足元を捜して発煙筒を取り出した。ラベルを読んで使い方を確認する。なるほど、要約すると、キュッポン!とやり、その瞬間から熱くもなるので注意とのこと。僕はキャップをひねって抜いた。赤紫の、無理に擦り出すような種類の痛々しくケミカルな火が噴き出した。僕はそこに顔を近づけ(ひどい刺激臭だ)、煙草に火をつけた。発煙筒は車の後ろに放り、ベンチの彼女の隣に座った。彼女は大きなため息をついた。
話に聞いた通りだ。初めてのタバコは僕の頭を一瞬グラリと揺さぶった。それから神経の芯に熱い湯が無理に通されるような、とにかく何かの「感じ」がやってきた。そうとしか表現しようがない。けれどもそれは、否応なく実体⋯⋯、実感化した。
「一時休戦だ。吸ってみなよ」
僕は彼女に煙草を渡した。彼女は警戒のある動作でそれを口に運んだ。
「うっ⋯⋯。なにがいいか解らないわ」
「レッカーが来るまでは一時間かかる」
「このまま走るわけにはいかないの?」
「微妙なバランスで、『まだ』砕け散っていないだけかもしれない」
一応は、彼女はその説明で納得したようだった。日が暮れかけていた。彼女は長い考え事の靄の中に座ったまま、その心だけで彷徨って行き、僕は煙草を踏み消して、まばらに点きはじめた車たちの赤いランプを見送った。発煙筒はずいぶん長く燃えていたが、それでもやがては消えた。
「前のカレのことを思い出したわ」
不意に彼女が言った。
「映画スターの話ばかりして、それはいつも長くて退屈で、⋯⋯それで、あるとき持ち出した親の車のカーステレオの調子が悪くなっただけでずいぶん取り乱してたことがあったっけ。あなたより3つも年上なのにね」
僕はその人物像を、丁寧に頭の中に浮かべてみた。
「世の中をたっぷりと信用していたんだろう。優しい人なんじゃないかと思う」
「⋯⋯きっとそうね。そう言われると、悪い人⋯⋯つまり悪人みたいな感じじゃなかったわ。けれども別れようと思うようになった頃には、道路にポイ捨てをしないことよりも大切なことが、人の組成にはきっとあるはずだわって、そう思うようになってた」
彼女は僕が捨てた吸い殻をつまみ上げ、それを更に遠くへ弾き飛ばした。それからほんの少しして、レッカーがやって来た。
「やぁこりゃ、大怪我しててもおかしくなかったですよ」
レッカーの運転手は車のガラスを一目見て言った。
「亀裂で真っ白になって何も見えなくなるか、破片が貫いてくるかの丁度中間です。イメージ沸きます?」
そう言いながら、彼(40くらいの男だ)はテキパキと車をつないだ。ウィンチが回り、台座に顎を乗り上げる。それから三人でトラックの部分に横座りになり、僕ら二人は途中で呼び寄せたタクシーに乗り換えた。
「じゃあ、あとは頼みます」
「災難でしたね。相手が道路管理なので、建て替えた料金はすぐに戻るはずですから。領収書を忘れずに」
最後まで親切な男だった。僕のトヨタを引きずって、男は修理工場に回していった。僕たちはタクシーに乗り(領収書をもらい)、特急の券を買い(領収書をもらい)、珍しく電車の駅から町に戻って来た。新鮮な気分がした。
「ねえ、映画でも観ていきましょうよ」
機嫌の直った彼女が言うので、僕らはまず喫茶店に入って、携帯電話で映画の時間を調べた。何本かの候補が上がった。僕にはすべて「可もなく不可もなく」の域だったが、彼女はかなり迷って一本を決めた。(どんな映画か、今となっては思い出せない)
結局僕は車を乗り換えることになった。トヨタはガラスを支える枠そのものが歪んでしまったらしく、修理をするより同じ程度の車を買ったほうが簡単で、保険屋、道路会社、関わる全ての人間は、そのほうが仕事が楽らしいのだった。
「あの車、嫌いじゃなかったけれどね」
話を伝えると彼女は言った。
「そうだな。簡単なことで大きなものもダメになるし、それを取り替えるのも予想外に簡単だったりするみたいだ」
僕が意見を言うと、彼女は不思議そうに目を合わせてから窓の外を見た。アパートのキッチンだ。そこからは骨ばって宙を掴み損ねたような植木が見える。葉はまだ出てない。
「そこにあったはずの労力なんかは どの隙間に飲み込まれて消えたの?」
僕は昔読んだ本の一節を思い出した。
「イリュージョンだよ。僕らの見てるものは全て ね」
灰皿には僕と彼女の吸い殻が一本ずつひしゃげていた。彼女は次の煙草に火を点けた。
