四章・壁……越えるべきもの・1
「ここで何をしているのです」
冷たい声が通路に響く。武器を構えているこちらに対して身構えもしていないのは絶対の自信の表れか。
ユイなど自分が手を下すほどの相手でもない、と。
セトラ・オウンゴン――セイリオス第壱位の裏神官である。地位だけでなく実力もかねた第壱位だ。ユイの戦闘術の師でもあり、彼女がかなわない唯一の相手でもある。
「こたえなさい、ユイ・ヒガ」
答えも何もここにいること自体が答えだ。それはセトラにも分かっているはず。
それでもあえて訊いてくるということは、弁解しだいでは殺さないということだろうか?
……いいや、セトラはそれほど甘くない。ユイはそう理解している。たとえ技を教えた弟子であろうとも、必要となればためらわず殺す。
セトラがこだわるのは自身が仕える法王の身の安全だけだ。法王を護るためならどんなことでもする女である。法王を狙った暗殺者は全てセトラに阻まれ、返り討ちにあっている。
それが法王の身内であっても例外はなかった。数年前、法王の叔父が暗殺をたくらんだことがあった。実行者は別の人間だったのだが、セトラはいとも簡単に実行者を捕らえて尋問し、黒幕の存在を知るなり暗殺に走ったそうだ。
襲撃からわずか数時間しか経過していなかったという。すさまじいスピードはセトラの有能さと非情さを示している。
ユイたちを殺すことなど瞬く間にやってのけるだろう。セトラにはそれができるのだ。
ましてこちらにはケイとツバサという足手まといがいる。ユイ一人だったとしてもおそらくはまだ勝てない。もう数年もすれば勝てると思っていた相手ではあるが、今はまだ無理だ。ケイとツバサを置いていけば逃げられるかもしれないが、そのつもりは毛頭なかった。
ケイだけならともかく、何も分からないツバサを置いていくのは大嫌いな五皇国がやることと同じことだと思うからだ。
弱いものを見捨てるのは――五皇国と同じになるのは死んでも嫌だ!
ユイは手のひらがじっとりと汗ばむのを感じながら口を開いた。
「あなたこそ、何故ここにいるのだ、セトラ・オウンゴン」
「訊いているのはこちらです。質問に答えなさい」
セトラは無碍もない。隙あらばどうにかして斬りかかろうとユイは構えてはいるものの、無造作に見えるたたずまいには全く隙が見えない。これがユイとセトラの実力の差だろう。
動けない。動けば終わる、それが分かる。
どうすればいい? ケイには無論のこと頼れない。ツバサに危険なことはさせたくない。
自分がおとりになってケイとツバサを逃がすことができればいいのだが、セトラを引きつけることができるかどうか。
陽動だとすぐに見抜かれる可能性が高い。セトラは仕事上、ケイのことも知っているはず。彼が戦闘に関しては素人に近いことくらい理解しているだろう。
セトラが陽動だと見抜けばケイもツバサも瞬時に殺される。残ったユイもいわずもがなだ。
生き残ることが無理なら、せめてツバサだけでも逃がしたい。五皇国の犠牲になるのは自分たちだけでたくさんだ。
「ケイ、覚悟を決めろ」
「……わかってる」
ケイは小声で答えた。彼もセトラのことは知っているのだ。恐ろしく強い女。おそらくユイでも敵わないとも理解しているだろう。ケイから見たならユイも充分強い女だが、セトラはその上を行く。
普段セトラは法王の神殿に常駐しているはずなのだ。法王を護るために法王から離れない。
そのために、法王の愛人なのではないのかと、下世話な連中に揶揄されるくらいに。
「……!」
雷光のようにケイの脳裏にある想像が浮かんだ。
セトラ・オウンゴン。決して法王から離れない女。法王から絶大の信頼を寄せられている存在。今ここにいるわけがない女性。
その彼女がここにいるということは――法王もここにいるのではないのか?
何故? ぐるぐるとケイの中で思考が回る。
ラグドラリヴ。
『破滅』が眠る地。誰も入るはずがない場所。それなのに地図が存在している。
ここに入る何者かの存在を示唆する地図。どこの国にも存在する同じ地図。
それが意味することはなんだ?
法王が、セトラ・オウンゴンが何もないはずのこの地に滞在する理由とは?
