壱章・発端……始まり・1
いつからだろう、ユイはぼんやりそう考えた。
暗い廊下を明かりも靴音もなしにすいすいと歩く。今宵は新月、月すら顔を出さない闇の日だ。夜の住人がひそやかに動く日。そんな中ユイは静かに暗闇を行く。
手にはいつもの傘。外は雨。雨音だけがほとほと、ほとほと耳を打つ、静かな夜だ。
ぽつんぽつんとユイの傘からも雫が滴っている。彼女が歩を進めるたびに廊下に染みが落ちていく。外の雨はかなり激しくなりそうだ。都合がいいといえばいい。雨が激しくなれば目撃者も減る。
星明りのみの新月の日に雨が降るとは、ついていないことだ―――この館の住民にとって。
ユイは見えるものもないだろう暗闇の中でひょいと何かをまたいだ。
もはや動かない何かを。同時にぐしゅりと濡れた感触が靴裏に伝わるが、彼女は意に介さずそのまま進む。目的は果たしたのだ。長居は意味が無い。
階段まで来たときふと思い出した。そういえばここには息子がいたはずだ。両親は確認したが、息子の確認はしていない。するべきだろうか、と考えたとき視界の隅で何かが動いた。考えるより先に動いている。袖の中に仕込んでいた小さなナイフを投じていた。
「……ッ」悲鳴はなかった。
闇をすかして見ると倒れている人影が確認できる。逃げようとしたのか、それともユイが何者なのか確認しようとしたのか分らないが、愚かなことだと彼女は思う。
ユイの視界にこの暗闇はなんら妨げにはならない。暗視スコープなど必要ないのが『裏』神官なのだから。
近寄って何者なのかを確かめる。顔の造作からこの館のメイドの一人だろうと判断した。すでに息は無い。ユイのナイフは首に突き刺さっていた。無造作に回収、メイドのパジャマで血をぬぐって、彼女は階段下をうかがう。
……他に誰かが起きてくる気配はなさそうだ。
けれど彼女は階段をおりるのはやめにした。くるりと振り返り、すぐ脇の窓に手をかける。
3階の窓には掛け金すらかかっていなかった。こんなところの防犯など考えもしなかったのだろうか、あるいは警備システムを信用していたのか。システムなどすでに彼女の手によって叩き壊されているというのに。
警備室など真っ先につぶした。中にいたガードマンも同様に2度と喋ることはできまい。
いつからだろう、彼女は再びそう考える。雨がたたく窓を開きながら。
いつからわたしはこんなことが平気になったのだろう?
ばしゃばしゃばしゃ。雨はひどくなり始めている。まず彼女は窓枠につかまり、体をくるりと外へ出した。見る間に雨が体を濡らしていくが構わない。
片手の腕力だけで自分の体を支え、もう一方の手で窓を閉める。
それからためらいなく彼女は雨の中に身を投じた。
数秒の自由落下の後、少女は難なく地面に着地している。ぱちぱち当たる雨粒にかまわず、ユイは走り出した。裏庭を走りぬけ、すぐに館を取り巻く塀にたどりつき、足を止めずに跳躍する。
5mはある塀をユイは易々と飛び越えてのけた。外へ出てからようやく傘をさす。
もはやずぶぬれの身には意味がないようにも思えたが、証拠隠滅にはちょうどいい。雨が全てを洗い流してくれる。
彼女のマントから滴る雫は紅い。制服は雨で濡れていたが、マントは違った。傘から滴るものも紅かったが、雨の勢いですぐに色を失い透明な雫になった。
それを見届けてから、ユイは手袋を外した。指紋を残さないため、けれど指先の感覚を鈍くしないために、外科手術に使うような薄手の透明な手袋だ。支給品のため捨てることはできないので、スカートのポケットに突っ込む。
これで見た目は普通の女子高学年だ。
もっともこんな時間に女子高学年の生徒がうろうろしていたら、まず間違いなく補導だろう。ややこしいことになる前にさっさと移動するに限る。
迎えが来る予定の場所は走ればすぐのところだ。彼女の足なら数分とかかるまい。
けれど彼女は走ろうとはしなかった。少し考えたかったのだ。湧いた疑問は瞬間的なものではない。もうずっと前から、度々思ったことだった。
『何故、こんなことをしなければならないのだろう?』
それは1人手にかけるたび大きくなる疑問だ。
『わたしはこんなことがしたかったのか?』
未来ある少女の疑問としてはあまりにも痛々しい。
『どうして、こんなことをしているのだろう?』
その疑問を抱くことすら今まではしてこなかったし、できなかったのだ。
『わたしはこんなことをしていて楽しい?嬉しい?』
――否。それだけははっきりと言える。
『なにがしたかったの?』
答えは出ない。彼女はその答えを己が内に持っていない。
ただ分るのはこんなことは嫌だということ。今夜手にかけたのは、見知らぬ家族。
両親と祖父の三人。何故殺すのか、彼女はその理由すら知らない。任務だから詳しく知る必要もなく手を下した。それがおかしいことは気がついている。
『やりたくないこと』なのにやらなければならないこと。
抜け出す方法をユイは知らない。
