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私の婚約者が姉を選んだとき

 

 私には悪癖がある。探求心をこじらせた結果生まれた悪い癖。


「先週の——あのメイドの顛末。実に教本めいていたね」


 彼はカップを傾けて愉快そうに目を細めた。


「虚飾に虚飾を重ねれば最後は自重で崩れる。君の観察はいつも正確だ」

「観客席は居心地がいいの。でも今回は違うわ」


「主役は姉と——私の婚約者」



 ◇



 伯爵令嬢の私――ブレンダの双子の姉のミックは、いつだって物語の主役でなければ気が済まない人間だった。


 夜会で最も美しいドレスをまとうのも、一番の噂話の中心にいるのも常に彼女。太陽がすべての惑星を従えるように、ミックは世界の中心が自分だと信じて疑わなかった。


 そして私はその太陽の周りを公転する、影のような惑星。

 それが、周囲から見た私たちの関係性であり、私自身もその役割を甘んじて受け入れている――ように見せかけている。


「ねえブレンダ。あなたの婚約者ロス様ってどんな方?」


 ティーカップを置き、ミックが子猫のように愛らしく首を傾げた。

 その仕草ひとつでほとんどの男が心を射抜かれることを彼女は知っている。計算され尽くした完璧な無邪気さ。


「ロス様ですか? とても誠実で思慮深い方ですわ」


 私は穏やかに微笑んでみせる。


 私の婚約者、ロス子爵子息。

 家柄は申し分なく、若くして王宮での評価も高い。その才覚と将来性を買われて我が家との縁談が決まった。いわゆる政略結婚だ。


「ふぅん、誠実で思慮深いねえ……」


 ミックは唇を尖らせた。

 その瞳に宿る光は新しい玩具を見つけた子供のそれと同じだった。

 やはりそう思うか。私が手に入れたものが、自分に相応しい輝きを放っている、と。




 案の定、次の夜会で事件は起きる。


「ブレンダ、紹介してくださる? あなたの素敵な婚約者を」


 ミックはそう言うと、私の返事を待たずにロスの腕に自身の手を絡ませた。まるで長年の恋人同士であるかのようにごく自然な仕草で。


「はじめましてロス様。ミックと申します。いつも妹がお世話になっておりますわ」


 光を一身に浴びて輝くシャンデリアのように、ミックは眩いばかりの笑顔を振りまく。

 奔放で、華やかで、誰の目も釘付けにする魅力。地味で物静かな私とはまさに正反対の存在。


 対するロスはといえば。

 最初は戸惑ったような顔を見せたものの、姉の美貌と積極的な態度に彼の喉がごくりと鳴るのが見て取れた。


「これはご丁寧に、ミック嬢。ブレンダから噂はかねがね」



 彼の視線はもう私には向いていない。


 虚栄心の強い野心家。それがロスという男に下した評価だ。

 彼にとって婚約者とは、自らの価値を高めるためのトロフィーに過ぎない。より見栄えが良く、社交界で自慢できる方がいいに決まっている。

 地味な妹と、華やかな姉。

 彼の頭の中の天秤がどちらに傾くかなど火を見るより明らかだった。


「まあ、私の噂を? どんなお話を聞かせてくれたのかしら、ブレンダは」

「はは、それは二人だけの秘密ですよ」


 聞こえてくる会話は陳腐な恋愛劇の序章そのもの。

 私は一歩離れた場所から、そんな二人を静かに見つめる。


 少しだけ眉尻を下げ、心なしか寂しげな表情を浮かべてみせることも忘れない。健気で心優しい妹。それが私の『役』なのだから。


 人のものを奪うことに罪悪感など抱かない姉。

 目の前の欲望に抗うことなく、安易な道を選ぶ男。


 なんて浅はかで、愚かで。



 ――そして、面白いのだろう。



 このありふれた人間ドラマは私の知的好奇心を刺激するには十分すぎた。

 彼らがこれからどんな愚かな駆け引きを演じ、どのような結末を迎えるのか。その過程を、展開を、すぐそばで観察できる機会などそうそうあるものではない。


 私は止めない。忠告もしない。

 ただ、静かに見守るだけだ。


 だって、舞台の幕はもう上がってしまったのだから。

 あとは主役たちが無様に踊り、自らの選択によって破滅へと突き進んでいくのを観客席で眺めさせてもらうとしよう。


