四章・壁……越えるべきもの・5
ひとつうなずいて、ユイはケイの意見を実行に移そうとした。法王さえおさえてしまえば、他のやつらは手出しできまい。法王はごく普通の人間のはずだ。ユイなら労せず捕まえられる――動こうとしたとき、ユイの中の何かが止めた。それはいままで培った経験が告げたものだろうか、やばいと彼女の何かが告げている。ケイの襟首をつかみ、ツバサの肩を抱き法王から距離をとる。ケイが、げふっとか言っていたがとりあえず無視した。
「どうした? 怖がらずとも良い」
法王はそう言っていたが、反応したのは今まで黙っていたツバサだった。
「またきた。やなやつ」
本当に嫌そうだったので、ユイにも誰をさしているのか理解できた。ツバサと出会ってからまだ短いが、短いゆえに少女が嫌いだと公言する相手はたったひとりだけ。
この嫌な予感はそのせいか。
「セトラ・オウンゴン……」
気配はしない。ユイに気配を悟られるようなセトラではないだろう。だがこちらにはツバサがいる。どうやって感知しているのか不明だが、ツバサが言うならセトラはどこかでこちらの行動をうかがっているのだ。法王に手などかけたらその瞬間にバラバラにされる。
どうする? このままではジリ貧だ。法王の要求を受ける気など爪の先どころか細胞のいっぺんほどもない。
「ユイ、ケイ、こまってる?」
ツバサが見上げてきた。どうにもならない雰囲気を感じ取っているのだろう。
「あいつら、じゃま?」
包囲網を指さす。ツバサにさされて怯えたのか包囲は一歩下がった。
「あっちいけする?」
ツバサにあどけなくそう訊かれユイは言葉に詰まった。たしかにツバサに頼めば、確実に安全に逃げられるような気はする。だが、安易にこの子に頼ってはいけないとも思うのだ。
ツ バサには幸せをあげたいから、汚れた自分のように人を害する術を覚えて欲しくない。
地下でケイの頼みをツバサはあっさりとかなえた。ユイが頼んでもかなえてくれるだろう。簡単にツバサに頼むことができるし、ツバサが頼みを聞いてくれるとわかっているから、なおさらこの子におぶさるような真似はしたくない。
「ううん、いいよ。わたしが何とかするから」
安心させたくて微笑みかける。
「何とかする? どうしようというのだね。罪は問わぬと言っておるだろう? 警戒することなど……」
なおも何か言おうとする法王をユイは睨みつけた。ツバサへの態度とは真逆である。
さっきまであった一応の礼儀も捨て去り、彼女にあるのはいまや完全な法王への敵意だ。
殺意ほど強くはないが充分に相手を警戒させるもの。さすがの法王もあからさまな態度に数歩後退した。それで充分に間合いが取れる。先ほどケイが押し付けてきた品を投げつけると同時にツバサとケイを抱え込んで地面に伏せた。
鼓膜を揺るがす炸裂音とうめき声。それからユイは身を起こした。
「ひょーー?」
ツバサが目をくるくるさせながら起き上がる。ケイは頭を振ってから起き上がった。
「……いきなりだな、おい」
「お前が渡してきたんだぞ」
小型の閃光破裂弾である。音と光と衝撃で相手を気絶させるシロモノだ。直撃すればトラでも倒れる。ユイたちは伏せていたし、法王や包囲の人間が盾になったようなものなので、多少耳が遠いが無傷であった。
「あんなもの持っているならもっと早く出せ」
ケイに言いながらユイは刃を抜いた。倒れている人間はあと一時間は起きてこない。
「……というかわたしは余分なものは置いて来いと言わなかったか?」
「言ってたな。余分じゃなかったからいいだろう?」
言いながらケイはツバサを抱えてユイから距離を取った。その視線の先にはさっきまではなかった銀色の影がある。
「わたくしと戦うつもりですか」
「そのほかにどう見える? セトラ・オウンゴン」
「あなたではわたくしにはかないません。無駄な抵抗はおやめなさい」
「そうだな、多分その通りだ」
セトラにはかなわない。それはセトラが愛用している鋼線を使っていた場合なら、だ。その鋼線はツバサが蒸発させた。同じものはないのだろう。セトラは予備の武器なのか、手に剣を持っていた。それはいつもの武器とは全く違う。
いかにセトラが達人でもそれならば。
「でも、万が一ということもある。それに」
ユイは自分の背中の気配を感じる。
「わたしには負けられない理由ができた」
そこにはケイがいる。すこぶる嫌なのだがいまでは同じ想いを持つ者だ。
その腕の中にはツバサがいる。何も知らないユイとケイの可愛い『破滅』。
――彼女が護るべきもの。なによりもただ、護りたいと思うもの。
この世界で唯一輝いていると感じるもの!
