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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

小さい背中

作者: らら

小さい背中


職員室の窓から見える空は一面厚い雲に覆われておりいつ雨が降ってもおかしくなかった。いや、この寒さなら雪が降るかも知れない。雪などに降られては車通勤である冬司とうじにとって煩わしい事になりそうで、さっさと仕事を片付けてしまった方が得策であると判断すると持っていたペンを勢い良く走らせる。放課後の職員室に居残っているのは、冬司と同僚の遠野とおのだけだ。二人は単なる仕事仲間に過ぎず、仲は良くも悪くもないのだが、狭い室内での沈黙に耐えきれないのか遠野は冬司と話したそうにチラチラと様子を伺っている。正直な所、面倒くさい事この上なかったが、職場の人間関係を円満に保つのも仕事のうちである。冬司はそう思って、ペンを走らせる速度を緩めると僅かな隙を作った。すると遠野は嬉しそうに話し掛けてくる。途端、冬司は笑ってしまいそうになった。彼は少し春希はるきに似ている。


一瀬いちのせ先生の一番好きな季節は何ですか?」

「冬ですね」


遠野の唐突な問い掛けに冬司は迷いなくそう答えた。こんな風に好きな季節を素直に言えるのは遠野のおかげだ。彼は春希に似ているから。


「冬と言えば狐留山の噂知ってますか? 雪少年が出るんですよ!」

「ゆき、少年ですか?」


言いながら冬司は目を丸くした。高校卒業後は他県の大学に進学をした為、しばらく故郷を離れていたのは事実だが地元人である冬司にとって初耳の噂だ。

冬司が幼かった頃は、そう確かーー……。



「いい? 冬司もはるちゃんも狐留山には絶対近付いちゃダメよ。狐留山にはね、こわーいお狐様が住んでるの。ただの狐じゃないのよ。姿は人間によく似てるんだけど、頭には獣耳、お尻には尻尾が生えてるの。で、お狐様に気に入られた子は、知らない世界に連れて行かれちゃうのよ」


小学生になったばかりの一瀬冬司いちのせとうじ篠原春希しのはらはるきの二人が聞かされた話はこの地域では有名な言い伝えである。未開発の土地で入山者に配慮がない狐留山は、鬱蒼とした木々達がまるで山全体を守るように堂々と立ちはだかり、延び放題の草花は独特の湿っぽさを放っていた。そんな狐留山は昼間でもどんよりと薄暗く陰気なので、大人でも滅多に近寄らない場所であったが、二人の通う小学校から目と鼻の先にある為、子供の足でも歩いていける距離だ。好奇心旺盛な子供達なら、人の手が入っていない狐留山に惹かれるだろう。申し訳ない程度に麓付近に立てられた“立ち入り禁止”の看板と少し無理をすればよじ登れてしまうフェンスだけでは子供達の好奇心を抑制出来ない。だから大人達はわざと怖がらせる。狐留山に行けば禄な目に合わないぞ、言い伝えを利用しておどろおどろしく警告する。すると大抵の子供は、大人の思惑通り狐留山には近付かないのだ。


「狐留山へ行こうぜ。狐の化け物なんて面白そうだ」


二人の体格差が少しずつ浮き彫りになり始めた、小学五年生の冬だった。唐突にそう言った冬司の提案に春希は怯んだ。狐留山は散々大人達から脅かされた禁忌の場所である。元来、恐がりである春希は近付く事はおろか、視界に狐留山が入るだけで憂鬱な気分になるくらいだ。しかし冬司の言葉は春希にとって鶴の一声であった。春希は冬司の意見を否定しないし、冬司もそれを知っていて春希を誘った。本当は春希以外も誘ったのだが皆一同に顔を強ばらせて拒絶した。大人達の計った効果は的目である。最も冬司には利かなかったようだが。


