序章・1
世界は腐っている。世界は澱んでいる。
世界は歪んでいる。世界は病んでいる。
世界は汚れている。世界は壊れている。
世界は苦痛に満ちている。
世界は――醜い。
大量に人を殺す兵器を作り、使う。
子供にも人を殺させる。
毎日どこかで人が死ぬ。
貧富の差、差別……どこにも必ず存在する。
世界に絶望する理由などそこかしこにあふれている。
そこに綺麗なものなどありはしない。
世界自体が醜いのだから、どこにも綺麗なものなどない。
この世界は、汚い。
彼女たちはそう思っている。それが紛れもない世界の真実なのだと、ちっぽけな世界の中で絶望している。
世界には絶望の道しかないのだと。
世界には希望など無いのだと……。
穏やかな昼下がり。今日は天気がいい、ぼんやりと彼女はそう考えた。こんな室内ではなく、外を歩くとさぞ気持ちがいいだろう。けれど、仕事中の身には酷な願いだ。
特に――彼女のような存在には。
「あれがセトラ・オウンゴンの後継者か。幼いな」
そんな声を耳にし、少女は内心でうんざりしていた。
外見には出さない。そう教育されている。感情は表に出すものではない。まして彼女のような立場では迂闊な行動は命取りになる。目の前にいるイグザイオ国の軍人に嫌気がさしても平然としなくてはならない。
彼女のそんな心境にも気付かず、セイリオスの高司祭は軍人の疑問にどこか自慢げに答えている。
「まだ16歳ながらユイ・ヒガはとても優秀です。だからこそ六芒星を身に着けることを法皇様に許されたのですから」
また始まった、と彼女は呆れる。よくもまぁ他人のことをこうも自慢げに語れるものだ。時折本当に不思議に思いたくなる。
あきれてわずかにうつむくと肩の上で切りそろえた髪が揺れた。髪留めは六芒星だ。襟元、スカーフの留め具、袖口、靴にまで六芒星がつけられている。
これらは支給品で彼女の趣味ではない。身に着けている物は一目で五皇国所属の者とわかる品だ。事実彼女――ユイ・ヒガは五皇国の一つ、神聖国家セイリオス所属の神官である。若干16歳だが、エリート中のエリートである証の六芒星を身に着けていた。
だが彼女は別段変わった力を持っているわけではない。強力な魔法士でもなければ、能力者でもない。呪文の勉強などしたことがないし、超能力という生まれ持った力もない。手にした傘など柄の部分に可愛らしいクマのマスコットがついている。
見た目など本当に可愛らしい女の子だ。とてもエリートには見えない、おっとりした雰囲気の少女で、六芒星さえなければ制服とマントのせいで魔術学院の学生で通じるだろう。この外見ゆえにイグザイオの軍人も彼女の実力を疑っているのだ。もっともユイに実力を見せびらかす気など毛頭ない。
自分は言われたことをするだけだ。少ししてふぅと息をつきユイは目線をあげた。さりげない様子で移動する。
ふと外の景色を見ようとでも言う動きだったので、司祭も軍人も気にとめなかった。ユイが突然手にした傘を広げるまでは。
ここは室内、傘を広げる必要などない、はずであった。
「ユイ?」問いかけに応えたのはユイではなく、わずかな音。窓ガラスに小さな穴が開き、一瞬後に彼女に向かって炎が広がる。
ふっ、とかすかな息を吐きユイは傘を振り上げ、振り下げた。柄の先のクマがぼんやりと光る。持ち主の意思に反応して防御機能が働いたのだ。
広がるかと思われた炎は傘にぶつかり、しぼむように消え失せた。何が起こったのか理解できたのはこの室内でユイだけだったろう。軍人も高司祭も唖然としている。
ユイはかまわない。廊下側に声をかけた。
「狙撃されました。炎系の魔法弾です。外を調べてください。射角から計算して……狙撃位置はあの建物だと思われます。このタイプの魔法弾は超遠距離射撃ができませんから」
ドアを開けて入ってきた警備の人間にテキパキと指示する。
警備の人間はユイよりも大分年上だったが、彼女は臆することもない。それが当然のように指示をし、処理していく。その様子を頼もしげに見ながら高司祭は言ってのけた。
「セイリオス自慢の『神官』ですよ、彼女は」とても自慢げに。
指示を終えたユイはその言葉を聞いて蹴りつけたい気分になった。自慢。自慢。
誰に対して?何に対して?ユイに身寄りはない。自慢したい相手もいない。大体こんなことを誇ってなんになる?