『裏』神官をやっていることに耐え切れなくなり、逃げたものの末路を知っている。
どうあがいても逃げられないのだ。機密を知っている『裏』神官が一般人に戻ることなど許されない。
結果は、自身の死だ。
逃げた者で逃げ延びた者はいない。少なくともユイの知るところではいなかった。
いったん裏神官になった者が表の世界に戻ることはほぼ不可能。
たとえそれが、なりたくてなったものではなくとも、だ。
そしてユイには裏神官をやめてもどう生きたらいいのか分らない。
それ以外の生き方を許されないように、物心ついたときにはもうすでに訓練が始まっていた。売られたのだと、10歳になったときに聞いた。貧しい家に生まれた彼女を生活に困った親が売ったのだと。
よくある話だった。貧しくてどうにもならなかったのだろう。その後自分の家族がどうなったのか、彼女は聞こうとはしなかった。どこかで幸せにやっている、それでいい。今会っても自分は家族と分らない。覚えていない。ならばいないのと同じだ。
彼女はそう思っている。
それがどれだけ殺伐とした感情なのかも知らずにいる。
雨の中で、彼女の足はしばらく止まった。
『このまま、迎えの車に行かずに、立ち去ったらどうだろう?』
そんな感情がふと湧いた。戻らずにどこかへ行く。
それはとても魅力的な考えに思えた。どこでもいい。何処か遠くへ。
――ありえないことだ。どこへ行っても五皇国内にいる限り、すぐに居所は知れる。
五皇国のネットワークは、彼女がアリの巣にもぐっても見つけ出すだろう。
セイリオスの裏神官だけならず、殺戮者セトラの後継者とまで言われている彼女が、逃げることなど許されない。
……不本意だ。『銀の殺戮者』セトラ・オウンゴン。ユイに技術を教え込んだ女性。
いわば師とも呼べる存在だが、ユイはセトラが嫌いだった。後継など冗談でも嫌だった。
それなのに感情と相反するかのように任務達成率は高く、今回の任務もその腕前を見込まれたからだ。意に反して『セトラの後継』としてのユイの名は、どんどん回りの重鎮に知れていく。
そして回されてくるのは困難な任務だ。『セトラの後継』ならこのくらいは当然できるだろうと。
『……ここから出て行けるかな?』
しとしとと降りしきる雨の中、彼女は足を踏み出した。
向かう先は、一台の車が止まる場所。
外見はごく普通の乗用車、窓がスモークになっているのが少し不自然だ。ユイにはすぐ分った。迎えが業を煮やして来てしまったらしい。
定刻など決めていなかったはずだが、ひょっとすると何かあったのかもしれない。
……もう次の任務という可能性もある。
傘で自身の顔を隠して彼女は息をついた。
まるで監視でもされているかのようだ。いや、実際されているのだろう。どこで何が起こっても即座に無かったことにするために。彼女はセイリオスにとって捨て駒だ。
代わりはいくらでもいる。身寄りのない子供をつれてくればいいだけのことだ。訓練に時間はかかるだろうがセイリオスにとってさほどの手間ではないだろう。
ただの駒。代わりは利く。いくらでもいる。彼女でなくてもいい。
足が重い。車に近付きたくない。こんな風に思うのは初めてだった。
戻りたくない。
でも逃げられない。
どこへも、行けない……。
『ほんとうに?』心がささやく。
『ほんとうに、どこにもいけない?』問いかけは弱く、心もとない。初めての自身の疑問。
今まで任務ばかりで、自分では何も考えてこなかった少女の、想い。
『わたしは一体なにがしたいんだろう?』
夢も希望も抱くことが許されなかった。今も抱いてはいない。
けれど何かが確実に彼女の中に芽生えつつある。
ヒニアでの少年の言葉。
いけすかないケイ・カゲツとの会話。
あの日庭で楽しげにしていた双子。
あの人たちと自分の違い。
それは一体、なんだろう。
車が近付いた。窓が開く。
「おむかえにあがりました。ユイ・ヒガ。全て滞りなく済みましたか?」
無骨な男が顔を出し、彼女にそう聞いた。ユイはうなずくだけで、言葉は発さず後部座席に乗り込み、用意されていたタオルで体を拭う。
じんわりとわずかに紅く染まるタオル。まだ多少返り血がついていたらしい。雨は全てを洗い流してはくれなかったようだ。
確か、と彼女は思い返す。
確か最初はこんなことは嫌だと何度も訴えていた。やりたくない。怖い、嫌だ、こんなことさせないでと子供心に必死に訴えた。血をみるのが嫌だった。
いつから平気になったのだろう。こんなに無造作にやれるようになったのだろう。
多分自分はあの日庭で戯れていた双子でも任務とならばあっさり手を下した。
そしてなんとも思わずに次の任務に向かっただろう。今夜のように。
確かに化け物だ。
自覚しなくては。どうやってもこの生き方以外はできない。
人間兵器『裏』神官である以上、他の生き方など許されな―――。
『……ほんとうに?』
わずかに頭を振ってささやきを追い出す。こんなことを考えても意味が無い。