山中は冷える。冬だから尚更、凍てつくような寒さが大木の影と共に二人を襲った。大人達が口を揃えて禁止する狐留山とはどんなものだ、と入山前はわくわくしたが、いざ足を踏み入れてみるとただただ野放しの自然が広がっているだけであった。しばらく我慢して歩いたものの冬司の狐留山への興味は萎んでいく一方だ。何より寒いのが頂けない。冬司は冬が嫌いだった。そんな冬司の思いをからかうように大木の隙間からはらはらと雪が舞い落ちてくる。


「やべ! 雪まで降ってきた! なーんもないし、帰るか」


それまで青い顔色で冬司の後ろにくっついていた春希のそれがあからさまに紅潮した。ほっと安堵した表情で大きく頷いた春希は無邪気に喜ぶ。


「うんうん。かえろー! わぁ雪だ雪!」


二人が歩いてきた道を引き返そうとした時だった。


『待て』


突然脳裏に直接響いてくる声はもうそれだけで人間のものではない事が分かる。驚いた冬司達が言葉の意味を理解する前に声の主はその姿を現した。狐は大人達が言う通りの容姿だった。一見すると人間の様だが、獣耳と尻尾がそれを否定している。そんな未知の生物を冬司は“化け物”と比喩したが、実際に見た狐は醜いところなど一欠片も見当たらない。風に揺られてさらさらと繊細そうに靡く銀の長い髪もダイヤモンドの様に気品溢れる銀色の瞳も、透き通るような白い肌や黄金色とも言える獣耳と尻尾もその全てが神々しかった。そんな神聖な狐を前に冬司は怖いうよりも恐れ多いという気持ちが芽生えた。きっと春希も同様だろう。固まったまま動かない二人に狐は足音も立てず近付いた。狐の月の光の様に神秘的な眼差しが春希に向けられる。


『少年、私の元に来ないか?』

「ダメだ!!」


叫んだのは冬司だった。冬司は固まり使い物にならない身体を叱咤しながら狐と春希の間に割り込むと、春希を自分の背に庇おうとした。春希が小柄な事も手伝い、それなりに体格差がある二人だがまだまだ発育途中の冬司の背中では春希の全てを隠し切れない。そもそも冬司のそれは無駄な抵抗でしかなく、圧倒的な存在の狐は春希を連れ去るなど容易く出来るだろう。分かってはいたが、春希が冬司の前からいなくなると考えただけで冬司は足掻かずにはいられなかった。


「春希を連れて行かないで! 春希はダメなんだ! 春希は俺が、……俺の!」


冬司自身、自分が何を言ってるのか分からない。上手く言葉が紡げない冬司は春希が連れて行かれないよう必死だった。冬司の熱弁に狐は楽しそうに笑う。


『今回は諦めよう』


狐のその一言でそれまで張り詰めていた冬司の気力はみるみるうちに抜けていった。身体を上手くコントロール出来なくてふらつく冬司を春希の細い腕が精一杯の力で支える。


「とーじくん!」


衣類越しに感じる春希の柔らかな感触が心地良い。春希が傍にいるだけで冬司の心はこんなにも満たされたが、冬司はその気持ちの名をどう呼べば良いか分からなかった。


「有り難うございます」


うなだれるようにそう言った冬司の瞳はきらきらと輝いている。去り際、春希にだけ何か囁いた狐の凜とした双眸は次に冬司に向けられた。


『泣くな、人の子よ。お前は誇れるものを持っている。お前はどうか、ーーーーー』


全てを言い終えた狐は風と共に跡形もなく消えた。



元々、冬司と春希は仲が良い訳ではない。容姿や性格、趣味、趣向、どれをとっても似ていないので気が合わない。ただ家が隣で同い年の幼なじみという理由だけで一緒にいるのだ。そんな関係だから、年齢が上がるにつれいつまで経っても冬司の後ろにひっつきまとう春希の存在に疑問を感じ始めた。冬司には春希以外の友人が沢山いる。イケメン、と称される事が多い冬司は中学二年に進級した頃には彼女も出来た。しかし春希は彼女はおろか、友人らしい友人もいないのだ。だから余計春希は冬司だけに固執する。未だ幼稚園児気分で「とーじくん」と舌ったらずに冬司を呼ぶ。周りからは「ホモカップル」と面白可笑しくからかわれたりした。いい加減にして欲しい。春希の事は嫌いではないが、幼稚園の頃から否応なしに引き受けて来た子守役からそろそろ解放されたかった。そんな冬司の悄悄たる思いを冬司の周りにいる友人や冬司の彼女である森野もりのは同情してくれたようだ。


