第1話 曾倉塾黒野校
曾倉塾。水色のゴシック体でそう書かれた看板を横目に、クオンは緊張した面持ちで入口の扉を押した。
「こんにちは。今日から黒野校でお世話になります、クオンと申します。よろしくお願いします。」
受付や講師が座るスペースに目をやると、少し奇妙な光景が広がっていた。大きなデスクが二つ並んでいるが、机上はこざっぱりとしており、誰も使っている形跡はない。
ただ、一方の机の上座には男性がひとり、パソコンに向かって座っていた。髪型は自由奔放で、手櫛すら通していない様子だ。その横には、肩まで髪を伸ばした二重まぶたの端麗な女性が静かに座っている。
「クオン君だね。よろしく。」
男性が淡々と言った。声量は大きくないのに、クオンにははっきりと聞き取れた。
「こちらこそよろしくお願いします。」
クオンは彼の髪型を見て、先日居酒屋で食べた手羽先を思い出した。ああ、テバサキだ。
「そっちは事務の岸田瑠璃依。ルリイは新卒だから、クオンの後輩だな。」
「岸田です。よろしくお願いします。」
クオンはルリイを覚えていた。入社式後の歓迎会で、ひときわ目立っていた美人だ。
「よ、よろしく。」
ルリイの容姿に少々戸惑いながらクオンは応じた。
「この校舎での業務をまだほぼ何も聞かされていないのですが、何をしたらよいか教えていただけますか…。部長からは、黒野校の校舎長をサポートしてやってほしい、としか伺っていなくて…。」
クオンは遠慮がちにテバサキに聞いた。
「まぁ、そうだな。部長は何も間違っちゃいないし、それがすべてだ。クオンが来てくれて嬉しいよ。」
「具体的にはなにをすれば…」
「クオンに手伝ってほしいときがあればその都度声をかける。それまではこの校舎をうろうろしていてもいいし、他に自分の仕事があるならそれをしていてもいい。ルリイと喋っててもいいぞ。好きに過ごしてくれ。」
クオンは混乱した。この校舎に関する仕事が割り振られないのであれば自分がする仕事は皆無だ。完全に手持無沙汰になってしまった。ルリイのような美人との会話を盛り上げる自信はないので、クオンは仕方なく黒野校と呼ばれる建物を見て廻ることにした。
その建物は3階建てで、各階に3つか4つの教室が配置されている。クオンはそれぞれの教室に入ってはホワイトボードを背にして教壇に立ち、今は誰もいないその教室が夜には生徒で埋まる情景を思い浮かべた。全ての教室でそういった”シミュレーション”をし終わったクオンは階段でテバサキやルリイのいる1階に戻ろうとした。そこでふと目をやった踊り場でクオンは奇妙な違和感を感じた。
2023年度 公開模試 随時受付中!