「いやはや、全くだ。強いのだな、彼女は」軍人は感心した様子で頷く。
「さすがセイリオス秘蔵の『裏』神官だ。この腕前なら安心して座っていられる」
その言葉にユイは冷たく視線を向けた。
「あまり軽々しくその言葉は口にしないほうがよろしいかと」
『裏』その単語が指すものは一般人が知っていいものではない。どこで誰が聞いているのか解らないご時勢だ、腐っても軍人ならそのあたりのことなど分かりきったことだろう。
わざわざ口にするとは、危機意識が足りないのではないか。
こんな男を何故自分が護らねばならないのだろう。今回の任務は本当に馬鹿らしいと彼女は思う。大体この高司祭もたいした重要人物ではないのだ。
わざわざ彼女がボディガードに就くこともないような男である。
他の者で充分だったはずだ。狙撃とて分かりやすい位置からのものだった。少々感覚強化の投薬を受けている者なら、感知はたやすい。
現にユイはたやすく感じ取った。SP程度でも充分だったろう。
あほらしい、とげんなりする彼女の耳にノックの音。
「失礼します」
入ってきたのはユイよりも多少年上の少年だった。目立つ灰色の髪と赤い目。上着の肩の部分に彼女と同じような六芒星が刻まれている。ユイと同じように五皇国の配下だ。
一度見たら忘れられない容姿の少年である。ユイも彼を覚えている。
以前イグザイオに何度か行ったときに会ったことがあった。
「おお、ケイ・カゲツか。どうした」
「はい。狙撃されたと知らせを受けたので。閣下のご無事の確認に参りました」
殊勝にそう言ってのけるがユイは気づいている。ケイは馬鹿馬鹿しいと思っている。
自分と同じように。
「まぁ、セイリオス秘蔵の神官ユイ・ヒガが護衛についているのですから、心配はさほどしていませんでしたが」
などと愛想笑いを浮かべているが目が冷たい。
「ふむ、確かに彼女は強い。ケイ、お前も彼女に鍛錬してもらったらどうだ?」
軍人はまったく何も気づかずにそんなことを言い出した。
「ご冗談を」
ちっとも穏便ではない笑みを浮かべてケイは言ってのける。
「私はこんな野蛮なことには向いていませんので」
……いつかこの男をぶん殴ろう。ユイは心にそう決めた。
「ふむ、お前はもっぱら頭脳労働ばかりだからなぁ、軍に身をおく以上は鍛錬もしておくべきだぞ」
「ほっとけ、このハゲ」
素早く、微かにケイが口の中でそう呟くのをユイは聞きとめたが、口には出さない。 どうせ聞こえたのは身体強化されている自分だけだ。突っ込んでもこの男は異常に猫かぶりが上手いので、結局ごまかされる。
「もっともです。いい機会ですので、少々ご教授いただきたいものです、ユイ・ヒガ?」
しゃあしゃあと言うケイにユイもなんとか笑いかける。
「イグザイオ秘蔵の人間スーパーコンピューターに万が一のことがあっては大変ですよ、
考え直されたほうがよろしいのでは?わたしはここの警備がございますし」
彼女は任務にかこつけて回避したつもりであったが、高司祭がそれを無に帰した。
「ああ、構わぬよ、ユイ。私たちは別室に移るから、彼の希望をかなえてあげるといい。警備ならほかにもおる」
「おお!それはありがたい。なにせこのケイというやつは、機械を扱わせたら右に出る者はないのですが戦うことはからきしでして。仮にもイグザイオ軍に所属している者として情けなく思っておったのですよ」
「ははは、そうでしたか。実はこちらのユイも機械はからきしでしてね。ちょうどいい機会です、ユイ、少し彼からノウハウを学んでいらっしゃい」
2人を無視して盛り上がり、高司祭と軍人は和やかに別室へ移っていった。
置いていかれた形になった少女と少年はしばらく無言で立っていた。
「……なんでだ……」
思わず頭を抱えるユイ。
「こっちのセリフだ」
ケイも表情が苦々しい。
「大体どうしてお前がここにいる!?一人暗い部屋で機械と格闘するのがお前の仕事だろう!ケイ・カゲツ!」
「そうだな、暴漢と格闘するのはお前の仕事だ、ユイ・ヒガ」
フッと皮肉げにケイは笑う。
「何が悲しくてあんな自慢好きの男にくっついて外交に来なきゃならないんだか。くそ、サボる口実になると思ったんだが……お前ももう少し上手く断れよ」
「わたしのせいにするな。先に言い出したのはお前だろう」
「あんだけやらせんなこのボケと言っても通じないんだからな。仕方ないだろ。最近の人間は言葉を理解しない阿呆が多い」
言いつつユイを見ている。彼女もその一人だと言いたげだ。ムカッときてユイも言ってやる。
「そうだな、最近の男が情けないのと一緒だなぁ」
――室内にひんやりとした空気が溢れた。外はいい天気なのに室内は凍りつきそうだ。
やがて、どちらからともなくふふふふと含み笑いをし始め、2人同時に言い放った。
『お前など大嫌いだ!!!』
綺麗に同じことをハモってから睨み合う。最初にあったその瞬間から、こいつとは合わないと双方思っていたのだが、第一印象に間違いはなかったようだ。
長編を投稿してみようと思います。原稿に換算して大体三百枚ほどですが、よければお付き合いください。