 ふと、ロスと目が合った。

 彼は一瞬だけ気まずそうな顔をしたが、すぐに何事もなかったかのように逸らしてしまう。

 その隣でミックが勝ち誇ったように私を見て小さく微笑んだ。


 私は内心の愉悦を完璧に隠しきって、ただ静かに微笑み返した。



 ◇ ◇



 約束の茶番劇は我が家の応接室という小さな、しかし上質な舞台の上で厳かに開演した。


 主役は二人。

 私の双子の姉ミックと私の婚約者だったロス様だ。

 観客は私と、苦虫を噛み潰したような顔で黙り込む父と母。


 なんとも贅沢な貸し切り公演ではないか。


「ブレンダ……本当にごめんなさい。あなたを裏切るつもりなんてこれっぽっちもなかったのよ!」


 ぽろぽろと真珠のような涙をこぼしながらミックが訴える。

 その声は悲劇のヒロインにふさわしく、か細く震えていた。


 完璧な演技だ。いつか王都の劇場に立つべきだ。


「ミック嬢だけの責任ではない。全ては僕の不徳の致すところだ」


 ロス様が姉を庇うように一歩前に出る。

 その表情は深く苦悩しており、まるで世紀の悲恋に身をやつす主人公のようだ。


「君への敬意は今も変わらない。だが、我々は……真実の愛に、抗えなかったのだ」


 ――ああ、素晴らしい。

 なんと甘美で、聞き古された台詞だろう。

 私は俯いて、必死に口元が綻ぶのを抑えつけた。肩が小刻みに震えているのを、両親は悲しみのせいだと信じて疑わないだろう。


 彼らが夜会で視線を交わし、密会を重ね、ついには私の知らないところで愛を語り合うようになっていたことなどすべてお見通しだった。彼らがこの日のために用意したであろう浅はかな理屈も。


 案の定、ロス様は重々しく口を開いた。


「ブレンダ、君のその控えめで物静かな性格を、私は愛情の欠如なのだと誤解してしまった。君が私のことを本当に愛してくれてはいないのではないかと常に寂しさを感じていたんだ」


 ほう……私のせいにするのか。実に面白い。


「そんな時だ。同じ寂しさを瞳に宿したミック嬢と心が通ってしまったのは。これは……抗うことのできない運命の事故だったのだ」


 事故。

 自分たちの意思で選び取った行動の結果を、不可抗力であったと宣言することで罪の意識を軽減させる。人間の自己防衛本能が作り出した見事な言い訳だ。


 ミックが泣きじゃくりながらロス様の言葉を引き継ぐ。


「そうなのブレンダ。ロス様はいつも寂しそうだったわ。あなたという人がいながら満たされない心を抱えていた。私はただそのお心を慰めてさしあげたかっただけで……気づいた時には、もう……っ」


 そこまで言うと、彼女は言葉に詰まりハンカチで顔を覆った。

 その姿の、なんと哀れで美しいことか。


 滑稽だ。なんと滑稽で、なんと予測通りなのだろう。

 浅薄な罪悪感を覆い隠すためのこれみよがしな身振り手振り。自己を正当化するために、必死で紡がれる陳腐な言葉の数々。

 人間の醜さ、愚かさ、そして愛おしいほどの単純さがこの小さな空間に凝縮されている。


 私は、歓喜に打ち震えていた。

 この日のために、私はずっと『控えめで物静かな妹』を演じ続けてきたのだ。姉の強欲さを知りながら、何も言わずに微笑み続けた。ロスの虚栄心を見抜きながら、ただ従順な婚約者であり続けた。


 すべては彼らが何の疑いもなくこの舞台に上がり、愚かな愛の物語を演じきってもらうため。


 私はゆっくりと顔を上げた。

 目にはうっすらと涙を浮かべ、唇は悲しみに震わせる。


「……お姉様、ロス様……」


 声がかすれる。上出来だ。


「お二人が、真実の愛で結ばれたというのでしたら……わたくしが、身を引くのが道理ですわ」


 私の言葉に、ミックとロスの顔に、ほんの一瞬、安堵の色が浮かんだのを見逃さない。そうだ、それでいい。私の健気さに胸を痛め、同時に自分たちの選択が正しかったのだと安堵するがいい。


「ブレンダ……!」

「なんて心の広い!本当にすまない……!」


 ああ、駄目だ。

 もう限界だ。

 顔を覆った手の下で、私の口元は大きく歪んでいた。

 堪えきれない笑みが、どうしても溢れてしまう。



 なんと滑稽で、なんと面白いのだろう!