クオンはこう書かれたポスターの目の前で首を傾げた。今は2025年の4月。なぜ2年前の模試のポスターを未だに掲示しているのだろうか。
「あれ?」
クオンはふと思い至って先ほど”シミュレーション”を最後に実施した教室に戻り、ホワイトボードを間近で見てみた。するとホワイトボードの全面にうっすらと埃が付着していることに気づいた。他の教室のホワイトボードも同じように確認してみるとホワイトボードだけでなく、机や椅子、教室のゴミ箱などにも埃が付着していた。
「誰も教室を使っていない…?なんで?」
クオンは考えが何もまとまらないまま階段を上の空で降りた。1階に着くとクオンはテバサキの方を向いて恐る恐る聞いた。
「全ての教室を見て廻ったら、けっこう埃かぶっていたので掃除をしようと思うのですが…」
するとテバサキはパソコンに向かいながら右の眉毛を少しだけ上げながら言った。
「その必要はない。この校舎では教室は使わないからね。年末に軽く掃除するだけでいい。」
「え、使わないって…。じゃあどこで授業をするんですか?」
クオンの心臓が嫌な音を立てて鼓動している。テバサキがため息とも深呼吸ともとれる息を吐いてクオンに向き直った。
「授業をする必要もない。ここには誰も来ない。生徒も、保護者も、だーれも。」
クオンはパソコンに意味のない文字列を打ち込んでは消す、という作業を繰り返していた。生徒も来ない。保護者も来ない。だから授業もしない。塾としての機能を何一つ果たさないこの校舎で僕はいったい何をすればいいんだ。
クオンは打ち込んでいた単語の羅列が「ちょうきゅうめいのちょうすけ」まで到達したころを皮切りに、席を立ち、意を決してルリイの座る受付デスクの隣の椅子に腰かけた。
「岸田さんってどんな仕事をしてるの?」
そういいながらクオンはルリイのパソコンをのぞき込む。そこには表計算ソフトが開かれており、びっしりと学費や教材費などの金額が記載されていた。
「私はこの校舎だけでなく曾倉塾全体で使用されている文書のチェックなども担当しているので、今はそれを。あと、校舎長と同じように『ルリイ』でいいです。」
「わかったルリイ。『この校舎だけでなく』って言ったな。じゃあ、この校舎では何をしているの?」
「この校舎では、校舎長のサポートをしています。」
「だからそのサポートってどんなことをしてるのか教えてほしいんだけど…」
「説明するより実際に目の当たりにした方が分かると思います。運が良ければ今日、何かしらをご覧になれるんじゃないですか。」
釈然としないルリイの言い回しにますます不安を覚えたクオンは、ルリイに続ける言葉も見つからず、言葉にならない音を喉の奥から発してから、その場で沈黙した。
そのまま何も起こらずに30分が経過したころ、その日初めての電話が鳴った。ルリイが電話をとる。
「曾倉塾黒野校、岸田です。」
何もすることがないクオンは、無意識のうちにルリイの耳元から微かに聞こえる電話の向こう側にいる人物の声に耳を傾けていた。何を言っているのかまでは明確に聞き取れなかったが口早に何かを説明している口調であることは何となく感じ取った。
ルリイがしばらく応対をしてから、受話器を置いた。そしてテバサキの方を向いた。
「校舎長、仕事が来ました。」
それを聞いたテバサキはクオンがこの校舎に来て初めて席を立ち、ルリイのいるデスクにまで歩いてきた。
「依頼内容は?」
テバサキが聞くとルリイが淡々と話し始めた。
「大出校からの依頼です。先日行われた中3の模試の解答用紙が1枚紛失したとのことです。試験監督をしていたスタッフは解答用紙を回収した時に生徒の人数と照らし合わせて枚数に間違いがないことを確認していたそうなのですが、解答用紙をスキャンして本部にデータを送信するタイミングである一人の生徒の英語の解答用紙だけ無いことが判明したそうです。」
「それを何とかしろ、ということか。」
テバサキは右手であごをなぞりながら答えた。クオンは動揺した。
「え、なんとかしろって、その校舎の紛失物なんだから、その校舎でなんとかしなきゃいけないんじゃないんですか?なぜテバサキさんが…?」