「冬司、ハッキリ言った方が良いんじゃない?」


そう森野に釘をさされ冬司も同意した。あれほど自分に懐いている幼なじみを突き放すのは罪悪感はあるが、それ以上に煩わしさがあったのは事実だ。小さい頃からずっと一緒だった故に上手く距離間を掴めていない気がする。自分達は一度離れてみる必要がある気がした。春希の為にもわざと辛辣な言葉を浴びせ、当分距離を置かねばならない。


その日はとても寒い日だった。この地域では何年間振りになる雪が降っていた。傘を差しながらもう一方の手で森野と手を繋いで歩いている冬司の背中を誰かが小突いた。冬司はうんざりする。確認するまでもない、春希だ。


「今日は森野さんと手を繋いじゃダメなの」


春希は他人に言葉を伝える事がとても下手だ。必要な単語を抜すから、何が言いたいのかよく分からない。いつもは根気良く春希が言いたい事を言えるまでつき合う冬司だが今日は違った。


「何言ってんだよ!? 訳わかんねー! 森野は俺の彼女だぜ?」

「だって、とーじくん、今日は……」

「あー鬱陶しい! お前の顔なんて二度と見たくない!」


吐き捨てるようにそう言うと春希は弾けたようにその場から駆け出した。これで良いと、見送った春希の背中は冬司と比較にならない程線が細く、消え入りそうなくらい頼りない。いつも冬司の後ろに引っ付いてた所為か、春希の後ろ姿を見たの久し振りだった。春希はずっと冬司の後ろ姿ばかり見ていただろうに不思議な話だ。貯まらず追い掛けたい衝動に駆られたが森野に袖を引っ張られて我に返る。


「これでいいんだよ。もう直ぐ高校生になるんだもん。篠原くんはそろそろ冬司離れした方が良いよ」

「…………」


本当にこれで良かったのだろうか、湧き上がってきた疑問を誤魔化す様に冬司は小さくなっていく春希をひたすら目で追い掛けた。思ってたよりもずっとずっと儚い背中。

ーーそれが冬司の見た春希の最後の姿になった。


それから一週間後、冬司はようやく異変に気付いた。春希の気配が綺麗さっぱり消えたのだ。最初は単に避けられているだけかと思ったので、さり気なく春希の家の様子を伺ってみたり、春希の登下校する時間を見計らって通学路で待ち伏せしたり、適当な理由を付けて春希のクラスに行ってみたりしたが、春希を確認する事は出来なかった。電話やメールという選択肢を選ばなかったのは“偶然”を装えないからだ。とことん冬司を避ける春希に冬司は苛立ちを募らせる。自分の行いを棚に上げて“ここまで徹底的に避けなくても”と負の矛先は春希に向けられた。怒りさえも覚えた。気弱い幼なじみは頑固な一面を持ち合わせているから太刀が悪い。頭に血を上らせた冬司は春希に直接文句言おうと春希のアドレスを押して携帯を耳に宛てた。もうここまでくると“偶然”を装って取り繕う余裕など冬司は持ち合わせなかった。


『現在この番号は使われておりません。もう一度番号をお確かめの上ーー』

「はっ!?」


無機質なアナウンス音に冬司は素っ頓狂な声が漏れた。次に深い皺が眉間に刻まれる。着信拒否されたと思い至ったからだ。もしかしたら、とメールもしたが案の定宛先不明で返ってきた。ついに冬司は怒りを爆発させた。春希とは距離を置くつもりだったが、徹底無視は納得がいかない。冬司は春希の玄関先にあるチャイムを力任せに押した。中から出てきたのは、春希の母親だ。冬司は春希本人でなかった事にじれる様に忙しく口を動かした。


「春希いますか?」

「はるき? ご免なさい。誰の事かしら?」

「えっ?」


またも冬司の口から出たのは素っ頓狂なそれだ。春希の母親は怪訝そうに表情を歪めると「用がないならまたね」と扉を閉めて冬司との関わり合いを拒絶した。


(なんで!?)