 浅薄な罪悪感を隠すための大仰な身振り。

 自己正当化のために紡がれる陳腐な言葉の数々。

 まるで安物の恋愛小説から引用したかのような台詞。

 人間の醜さと愚かさが凝縮されたこの光景は、私にとって何よりも刺激的なエンターテイメントだった。


 最高だ。

 彼らは自分たちの行為を運命のせいにし、愛のせいにし、誰のせいでもないと言い張る。


 けれど本当は分かっているはずだ。

 これは彼ら自身の欲望と虚栄心が引き起こした、ただの茶番だということを。

 それでも人は自己を正当化せずにはいられない。



 その過程で見せる醜態こそが、人間という生き物の最も興味深い側面なのだ。



 私は悲劇のヒロインを完璧に演じきり、最後に小さく微笑んでみせた。


「いいえ。わたくしは大丈夫ですわ。……ただ、どうかお二人だけは、お幸せに」


 さあ、第一幕は上々の出来だ。

 主役たちは期待以上の熱演を見せてくれた。


 この面白い生き物たちがこれからどんな末路を辿るのか。奪い取った愛の輝きがいつまで保つのか。


 私の知的探求心は、今、最高潮に達していた。



 ◇ ◇ ◇



 婚約解消の翌日、私は公爵家嫡男ジャック様の私邸を訪れた。

 通された書斎の壁には古今東西の書物が並び、窓際には東洋の珍しい骨董品が飾られている。

 知的で洗練されていて、そして少しだけ退廃的な香りのする空間。

 私にとって、ここは最も安らげる場所だった。


「やあ、ブレンダ。待っていたよ」


 深紅のソファに腰掛けたジャック様が悪戯っぽく目を細める。


 彼は私の幼馴染であり、長年の理解者であり――そして、私の『パトロン』だった。


 私が十三の時、ある舞踏会で見かけた侯爵夫人の転落劇を面白がって彼に話したのが始まりだった。

 虚栄心に目が眩んだ彼女が偽りの宝飾品を身につけて夜会に現れ、それが露見して失墜していく様を克明に語った時、ジャック様は心から愉しそうに笑った。


「君は実に優れた観察眼を持っているね」


 あの日の彼の言葉が、私の中で何かを解放した。

 それから何年も、私は社交界で見つけた「面白い人間ドラマ」を彼に報告し、実際に見せてきた。

 嘘を重ねたメイドの自滅。愛憎に狂った夫婦の破綻。見栄のために身を滅ぼす貴族の末路。


 私が見出し、時に密かに誘導した「人間劇」を、ジャック様は最高の観客として楽しんできた。


「ジャック様」


 私は彼の前に座り、カップを受け取る。

 抑えきれない高揚が声に滲んでいた。


「ついに来ましたわ――私の人生で最高の『作品』が」


 彼の目が鋭く光った。


「ほう?」

「姉とロス様のこと、ご存知ですわね?」

「ああ。なかなか愉快な展開だったと聞いている」


 私は目を輝かせて、昨日の茶番劇を語った。

 双子の姉という身近な存在。自分の婚約者という個人的な関係。

 これまでで最も近い距離で、最も鮮明に人間の醜さを観察できる絶好の機会。


「あの見栄の塊のようなロス様と、欲望の塊のような姉。二人が揃ったらきっと坂道を転がり落ちていくように没落していくわ」


 私は身を乗り出す。


「でも、ただ転がり落ちるだけじゃつまらない。もっと……もっと精密に彼らの心理を追い詰めて、苦悩と選択の過程を観察したいの。その時の彼らはきっと素晴らしい輝きを見せてくれるわ!」