「テバサキ…?」
テバサキの眉が吊り上がった。
「あっ。いや…」
クオンは自分の頭の中で勝手に黒野校の校舎長をテバサキと呼んでいたせいで、それが口をついて出てしまっていた。慌ててそれを取り繕おうとするとテバサキは口角を上げながらクオンに言った。
「テバサキでいいよ。俺は手羽先が好きだから。」
「すみません、それはさすがに…」
クオンがまごついていたがテバサキはそれを意に介さずルリイに顔を向けた。
「中3の模試が行われたのは一昨日の4月19日土曜日だよな。大出校の解答データが本部に送られているのはいつか調べられるか?」
「はい、4月21日月曜日の午後1時21分に送られています。おそらく模試を実施した当日にすぐ送るだけの余力が大出校にはなかったため今日、出社してすぐのタイミングで送信したものと思われます。」
「ということは解答用紙を回収してスキャンデータを送信するまでのおよそ1.5日の間にその解答用紙が紛失したことになるな。」
テバサキは自分のデスクに戻り、カバンにパソコンを詰め始めた。
「クオン、ルリイ。君らも出支度をして。大出校に向かうぞ。」
クオンが大出校に足を踏み入れるのは初めてだった。黒野校とはちがって大出校は見るからに新築の建物に入っており、心なしか照明も黒野校より明るく見えた。床や壁がまだ白く綺麗だからだろうか。
「こんにちは。黒野校です。」
テバサキは大出校の入り口に設置された自動ドアを通り抜けて言った。自動ドアだ。黒野校は重いガラスの扉なのに。
「おおー、待ってたよ。黒野校の皆さん。」
職員席の奥からかなり屈強な胸板をした高身長の男性が歩み寄ってきた。
「いつもの2人かと思いきや1人増えたな。黒野校に異動になったのか。」
その男性はテバサキとルリイに目をやり、クオンでその視点は止まった。
「はい、今日から黒野校に異動になりました。クオンと申します。大出校の校舎長の多賀さんですよね。」
クオンはその男性を知っていた。去年度に何度か実施された曾倉塾全体の会議の後でその男性がクオンの当時の上司と立ち話をしているのを目にしていたからだ。
「そう。でもみんなからはマスラオーと呼ばれているよ。だからクオンもマスラオーで構わない。」
マスラオー…。たしかに彼の筋肉と、そこから湧き出る余裕を含んだ爽やかな笑顔からは、素朴な雄渾さが感じられた。
「我々は大出校で紛失した1枚の解答用紙を探し出せばいいんですよね。」
テバサキがマスラオーに話しかける。
「そうなんだ。忙しいところ本当にすまないが力を貸してくれ。」
「まず、試験監督をされたのはどなたですか。その方が回収した後の解答用紙の束をどちらに保管されたかを伺いたいです。」
ルリイは空席になっているデスクにパソコンを広げながら職員席を見まわした。
「試験監督をしたのは部下のカラマリだ。恐らく今、教室の清掃に行っている。」
マスラオーがそう言い終わらないうちに、バタバタと階段を下りてくる音が聞こえた。
「あー!皆さんこんにちは!お久しぶりです!ルリイちゃーん!!」
階段を下りてきたその女性は挨拶をして、ルリイを見るや否やルリイに熱烈なハグをした。
「相変わらずかわいいねぇ~来てくれて嬉しいよ~。」
カラマリはほぼヘッドロックのように腕をルリイの頭に巻き付け、ルリイのさらさらの髪を撫でまわしていた。そしてクオンに気が付いた。
「そういえばクオン君も黒野校に異動になったんだってね。今日はよろしくね。」
「あ、はい。まだ何をすればいいのか全く分かっていないのですが…。」
そもそも模試の解答用紙が紛失しているのに、なぜこの二人はここまで能天気なのだろうか。あまり細かいことは気にしなさそうな2人ではあるが、解答用紙の紛失は「細かいこと」ではないはずだ。
「カラマリさん、回収した解答用紙がたどった経路を教えていただきたいのですが。」
ルリイはカラマリに撫でまわされていることに対して一切の反応を見せずに言った。そこでカラマリはようやく少し気まずそうに言った。ただ、ルリイの頭をロックした腕はそのままだった。