冬司は混乱した。訳が分からなかった。それでも何とか冷静さを取り戻し、手当たり次第、春希の事を聞き回る。しかし皆、春希の母親同様、春希を覚えている者はなかった。篠原春希の存在を知る者は冬司、たった一人だけだ。


(春希?)

『とーじくん』


心の奥で春希に呼び掛けてみれば、簡単に春希の自分を呼ぶ声を思い出せるのに。こんなにも鮮明なのに肉声でない事実が冬司を打ちのめす。


(どこへ行っちゃったんだよ……っ!?)


責めるように問うても春希は何も返さない。変わりに冬司の視界の端を小さな背中が掠めた気がした。冬司は力なくへたり込む。


(先に手放したのは、俺か……)


それまで地元から出るつもりのなかった冬司が、地元を離れようと決意したのはこの事件があったからだ。森野と別れ、春希の思い出を捨てて一人地元を離れた冬司は教師になった。そして再び、春希との思い出が詰まった地元へと母校である小学校へと帰ってきたのである。




「俺が昔聞いたのは狐が出るって噂なんですけどね」


しばし思い出に浸っていた冬司はそう呟いて現実へと帰ってきた。


「ああ、狐も出るみたいですね。雪少年と違って狐は季節関係ないみたいですけど」

「季節?」

「雪少年はね、雪が降る日にしか現れないそうです。だから雪少年。不思議ですねぇ、何で雪の日にしか現れないんでしょう?」


ここまで言い終えた遠野はハッと息を飲む。冬司が泣いていたからだ。しばらく冬司の涙を呆然と眺めていた遠野はやがておろおろと慌て始めた。


「一瀬先生!? どうしましたか?」

「すみません。いきなりこんな」


謝るだけで精一杯の冬司の涙は止まらない。さほど親しくもない遠野を困らせるのは本意ではないが、彼に気を配る程の余裕は残っていなかった。今、冬司の脳裏にあるのは春希の事だけだ。あの後ーー狐が消えた後、どちらからともなく手を取り合って下山した。


『あー寒ぃ、早く冬終わんねーかな。春よこいこい』

『とーじくんは冬嫌いなの?』

『嫌いだね。人間も冬には冬眠すりゃあ良いんだよ。熊みたいにさ』

『僕は冬大好きだよ! 冬の空は綺麗だし、空気は澄んでるし、日差しは優しいし、それにとーじくんの字にも“冬”が使われてるよっ!』

『……まぁ冬でも今日みたいな雪の日は悪くないな』

『うん! ……ねー今度また雪が降ったら、こーして僕と手を繋いでくれる?』

『何言ってんだよ』

『約束!』

『やだ』

『約束して!』

『……嫌だ』

『やーくーそーく!』

『……はいはい分かりました。約束すりゃあいいんだろ。春希ってさ意外と頑固だよな』

『えへへ、雪の日が楽しみ』


ーー雪少年はね、雪が降る日にしか現れないそうです。


雪少年の正体を確信した冬司は狐の言葉を思い出していた。


『泣くな、人の子よ。お前は誇れるものを持っている。お前はどうか、そのままで』


人は変わっていくものだ。冬司はあの頃に比べ色んなものを無くしていた。しかし変わりに色んなものも手に入れた。あの日、あの時、庇い切れなかった春希の小さな背中。当時とは比べものにならない程に成長した今の冬司の背中ならあの日の春希をすっぽりと隠せるだろう。果たしてまだ間に合うだろうか。もう一度手と手を取り合えるだろか。


「あっ、雪が降ってきましたね」


遠野のその言葉が合図となった。

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