終章・できること
「……許されることではありませんよ……」
滴る鮮血をおさえながら呻くような声音でセトラは呪詛を吐いた。両目は完全につぶされた。目が見えなくとも彼女なら戦うことは可能だが、いまは相手が悪い。
生徒は師を超えた。ほんの一瞬だったとしても、その一瞬が全てを分けた。
セトラはそれを理解していた。
そして、たとえユイを倒したとしてもその後ろには『破滅』がいる。
「その子を……『破滅』を解き放てば、この世界は終わるのです。全てが滅ぶと……理解しているのですか?」
「そのつもりで来た」
ユイはあっさりとそう答えた。
「わたしもケイももともと世界を滅ぼすつもりでいた。そうでなければラグドラリヴまで来るわけがない」
『破滅』が世界を滅亡させる終焉を望んでいた。自身の死も含めた一切の終わりを求めてここに来た。世界と一緒に心中するつもりでいた。
「でも。ここにいたのはツバサだ。外を知らない、何も知らない女の子だ」
光翼の少女は心配そうにユイのそばにふよんと飛んで来た。ユイの頬から流れる血を見て痛そうに顔をしかめる。それから手を伸ばしてユイの頬にふれた。
「いたいのだめ」
それだけで、かなり深かった傷は瞬時に消えた。
「ツバサは治癒もできるのか。万能だなぁ」
ケイがそう言ったのでユイはそこで初めて自分の負った怪我が治ったことを知った。頬に触れてみる。さっきまでの熱のような痛みはなく、指先には血もついてこない。
必ず傷跡が残るだろうと思っていたがこの分では跡形もないようだ。
「ありがと、ツバサ」
笑いかけると『破滅』の少女は嬉しそうにくっついてきた。
「本気で……言っているのですか」
セトラが呻く。
「世界を滅ぼすと、本気でっ!」
「その気だったさ」
ケイもまた、至極あっさりと言ってのける。
「過去形だけどな」
世界が嫌いなことに代わりはない。今でも吐き気がするくらいこの世界が嫌いだ。滅ぼしたいとも思う。なくなってしまえとも思う。
その力を求めてここに来た。
「でも、実際に出会った『破滅』がツバサだったからな」
「そうだな」
ユイはうなずいた。
「いたのがツバサじゃなかったら確実に世界を滅ぼせと頼んでいたんだが」
それは本心だ。あの場所にいたのがツバサじゃなかったら、ユイたちは迷わず世界を滅ぼしている。
「まぁ。世界も俺たちも命拾いしたってことだ。ツバサをほうって死ぬわけにいかなくなった」
ツバサに向かっておいでと手を振る。子犬のようにツバサはケイの方へ飛んできてじゃれ付いてくる。
ユイとケイのかわいい『破滅』。
この子をこんな風に思うのは自分たちだけだろう。他の人間は少女を恐ろしいとしか思わない。利用しようとしか思わない。
「行こう」
ユイはケイにそう言って刃を納めた。セトラが襲ってくる様子はない。こちらの考えが理解できなくて呆然としているのだろう。セトラは護るものであり、滅ぼすものではない。
だからこちらの考えが理解できない。
その気持ちも今のユイたちには分かった。自分たちがどれだけ馬鹿なことをやろうとしていたのかはよく理解している。
ただ、死にたかったのだ。死に場所を探していたのだ。戻ることなど考えずにラクになろうと思った。この腐った世界で生き続けるのは苦痛だった。
未来は真っ暗だったから、道のないところを歩くのが怖かった。この先に何があるのかも分からないのに、希望など持てなかった。
自分勝手なものだ。全て『破滅』に押し付けて、自分たちだけラクになろうとした。
――いまはそれも理解できる。
ユイとケイはツバサを連れてセトラに背を向け、歩き出した。向かう先にヒニア。
けれどそれから先はどうなるか分からない。
状況は以前より遥かに暗く不透明なのに、今の彼女たちにはそれが重荷ではない。
苦しくつらい未来が待っているのは確実だ。
なにせ連れているのは『破滅』なのだから明るい未来などありえない。
「これからどうする?」
それなのにケイの声は明るい。
「どうするって、逃亡生活しかないだろう」
それなのにユイの声も楽しそうだ。
「とーぼー」
ツバサはいつもどおり、分かっていない。少女に苦笑してからケイはユイに訊いた。
「お前、金いくらくらい持ち合わせある? 俺は旅行を装ってきたからそれなりに持ってる」
とりあえずこれからのことを考える。まずヒニアに抜けてからどうするか。
何をするにしても金が要る。
「わたしは給付金が出たばかりだから……」
歩きながらお互いの手持ちを言い合ってその時点で何ができそうか考えた。
幸いというか、ユイもケイも結構な額を持ち歩いていた。これなら三人でも二ヶ月は何とかなる。二人とも自国の銀行に口座を持っており、そこには年齢から考えると不相応な額が入っているが、こうなってしまった以上、預金を下ろすのはまず不可能だろう。
と、なると無駄遣いはできない。
「まずツバサの服を買わないと。いつまでも上着一枚じゃかわいそうだ」
「俺たちのもだろう。このまま制服着てると目立つ」
言いながらケイは耳のイヤリングを外して投げ捨てた。ユイも髪留めを草むらに放り込む。
五皇国の僕である証の六芒星がついた制服。多機能で便利ではあるがもう自分たちには必要ない。彼女たちはもはや五皇国の奴隷ではないのだ。
これから、自分たちの足で歩いていく。
他の誰にも真似できない道を、他の誰でもなく――自分たちで。