「うーん。回収した時にはちゃんと数えて間違いがないことを確認したし、その後は解答用紙を入れる専用の棚にしまったから、その時点では全て揃っていたはずなんだけどね。ただ、今日出社していざスキャンをしてデータを送信しようとしたら1枚だけ足りなくて。しかもその生徒の解答用紙、束の一番上とか一番下にあったわけではなくて、束の真ん中あたりに入っていたはずのものなんだよね。それが1枚だけ無くなるなんてあり得なくて。」
マスラオーが優しい口調でカラマリに言った。
「カラマリのミスではないことは明らかだ。ほかに要因があるはず。だからそんなに落ち込まなくても大丈夫さ。」
「じゃあカラマリの身の潔白を証明しなければいけませんね。」
テバサキはきりっとした面持ちでマスラオーにそういうと、ルリイに指示を出し始めた。
「ルリイ、まずは回収した解答用紙を集めた棚が画角に収まっている防犯カメラのアクセス権を本部に申請してくれ。俺は模試が実施された教室から所定の棚までの動線で解答用紙を紛失する可能性のある個所がないか探してみる。」
テバサキの号令で2人はテキパキと動き始めた。
クオンは心が躍っていることに気づいた。そうか。こうやって色んな校舎のトラブルをルリイの分析力とテバサキの何かしらの能力で探偵小説みたいに解決していくんだ。そんな校舎に僕は配属されたんだ。
「私ももう一度探してみます。」
テバサキの様子をみたカラマリも慌ててテバサキのあとを追った。クオンもそれに続く。
「俺も手が空いたらそちらに加わる。頼んだぞ。」
マスラオーはそう言い残して自分のデスクに戻り、パソコンに向かった。
「申請の許可が下りました。皆さんも映像を見ますか?」
10分もしたころ、ルリイが捜索隊の3人に声をかけた。テバサキ、クオン、カラマリの3人は各々の捜索していた場所から撤退してルリイのパソコンが見える位置に集まった。
模試が終わったであろう19日の夕方18時58分。パソコンの画面上で、解答用紙の束を抱えたカラマリが忙しなく職員席に戻ってきて、その束を職員席の奥にある棚の3番目にしまった。扉を閉めた際、軽く扉をトントンと叩いていた。
「もしこの棚を次に開けるのが今日の昼のカラマリだった場合は、カラマリが”クロ”ということになるな。」
テバサキがつぶやいた。カラマリは不安そうに画面を見つめている。
防犯カメラの時間が21時53分を示している。カメラに映っている職員席にはマスラオーやカラマリの姿はなかった。おそらく夜の授業が終わって生徒たちを校舎の入り口まで見送りに行っているのだろう。
「おい!」
ふとテバサキが声を上げた。一人の女子生徒が辺りを見回しながら画角に入ってきた。その生徒は要領よくカラマリが解答用紙を収納した棚を開け、パラパラと解答用紙をめくり、1枚の用紙を抜き出して、それを近くのシュレッダーに差し込んだ。4人は絶句した。
「紛失した解答用紙は誰のものなんだ?」
乾いた声でテバサキはカラマリに尋ねた。カラマリは目を見張ったままぽつりと答えた。
「川野さん。防犯カメラに映っている、この子です。」
「なぜこんなことを…。」
「普段は大人しいうえに成績も優秀で、こんなことをする子では絶対にないはずなんですが…。もしかしたら…。」
カラマリの顔がゆがんだ。
「何か心当たりがあるのか?」
テバサキが聞いた。
「はい、もしかしたら、ですが。川野さん、前回の英語の模試の点数がいつもより少し低かったんです。いつも偏差値は60を超えるのに、今回だけ59.7だったんです。ほんの小さな凡ミスが2つくらいあって…。それで川野さんのお母さんがこの校舎に問い合わせてきたんです。娘の成績が下がったが、どういう指導をしているんだって。」
「ということは、今回の模試もあまりうまくいった自信がなく、母親に更にプレッシャーをかけられることに耐えかねて思い切って解答用紙を無かったことにしようとしたわけか。」
テバサキは眉をひそめながら言った。
クオンは心配半分、これからの期待半分でテバサキを見やった。生徒を呼び出して、説教をするのか?それともアツい話をして生徒を諭すのか?はたまた保護者に教育論を啓蒙して説得するのか?
