第5話 咲くやこの花
「ただ、俺がこう言ったからといって、君ら二人の、部長に対する見方を変える必要はない。君らが見て感じたままの印象が、君らにとっての部長だ。他人から伝え聞いた話で人の評価をころころ変える人間であってほしくない。」
昨晩、何か言いたげにしていたクオンとルリイの雰囲気を感じ取ったテバサキは言った。そして二人は何も言えずに、その日は帰宅した。クオンは今の黒野校は決してテバサキが望んだ形ではないことを確信した。ただ、それを今日、出勤してテバサキに根掘り葉掘り聞いていいものか通勤する道中で考えあぐねていた。
あれこれと思考を巡らせているうちに、気づけば校舎の入り口までたどり着いていた。クオンは黒野校の重いガラス扉を押し開けた。
「こんにちは。」
初日以外、校舎に到着する順番は決まってルリイ、クオン、テバサキの順だった。しかし今日はクオンが最後だった。
「あれ、テバサキさん、今日は早いんですね。」
「まぁ、そういう日もあるさ。それよりもクオン、仕事が来たぞ。」
「えっ、もう依頼があったんですか?どんな内容ですか?」
「芽照校で代講だ。中2の英語の授業を担当をしている大学生のアルバイト講師が急遽忌引き休暇をとったから空きが出たんだと。」
「えっ、ということは…?」
「そうだな。クオン一人で行くことになるな。」
「ですよね…。わかりました。」
クオンの社歴は2年目であり、1年目は一般の校舎で他の講師と変わらず授業をしていた経験はある。しかし、顔の知らない生徒の前で授業をするというのは、1年目の配属校舎での初めての授業以来、2回目の経験だった。
「まぁそんな不安そうな顔をするな。芽照校にいる社員はタヲヤメさんとジェットだ。あの二人なら問題な…いだろう。良くしてくれる。」
「いま一瞬言い淀んだ気がしますが、それなら安心です…。」
「クオンさん頑張ってください。」
ルリイの無機質な声を背に、クオンは芽照校に向かった。
芽照校は都市部の中心にある高層ビル群の1つの中に入っており34階に位置していた。エレベーターで34階に上る途中、クオンは気圧の変化で耳がキーンとなった。校舎の入り口の自動ドアを抜けると、正面にカウンターと職員用のデスクが配置されていた。
「こんにちは、代講に来ました。クオンです。」
緊張気味にクオンは入室した。デスクには黒い長髪に鼻筋の通った端正な顔立ちの女性と、塾講師とは思えぬ金髪のメッシュが入った褐色肌の男性がパソコンに向かっていた。こちらの男性もパーツがはっきりとしており、男前だった。なぜこんなにも見た目で困ったことの無さそうな2人が1つの校舎に集められているのか、とクオンは不思議に思った。
「あら、クオン君ね。こんにちは。」
その女性がすらっと立ち上がってクオンの方に近づいてきた。男性も彼女についてくるようにしてクオンの近くに来た。
「今日はよろしくお願いします。」
整った顔立ちの二人に注目され、緊張をさらに高めながらクオン入った。
「俺はクオンが新入社員の時の歓迎会で見かけたのを覚えてるぞ。でも話すのは初めてだな。俺の名前知ってる?」
「えっと、田所さん…」
「そう、正解。だけどみんなからジェットって呼ばれているから、お前もジェットって呼んでもらっていいぜ。」
「はい、ジェットさん、よろしくお願いします。」
「私は升谷です。でもなぜか社内の人間は私のことをタヲヤメって言うわね。」
「タヲヤメさん、なんですね。この前マスラオーさんの校舎に行きました。」
「あぁ、マスラオーに会ったのね。あの人と私が同期で結構仲良くやってるから、セットでそう呼ばれているのだと思うわ。」
大出校に行ったとき、テバサキもマスラオーに対して敬語を使っていたので、タヲヤメもテバサキより先輩ということになる。テバサキが7年目の社員であることは知っていたので、少なくともタヲヤメは30代であるはずだ。しかしとても30代には見えない。かと言って20代のような幼さは感じられない。不思議な雰囲気をまとっている。
「マスラオーさんとはよく飲みに行ってるくせに俺のことは誘ってくれないじゃないですか!」
ジェットが少し拗ねたような顔で言った。
「私は自分より仕事ができる男としか飲みに行かないの。私と飲みに行きたいなら頑張りなさい。」
「わかりました!」
ジェットは掌を返したように目にやる気を漲らせた。クオンは二人の奇妙な関係性を垣間見た気がした。
「ひとまずクオンの出番は夜の授業だけだから、それまで授業の準備とか、他の自分の仕事をしていていいぜ。」
そう言ってジェットはクオンを空いたデスクに案内した。ジェットはタヲヤメが自分のデスクに戻り、座ったのを確認してから自分も席に着いた。