「当座の金はあるか。飢え死にすることは避けられそうだな、良かった」
「あー、国境を出たらまず腹ごしらえだな、それから睡眠だ。いい加減疲れた」
夜が明けようとしている。ずっと歩いていたし、徹夜だったのでケイは疲れきっているようだ。ユイもセトラと戦ったので精神的には疲れてはいたが、体力的には元気である。一晩や二晩でどうにかなるようなら裏神官などやっていない。
「腹が減っているのか? チョコならあるぞ」
「くれ。疲れたときは糖分だ」
遠慮しないケイにウェストポーチからチョコを出すと、ツバサが興味津々覗き込んできた。
「これはね、チョコレートだよ」
「ちょこ」
ちょうど二枚買っていたので一枚をツバサに手渡す。受け取るとツバサは物珍しそうにひっくり返したりして眺めている。食べ物と分からないのだろう。
「食べる物。ほらケイが食べてるでしょ?」
半分ほど包み紙を剥いでぽりぽりかじっているケイをさす。
それを見て理解したのか、はたまた単に真似したいだけなのか、ツバサも嬉々として包み紙を剥いでいく。単に紙をはがすこと自体が楽しそうにも見えた。
「かじってごらん。美味しいよ」
うながすとツバサはパクリとかじりついた。
かりぽりとしばらく噛んで、目を輝かせる。どうやら気に入ったらしい。
「ちょこ!」
あっという間にパクパクと食べてしまった。なんだか木の実を食べる小動物を連想してしまったユイである。可愛らしい。
「ジュースもあるよ」
果汁を買ってあったことも思い出し、ポーチから出してツバサに渡した。ペットボトルも初めて見たらしいツバサは、大喜びでさかさまにしたり振ってみたりしている。
飲み物というより遊び道具と思っているのか。そうじゃないんだけどなぁと笑って、
「これはね、飲み物。こうやってふたを開けて、ここから飲むんだよ」
ふたを開けてやり、飲み方を教えてやるとちょっとこぼしながらも何とか飲んだ。
「じゅーす!」
これも気に入ったらしく、嬉しそうに目を輝かせている。
「……餌付けしてるみたいだな……」
ケイも苦笑して呟く。それからふと気付いたようにツバサに注意した。
「ツバサ? 俺やユイからならいいけど他の人間から食べ物をもらっちゃ駄目だぞ? 外には食べ物買ってあげるとかいって連れていこうとする変なやつもいるからな」
「へんなやつ」
コクコクうなずくツバサである。分かっているのかは非常に怪しい。
常識をいろいろと教える必要がある。なにせ法王の話ではツバサは五百年も眠っていたのだ。当時の常識と今とではかなり差があるだろうし、そもそも少女は一般常識を持っていないように思える。
……ゆっくり教えていこう。ユイはそう思った。
時間はたくさんある。状況は緊迫していても、ツバサとすごす時間はこれからたくさんある。ケイと二人でこの子にいろんなことを教えてあげよう。
常識も言葉も、嬉しいこと楽しいこと、いろんなことを教えてあげよう。
絶望ではなくて、希望を。暗いものではなくて明るいものを。
そんなことを考えながら、セイリオスの裏神官とイグザイオのエリート軍人は『破滅』を間に進んでいく。
ツバサを解き放った以上、国には当然戻れまい。禁忌の地で眠っていた『破滅』がこんな少女とは夢にも思っていなかったが、今となってはこれで良いような気がしている。
『破滅』は開放されたが、世界はまだ続いている。終わるどころか『破滅』は外の景色に興味津々で目を輝かせて日の昇りかけてきた周りを眺めている。
そのうち飽きれば世界を滅ぼすのかもしれないが、今のツバサを見ていると浮かぶ言葉は『破滅』ではなく『天使』だ。
「しっかし……見た目に騙されてる可能性高いぞ?俺たち」
ケイがぼやく。法王に聞いたことが今更ながらによみがえる。
五百年前の天変地異。圧倒的な力。人間ではないもの。
『破滅』。『厄災』。世界を滅ぼすもの。それはこちらの考えでは図りきれないものだろう。人間の考えでは到底理解できないものだ。分かり合えないかもしれない。
「ツバサが気を変えて俺たちをさくっと殺す可能性もある」
とは言うもののケイは大して警戒してはいない。
「ツバサになら殺されてもいいって気はするが」
「わたしもだ」
なんてことはない。ツバサが世界を滅ぼそうとするならそれでいい。
世界を護ろうとするならそれでいい。
そう考えているだけだ。
ツバサの意思を護ろうと思った。
この子に世界の滅亡を願うことはできなかった。
けれどツバサが『破滅』であることは間違いない。それは避けようのない事実だ。
ならば――世界を敵に回してもこの子を護ろう。
世界は醜い。腐っていて、澱んでいて、歪んでいて、病んでいて、汚れていて、壊れている。簡単に絶望する現実がそこかしこに転がっている。
でも。
「あれは? なぁに?」
ツバサが水色の目をキラキラさせて訊いて来る。
こんなに醜い世界でも喜ぶこの子がいるうちは捨てたものではないのかもしれない。
護りたいと思う何かがあるうちは――世界の存在を祝おう。
この腐りきった世界でも、輝く何かがあることをユイとケイははじめて知った。
これにて「みえるもの・できること」は完結です。
きっと、三人には追っ手がかかるでしょう。それでも、三人とも幸せに過ごすでしょう。
ユイとケイはできることをみつけ、ツバサは信頼できる相手を見つけたのですから。
長らくお付き合いありがとうございました。