「カラマリ、この校舎の燃えるゴミの日を教えてくれ。」
「火曜日と金曜日です!」
「分かった。カラマリ、マスラオーさんに言って大出校の空き教室を1つ抑えて。それから川野をこの校舎に呼び出してくれ。ルリイ、本部に連絡して解答用紙の提出締め切りをギリギリまで延長するよう交渉してくれ。クオン、5人分のマスクを買ってきてくれ。」
テバサキの指示の意図が全く分からなかったクオンは戸惑ったが、先ほど感じた胸の高鳴りがほぼ確信に変わった。こうやって校舎のトラブルをまるっと解決するんだ。そんな校舎に僕は配属されたんだ。
「D教室、終日使っていいそうです!」
マスラオーから許可をとってきたカラマリがテバサキにそういった。するとテバサキは頷いて、おもむろにシュレッダーのくず入れを取り出し、D教室に移動した。クオンはそれについていく。そして、テバサキは裁断された紙くずを床にぶちまけた。
「え…?」
クオンは圧倒された。無数の紙くずが空き教室で宙に舞っている。大出校の明るい照明に照らし出された紙くずは雪のように美しくその光を反射し、少しずつ床に積もっていった。ただでさえ壁も床も真新しく眩しい教室が、雪のような紙吹雪でさらに眩しく、銀世界を想起させた。
「何してるんですかテバサキさん…?」
テバサキはあっけらかんとして答える。
「クオンこそ何してるんだ。早くマスクを買ってきてくれ。吐いた息でせっかく並べた解答用紙のピースが吹き飛んだらたまらないだろう。」
「並べた解答用紙のピース…?」
その瞬間、クオンの頭の中のピースがある1枚の地獄絵図を完成させた。
「ええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!」
「なんだ、どうしたんだ急に。」
「いやいやいやいやいや!防犯カメラの映像を分析して、容疑者の生徒を呼び出して、本部に無理な交渉をして!これから解答用紙紛失ミステリーの佳境が見られると思ってわくわくしていたのに!まさかこの紙くずから解答用紙らしきピースを探し出してパズルをしようとしてるんですか!?」
「そうだけど?」
「黒野校って他の校舎のトラブルをスマートに解決する超有能コンサルタント集団だと思ってたのに!もしかして全然ちがう!?」
「はは、スマートとは真逆だろうな。曾倉塾黒野校はどんなお悩みも泥臭くヌルっと解決。そんなところだ。分かったら早くマスクを買ってきてくれ。よかった、ゴミの日が明日で。シュレッダーの中身が収集されていたらさすがにどうしようもなかったな、はは。」
それからは文字通り地獄のような時間が流れた。無間地獄。曾倉塾に入社して1年と少ししか経過していないクオンは大きなミスを犯したこともまだない。それにもかかわらず切り刻まれた紙くずを仕分けて元の形に戻すという終わりの見えない地獄に落とされている。
「あ、見てください。切り損ねたネギみたいに全然切れてない紙の切れ端がでてきました。」
「やばいな。切れていない紙が他にも出てきたら、このシュレッダーの信用問題にかかわってくるぞ。」
テバサキとルリイは慣れているのか、そんな軽口を叩きながらひたすら紙くずをより分けている。マスラオーやカラマリも生徒対応や授業の合間にD教室に立ち寄っては選定作業に加わり、ほどなくして忙しなく去っていった。カラマリは3回もより分けた紙くずの山を踏んづけ、それまでの黒野校の3人の20~30分の労力を無に帰した(「ごめんなさーーーーい!!!!またやっちゃったーーー!!」)。
クオンはふと思い出した。
「そういえば川野さんは今日この校舎に来るんですか?」
ちょうど空き時間に作業を手伝いに来ていたマスラオーに聞いた。
「川野さんは忙しい子でさ、塾の授業がない日も他の習い事でスケジュールがパンパンなんだよ。さっきカラマリがダメ元で連絡してみたけど、やっぱり今日は来れないってさ。」
「そうなんですね。テバサキさんは川野さんを呼び出して何をしようとしていたんですか?」