「……愚かですね、『それ』はあなたに護られるほど脆弱な存在ではありません」
「そうだろうな」
セトラの声にもユイは揺らがない。
「なんせ『破滅』だもんな? ツバサは」
ケイも言う。彼も揺らがない。ツバサは分かっていないのか、ケイに抱っこされてご満悦だ。嬉しそうに笑っている。
「そんなもん、確かに護る必要はないんだろう。でも、俺たちはそうしたいからする。理屈なんて知るか」
「理屈男のお前が言うか? えらい方向転換だな」
ケイをちゃかしながら、ユイはセトラと向き合った。そこに気負いはない。地下でセトラと向き合ったときとは全く違った。ツバサがなんなのか理解したうえで、自分がこうしたいのだと確信したからだろう。余分な力が入っていない。
化けたな、とケイは思った。今のユイを倒すのは結構骨だろうとなんとなく思う。開き直っただけかもしれない。けれど今のユイは過去の彼女とは違う。空虚で絶望しか知らなかったケイと同じものを持つ女。
ラグドラリヴに来て、ケイが変わったようにユイも変わった。
「ユイ、がんばる」
無邪気に応援する『破滅』と出会って彼女も彼も変わったのだ。
「がんばるよ」
ツバサに答え、ユイは刃を師に向けた。
負けるかもしれない。死ぬかもしれない。昔はそんなことなんて怖くなかった。自分がいつ死んでもなんとも思わなかったろう。
今は、怖い。死にたくない。生きていたいと思う。
ユイの心に生まれたものはなんなのだろう。彼女自身にも分からない。
「……その子は人間に見えても人間ではありませんよ。形が似ているだけです。少女の姿をしていても内実は全く違う」
セトラは剣を構えた。落ち着いた声で落ち着いた態度でユイに刃を向ける。
「いわば化け物です。それでも護るというのですか?」
その鋭い眼光にさらされてもユイはひるまなかった。以前ならこうして向き合っただけでセトラにはかなわないと感じていたのに、不思議だ。
丈の長い草の中で走り回ることは出来ない。リーチでは背の高いセトラのほうが上で、さらに彼女はユイよりも強化されている。薬物だけでなく機械強化も受けているはずだ。まさしく人間兵器である。普通に考えたら勝てる可能性などないに等しい。
「愚問だ、セトラ」
ユイの返答にセトラは速く、正確にユイの喉を狙ってきた。もはや問答は不要、処分すべしと判断したのだろう。『破滅』を開放しただけでなく、法王にまで狼藉を働いたユイたちを許すつもりなど最初からないのだ。
そしてユイもセトラのその考えを理解していた。躊躇なく急所を狙ってくるだろうことも予想できる。セトラに迷いが無いようにユイにも迷いはない。刀を突き上げ、火花を散らしながらセトラの剣の先を逸らす。空を切った剣先が戻る前に身を沈め、下方から再び突き上げた。 セトラは軽く身をそらしてすんなりと避け、剣を振り下ろしてきた。
月光を裂くような刃の輝きがユイの頭上に落ちてくる。ユイは足もとから身を滑らせた。
靴先から小さな刃が飛び出ている。逆立ちするような体勢で、つま先を蹴り上げた。
セトラはかろうじてそれをかわしたが、ユイは宙で一回転しながら刀を振るい追撃する。刃先はそれでもセトラの頬をかすっただけだ。
「……人間か、あれ」
互いに体勢を整え、再び対峙するユイとセトラを眺めながら、ケイは引きつって呟いた。
さすが裏神官のトップクラス。見ているケイの手のひらも、じっとりと汗がにじんできた。
「……わたくしに手傷を負わせられるほどになりましたか……惜しいです、ユイ・ヒガ。もう一度考え直しなさい。あなたほどのものを殺すのは忍びない」
「何を心にもないことを。法王に乱暴を働いたものをあなたが許すわけがない」
セトラが法王に関することを譲らないように、ユイにも譲れないものができた。ここで甘言に乗ることはできない。
「あなたが法王を裏切ることがないように、わたしにも裏切れないものができた」
水平に刃を構える。リーチを補えるものは突きしかない。セトラもそれは理解していて、同じように剣を構えた。
ユイの意思を阻むように。
「……残念です」
決して相容れない、世界を護ろうとするものと滅ぼそうとするもの。
その意見が交わることは無いのだ。
護ろうとする腐った大人たちと、滅ぼそうとする病んだ子供たちが、互いを理解することは無い。
もはや道は分かたれた。
ユイは刃を突き出した。
セトラもほぼ同じタイミングで剣を突き出す。
全ての音が消えたのをユイは感じた。セトラの剣が迫ってくる。それはとてもゆっくり見えた。自分の腕もとてもゆっくり進んでいく。こんなこと本の中だけの現象だと思っていたが、実際あるんだと妙にのんきに考えた。
このタイミングのままなら間違いなく先に貫かれるのは自分だ。
だが、セトラも死ぬ。剣がユイの目を突くのとわずかに遅れて、刀はセトラの首を裂くだろう。
相討ちか、悪くない。わずかの時間でそう思った。ツバサはケイが護ってくれるだろう。
この場さえしのげば、ケイはツバサを連れて上手く逃げられる。
セトラを道連れにできるのならたいしたものだ。
剣が届くその瞬間にユイは笑った。
護れるのなら、命を懸けてもいい。そんな存在に最後に出会えた。
だから、いい。ひそかな自己満足に浸った瞬間、聞こえたもの。
「ユイ!」
自分を呼ぶ二種の声。
考えるまでもない、二人の声だ。
ああ、と思った。
わたし、死ねない。
渇望のような死への誘惑が完全に断ち切れた瞬間だった。
ユイは身をひねりながら自分でも驚いた。自分にこんな動きができるとは思っていなかったからだ。セトラの剣はユイの頬を削り、ユイの刃は空を切る。けれどユイは勢いよく身を回転させて、マントを跳ね上げた。
特殊鋼糸が織り込まれたマントは、刃が空振りしたことを見て追撃を重ねてこようとしたセトラの両目を切り裂いた。
その瞬間に勝負はついて――大人と子供の決別は成された。
次回、エピローグを載せます。