「ここにいる理由……まさか」
ケイはセトラを見た。依然として動かない『銀の殺戮者』を。
「あるんだな、ここに。存在しているんだな?! 『破滅』が!」
セトラは動かない。ただ、その目を細くした。
「賢いというのは不幸ですね。ケイ・カゲツ」
返答でケイは理解した。セトラは『破滅』が存在していると答えたも同然だ。
「あなたは優秀だと聞いていました、ユイ・ヒガも優秀な教え子でした。あなたたちが何を考えてこんなことをしでかしたのか……わたくしには分かりません」
口調は穏やかだが、決して優しくはない声が告げている。
ここでお前たちは死ぬのだと。
「残念です。とても」
セトラが動こうとした。そこまではユイにも分かった。そこからは一瞬だろう、そうも思った。
死ぬ。殺される。せめて一太刀でも浴びせてやりたい……! セトラが踏み込んでくるタイミングさえ計れれば一撃くらいは叩き込めるはずだ。
ユイの刹那の願いはかなわなかった。
「!!」
セトラが動きを止めたからだ。あのセトラが愕然としていた。視線はユイの背後に向いている。そこにいるのはケイと――ツバサだ。さっきまでユイのマントに隠れている位置にいたツバサが、ユイの肩の辺りまで浮かんできている。
セトラが見ているのはツバサだった。
目を見張って驚愕に震えている。
「何故……! どうやって!!」
あきらかにツバサに対して言っている。この小柄な少女に怯えているようにも見えた。
その理由がユイとケイには分からない。ツバサは別段何かしようとしたわけでもなく、ほよんと浮いているだけだ。少女がセトラに怯えているような様子もない。まぁ、ツバサはセトラのことなど知らないだろうから、怯える理由もないのだろう。
「おまえ、ユイとケイいじめるのか」
むっつりとツバサは言った。セトラが何者か分からなくてもユイ達に危害を加えようとしたのは分かったらしい。
「っ?! もう話せるように……! おとなしく眠っていればいいものを!」
叫んでセトラが腕を振った。ユイはセトラが使う武器を知っている。透明な極細の鋼線だ。強化された人間がそれを放つと視認するのはほぼ不可能だということまで知っていた。
防ぐことはできない。ならばこの身をもって盾とするしかない。運が良ければマントと制服でなんとか即死はしないだろう。
さすがにユイの体で邪魔されてはツバサに鋼線は届かないはずだ。そこからどうするかは考えてはいなかった。ただ、ツバサを護りたい一心だったのだ。
「おまえ、きらい」
ツバサはセトラに向けてそう言った。ただの一言。
そのひとことで、盾になったユイの体にさえセトラの鋼線は届かなかった。
じゅう。熱した鉄板に水を落としたときのような音。何が起きたのかユイは我が目を疑った。
魔法的技術を駆使したであろうセトラの武器が、あっけなく無効化されたと気付くまで数瞬。鋼線が蒸発したのだ。
防ぐとか、そんな問題ではない。
まるでお話にならないほどの無効化だ。ありえない。セトラが使う鋼糸は特注のもので、最高クラスの魔法がかけられているはずだ。生半可な方法で無効化できるはずもない。
それを、ツバサは簡単に蒸発させた。
そばで見ていたケイにもツバサが何をしたかは分からなかった。
「!! かなわない、というのですか……」
セトラはツバサを見ている。ユイもケイも無視して、彼女たちよりさらに幼い少女を警戒している。
目を逸らせばツバサに殺されるとでも言うような警戒振りだ。セトラのような重鎮がツバサの何を一体そこまで恐れるのだろう?
この天使のような女の子の一体どこが怖いというのだ。ユイには理解できない。
「なんだ? 何故そこまでこの子を恐れる? ツバサが一体何をしたって言うんだ」
分からない彼女の背後でケイはしばらく考えて、落ち着けとでも言うようにユイの背をぽんと叩いてきた。
それから口を開く。
「セトラ・オウンゴン。一つ訊きたい。子供の質問に大人は答える義務がある。そうだろう?」
答えを待たずにたたみかける。
「この子は封じられるような存在か?」
『破滅』が眠るはずの場所でユイとケイはツバサに会った。他には目新しいものは何もなく、なのに厳重な封印がされていた。
封印が向けられていたのはどこにだ?
――『誰に』だ?
訊きたいことは一つ。
ツバサが五皇国にとってどういう存在か。
セトラは笑った。愚かな子供だと言いたげにケイを嘲笑った。
「知らずにいるのですか? ならば見たものが全てです」
答える必要はないと、セトラは言いたかったのだろう。
だがケイにはそれで充分だ。過ぎるほどの情報を得た。
そして確信した。
「なるほど。理解した。切り札ということはな」
その声にセトラは顔色を変えた。失言に気がついたのだろうがもう遅い。
「ツバサ、力を貸してくれ。あの人をどこかへ追っ払うことはできるか?」
そう言ってケイが指差すと、セトラに対していたときとはうって変わって上機嫌にツバサはうなずいた。
「できる。ケイ、あいつきらい? ツバサ、いないいないできるよ」
「そうか。してくれるか?」
「うん」
セトラが動いた。ケイを先に叩くべきだったと今更ながらに判断したのだろう。
だが、遅い。ツバサはセトラを見た。それだけである。何も言葉は発しなかったし、特に念じたようにも見えなかった。
それだけでセトラは吹き飛んだ。まるで透明で巨大な手に突き飛ばされたかのように勢いよく吹き飛び、壁に激突するかと思いきや、壁をすり抜けてどこかへ消えた。
「??!」
ユイにはさっぱり理解できない。唯一わかるのは、どうやらツバサに助けられたということだけだ。能力者や魔法士との戦闘にも熟達しているはずのセトラをあっけなく退けたということ。
「い、今……一体何が起きた?」
振り返る。ツバサは変わりなく浮いていて、ユイににっこり笑いかけて抱きついてきた。
「ツバサが何かしたの??」
「いないいないしたよ。ケイ、あいつきらい。ユイもあいつきらい。だからツバサもあいついや」
ユイとケイが嫌いな人間だからツバサも嫌いになったと言う。そして何らかの力を使ってセトラを退けたようだ。
「……なにしたの?」
「いないいないって」
分からない。ツバサの今の語尾では説明されてもこちらが理解不能だ。
「なるほどな」
ケイは理解したようだ。ユイが説明しろと彼を見ると、彼は苦笑した。本当に苦い笑みだ。
「何で今まで気付かなかったのか不思議でたまらん」
「なにが」
促すと、ケイはツバサを見てまた苦笑した。
「『破滅』とはもう出会ってたってことだ」
彼の視線は、ユイにじゃれついているツバサに向けられている。ユイが頭をなでてやっている小さな女の子に。
「……この子が? 『破滅』? 『厄災』?」