「ん?説教して泣かせてコレ手伝わせるつもりだった。」
「あはは…。」
18時。クオンは川野さんのものと思しき解答用紙の切れ端を見つけ、それが実際に当てはまると喜んだ。ピースを見つけるのが楽しくなってきていた。いや、正確には麻痺してきていた。楽しいと思うように自分に言い聞かせていた。
「なんかだんだんたのしくなってきました!」
「いいじゃないですか。その調子ですよ。」
ルリイが応じた。
19時。
「おい誰だよ。『16時 ヨメに電話♡』っていうメモをシュレッダーにかけてる愛妻家は。」
テバサキが解答用紙に関係のない紙くずを復元させて、そのメモの内容を読み上げていた。
「おいテバサキ!俺はお前より先輩だからテバサキは敬語で喋れよ!そして先輩が隠滅した恥ずかしいメモを復元するな!」
マスラオーが再びそのメモを粉々に破り捨てた。
20時。
「痛っ!プラスチック?」
クオンが声のする方を見るとルリイの左の人差し指から一筋の血が流れていた。
「いや、CDだな。いまどきCDをシュレッダーにかけることなんてあるのか?」
テバサキがルリイの指を見ながら言った。すると、カラマリの肩が強張った。
「家の掃除してて、むかし趣味で集めてたCDが大量に出てきて…もうさすがに要らないかなって…。」
「家で普通に捨てればよかったんじゃ…。」
クオンが遠慮がちに言うと、カラマリは頬を赤く染めながら言った。
「だって…。この校舎のシュレッダーはCDとかDVDもシュレッドできるって書いてあるんだもん…。試してみたいじゃん…。」
21時45分。
「できたーーー!」
クオンとカラマリが叫んだ。
「これなら川野が書いた解答も判別できるし本部に対応してもらえるだろう。」
テバサキが背伸びをしながら言った。
「はい、なんとかできると思います。今日中って言われていたので間に合ってよかったです。」
「え、今日中だったの!?先に言ってくれよルリイ。」
テバサキが目を見開いた。
「聞かれなかったので。」
「うそぉ。」
気まずい沈黙が一瞬流れたが、生徒の見送りを終えたマスラオーがD教室に入ってきた。
「できたみたいだな。ありがとさん。助かったよ。さすがだな。」
クオンはそこで1つの謎が解けた。そうか、マスラオーもカラマリも、テバサキなら解決できると信じていたから、この校舎に来た時、あまり動じていなかったのか。テバサキって、信頼されているんだな。
「川野には俺からちゃんと伝えておくよ。勉強・模試・親との向き合い方。それから親にも同じように話しておく。」
マスラオーは少しだけ顔を曇らせたが、すぐに元の爽やかな顔に戻った。
「ジュースくらい奢るよ。3人とも何がいい?」
「コーラおなしゃす。」
「私はレモンティーでお願いします。」
「やったー!じゃあ僕はビー…じゃなくてやっぱりジンジャーエールで!」
「カラマリはいつもカフェオレだから、彼女の分も合わせて買いに行くか。そこの自動販売機まで。」
23時前。3人は黒野校に戻ってきた。
「テバサキさん、もしかしてこの校舎って明日からもこんな感じの仕事が続くんですか…?」
帰り支度をしながらクオンはテバサキに恐る恐る聞いた。
「今日はひときわ泥臭かったな。普段は代講だったりセミナーの話者だったりが多いぞ。当然依頼のない日も結構ある。」
「そういう時はどうするんですか?」
「どうもしない。昼間にも言ったろう。依頼がなければ何もしなくていいんだ、この校舎は。」
クオンが言葉を失っているとルリイが口を開いた。
「クオンさん、私はこんな本来の塾とはかけ離れた校舎にいますけど、テバサキさんと楽しくやっています。クオンさんもそのうち慣れてきますよ。」
ルリイは新卒入社で今は4月下旬。彼女もまだこの校舎に配属されて1カ月と経過していないのに、ものすごい手際の良さだった。その彼女にこう言わせしめるということは、きっとテバサキにはまだ見ぬ魅力があるのか。クオンはそう考えながら、2人に挨拶をして、重いガラスの扉を押した。
To be continued