ほどなくして、夕方の授業が始まる時間が近づき、小学生たちが集まり始めた。みんな元気よくデスクにいる職員に挨拶をしてそれぞれの教室に入っていく。去年まではクオンも自身の校舎で小学生にも授業をしていたので、教室で授業が始まるのを待つ小学生たちのエネルギッシュな話し声が職員のデスクにまで届いてくる状況を懐かしく感じた。それと同時に、久しぶりの授業があと2時間前後のところまで迫ってきていることに対して全身が強張るのを感じた。
小学生の授業では、タヲヤメもジェットもそれぞれの教室に入り、授業をしていた。クオンは授業準備もほぼ終わり、抱えている仕事もほぼなかったので、校舎の中をうろつくことにした。
曾倉塾は各校舎の裁量権の幅が広く、校舎の”色”に校舎長の性格が色濃く反映される。校舎オリジナルの掲示物やイベント、授業中の生徒の様子、休憩室の散らかり具合、はたまたバイト講師の質まで、その校舎のすべてを校舎長の影響力で成り立たせていると言っても過言ではない。
芽照校の”色”は澄んでいた。掲示物に無駄な飾りっけはなく殆どの文字が明朝体で記されているが決して質素という印象は抱かせない。自習室では数人の生徒が自習をしていたが、誰一人私語をしている生徒はいない。職員用のデスクは多忙であるが故に混沌とした状況に陥りがちだが、驚くほど整理がいきわたっている。校舎の様子からタヲヤメが几帳面な性格であることが窺えた。
教室の外からタヲヤメとジェットの授業の様子もこっそり見てみた。入社2年目のクオンからすれば先輩方の授業で勉強になる箇所は多々ある。
タヲヤメの授業は、とにかく全てが美しかった。板書、立ち振る舞い、説明の手順、そのすべてに見入ってしまった。立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花なんて言い回しがあるが、タヲヤメのために存在しているものだとさえ感じた。唯一、タヲヤメの立ち振る舞いとちぐはぐに感じたのは、生徒の手を挙げるスピードだった。クオンはドア越しに授業を見ていたので、タヲヤメの発する言葉を全て聞き取ることはできていなかったが、彼女が何かを生徒に問いかけると、信じられないスピードで生徒たちの手が天井に向かうのだった。
ジェットの授業はタヲヤメのような雅さは無く、とにかく元気だった。生徒が生徒に授業をしている、と言われても納得してしまいそうになるほど、悪く言えばジェットは幼く振る舞い、良く言えば生徒の目線に立った授業をしていた。生徒たちの目も生き生きとしていた。
19時ころ。小学生の授業が終わり、生徒たちが教室から出てきた。元気よくさよならを言い、光の速さで校舎を出て行く生徒もいれば、すぐには帰らずタヲヤメやジェットとおしゃべりをしている生徒もいた。その小学生たちの群れをかき分けてタヲヤメがクオンに近づいてきた。
「クオン君が今日担当する中2のスタンダードクラスはB教室ね。さきに-」
「いずこもおなじ!」
タヲヤメの発言にかぶせるように周りの小学生が一斉に叫んだ。クオンはあまりに突然の大声にたじろいだ。タヲヤメは意に介さず続けた。
「-教室に入って、早く来る生徒と話して馴染んでおくといいわ。この-」
「もみじのにしき!」
再び生徒が叫んだ。
「-名簿を持って教室に入って顔と名前も確認-」
「さしもしらじな!」
「-しておくと授業もやりやすいはずよ。」
クオンは戸惑いながら返事をした。
「わ、わかりました。それよりこれって-」
「しるもしらぬも!」
クオンの発言に対しても小学生たちが被せてきた。
「うわっ!僕にも反応するんだ、この子たち!」
「もみじのにしき!」
「しゃべりにくいな、も、もしかして-」
「なほあまりある!」
小学生の横やりに屈せずクオンは最後まで喋った。
「百人一首の決まり字に反応してくるんですか?」
「その通り。授業の余った時間とかに百人一首の練習をしてたら、いつの間にかこんなになっちゃってね。」
「すごい…。」
「ゆめのかよいじ!」
生徒たちはこちらの会話を聞き漏らすまいと目を大きく開いて集中していた。
「さぁ-」
「いずこもおなじ!」
「-もう帰りなさい。中学生の授業が始まるから。」
そう言ってタヲヤメが小学生たちを出口に誘導していった。その背中を見ながらクオンは近くにいたジェットにポツリと言った。
「もはや洗脳ですよね。」
「あれくらい生徒を夢中にさせるだけのカリスマ性が無きゃ塾講師なんて出来やしねーよ。かく言う俺もちゃーんとタヲヤメさんに洗脳されてるしな。」
「洗脳されていることってそんな自慢げに話すことでしたっけ。」
クオンはタヲヤメのカリスマ性に微かな不気味さを感じ、更に、将来的に自分もこうして生徒を引っ張っていかなくてはいけないのかという高い壁の存在が感じられ、気分が塞いだ。そして名簿を持ってクオンはB教室へと向かった。久しぶりの授業。去年からずっと、クオンは授業をするのが苦手だった。わずかに手を震わせながらクオンは教室の戸を開けた。
To be continued.