「消えていった労力について、僕以外の考える意見が聞きたい」
彼女は一息吸った煙草を取って指で回し、先端を観察した。
「そうね、きっと、・・マリアナ海溝にでも落っこっちゃったんじゃない?」
その瞬間に僕は、まるで色々な古い記憶をいっぺんに思い出したように冴えた気分になった。
「あのさ⋯⋯」
「なーに?」
「惚れ直したよ」
「薬買って来てあげるから横になってなさいよ」
彼女は睫毛を震わせて目を伏せた、もう一度吸い込む煙草の火口から、ジリジリと小さな音が聞こえたような気がした。
「次の車、一見訳がわからない外車か何かがいいな」
「例えば?」
「そうだな。⋯⋯古いシトロエンとか」
「 ⋯⋯いいかもね」
彼女の気が向いている間は、不思議と現実は話が早い方に転がる。僕は中古車屋に勤める5つ年上の友人に頼んで、正規の注文としてオークションや解体屋を嗅ぎ回ってもらった(言い方は悪いが、友人の口から逐一経過を聞いている印象は実にそのようなものだった。彼も探偵になった気分で楽しんでいるらしかった)。
僕は春が深まっていくのを眺めながらのんびりと待っていた。すると割に早く、古いディーゼルのシトロエンが見つかったのだ。
「すごいぞ。未使用品のシートに積み替えたばかりの後輪駆動車だ。ちょっと見られないくらいに安い」
その後も彼の興奮は続いた。とにかく細かい部品は より新しく よりマシなものへと取り替えられているらしかった。前の持ち主がなぜ手放したのか分からないような車両らしい。本や漫画の中で見る嫌な例を思い出す。
「前の持ち主はなぜ手放したんだろう?」
「⋯⋯なんでだろうな? 分からない」
「そういう時、メジャーなケースにはどんなパターンがあるの?」
この話は夜の8時頃に電話でしていたものだ。回線の向こうで友人が笑った。
「フフ、おまえの疑ってることが分からなくはないけどな。でも心配すんな。実際、そういうイワクほどハッキリ情報が出てくるものなんだよ。隠して売って後で発覚すると、とんでもない賠償になるんだ」
なるほど。僕はそれを信頼できる話ととった。
夏のはじめ、彼女は次に髪を栗色に染めた。割に規則正しい生活をし、気を使って手入れをするために、彼女の髪はいつも調子がいい。緑色の時も、黒くした時もそうだったが、今回も一層美しい発色だ。
「いいな、こんども」
「うん。ありがとう」
それに関する僕らの会話はいつも淡白だ。ただ、一緒のベッドで僕が先に目を覚ました時、朝の光を時間とともに吸い込んでいく彼女の髪を見るのは好きだった。しばらくそうしていてから、僕はキッチンへ行って煙草を吸うのだ。
彼女の髪の色が変わった何日か後に、シトロエンがやって来た。約束の日の昼前にローダートラックがアパートの前に停まり、美しく磨かれた小型の乗用車が例の友人の手によってゆっくりと地面に足を、⋯⋯タイヤを下ろした。その日栗色の髪の女は朝から古い友人と古い画家の個展を見に出かけていた。
「分かったよ、値段の理由が」
彼は後ろのバンパーの下を、端から端まで指差してみせた。
「ここから、ここまで。一度サビでダメになったものを切り取って な、よそから持って来たアルミ板を溶接して磨いて、その後で色を塗り替えてあるんだ。出来上がりは見ての通り。自動車工が部品を外して裏から見ない限り誰かが気づくようなことは まずないだろう。貼った人間の腕がいいのと、あと 金が惜しまれてない」
「これが伝説の一つ、かつて日本人が金持ちばかりだった証拠かな」
「まあ、そう物を横から見るなって。おまえは変わらないな。⋯⋯とはいえこれは、後から発覚したために値引き項目だ。今 計算書を⋯⋯」
「いや、いいよ」
僕は彼の言葉を押しとどめた。
「どうせ よそから転がり込んでる金だし、じゃ 何かあった時の対応で少し負けてもらうって約束で」
「毎度。上客殿。ウチの社長はおまえを気に入ってるよ」
「高い買い物はできないけれどね」
彼は僕の肩を叩いてローダーを引き上げて行った。正午の光の下で見るシトロエンは、美しい光をその身の上に滑らせている。それが僕の目には、時間の流れの中からとりこぼされた斜っぱな孤独を、口笛に吹いている姿に見えるのだった。
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