 ジャック様はカップを置き、愉悦の笑みを浮かべた。


「君がこれほど興奮している姿は初めて見る」


 彼は立ち上がり、私の手を取った。


「今回は僕も積極的に参加させてもらおう――この『作品』の共同演出家として」


 私の心臓が高鳴る。


「では……?」

「ああ。君と婚約しよう、ブレンダ」




 公爵家嫡男との婚約発表は社交界に激震をもたらした。

 新聞は連日「捨てられた地味な妹が、王国最高峰の花嫁に」という見出しで騒ぎ立てた。

 ロスは一夜にして「公爵令息に選ばれた女性を手放した世紀の愚か者」となり、ミックは自分が捨てさせた妹の勝利を目の当たりにした。


 完璧な舞台装置だ。

 しかし、私たちの真の実験はここから始まる。


 私は二人を社会的に抹殺するつもりはない。

 それではあまりにも早すぎる。あっけなさすぎる。

 もっとじっくりと。丁寧に。

 彼らの心理を解剖するように、一枚一枚剥がしていきたい。

 だから、私は「救いの手」を差し伸べ続けることにした。




「今日、ロス様が事業資金に困っていると情報を得ましたわ」


 夜会から戻った私は、ジャック様の書斎で報告する。

 彼は興味深そうに眉を上げた。


「詳しく聞かせてくれ」

「姉との生活を維持するために無理な投資をしたそうですの。見栄のために借金を重ね、今や首が回らない状態だとか」

「ふむ。ならば融資を申し出よう」


 ジャック様は悪戯っぽく笑う。


「条件は――君への公開謝罪だ」

「まあ……!」


 私は思わず声を上げた。


「プライドと実利、どちらを選ぶか。ああ、楽しみだわ」




 三日後、ロスは私の前に現れた。

 夜会の会場で、大勢の貴族たちが見守る中、彼は深々と頭を下げた。


「ブレンダ……いや、ブレンダ様。あの時は本当に申し訳ございませんでした」


 その声は震えていた。


 プライドを守るか、生活を守るか。

 彼は後者を選んだ。


 周囲のざわめき。嘲笑。同情。

 すべてを浴びながら、彼は頭を上げられずにいる。

 私は穏やかに微笑んだ。


「いいえロス様。お気になさらないでください。お二人の真実の愛を応援していますわ」


 その言葉が、どれほど彼の心を抉るか。

 私にはよく分かっていた。




 次はミックの番だった。

 姉は事業の失敗により、社交界で孤立し始めた。

 ロスとの結婚生活も順風満帆とは言えない。彼女の浪費癖は変わらず、ロスの収入では到底賄いきれないのだ。

 私は姉をパーティーに招待した。

 公爵家主催の華やかで格式高い夜会に。


「お姉様、お久しぶりですわ。お元気でしたか?」


 煌びやかなドレスに身を包んだ私を見て、ミックの顔が引きつる。


「ええ……元気よ、ブレンダ」


 彼女は必死に笑顔を作る。


 けれど、その目は笑っていなかった。

 夜会の間、私は姉に丁寧に接し続けた。

 飲み物を勧め、有力貴族に紹介し、心からの気遣いを見せる。


「妹の慈悲」を受け入れるたびに、ミックの表情は歪んでいく。


 劣等感。嫉妬。そして、自分の選択への後悔。


 その夜、屋敷に戻ったミックはロスに当たり散らしたらしい。


「あなたがその程度だから、私が惨めな思いをするのよ!」




 侍女からの報告に、私は満足げに頷いた。


「完璧ですわ、ジャック様」


 書斎で私は記録を取る。

 二人の反応、言動、表情の変化。すべてを克明に。


「人間は自尊心と生存、どちらを選ぶのか」


 ジャック様が呟く。


「善意を受け続けることに、人間はどこまで耐えられるのか」


 私は微笑んだ。


「すべては実験データですわ。そして今、最も興味深いフェーズに入っています」


 彼らは逃げ道を与えられながら、そのたびに自尊心を削り取られていく。


 善意という名の拷問。

 それは人間の本質を暴き出す最高の実験だった。

 私たちの「作品」は今まさに佳境を迎えようとしていた。


 ああ、なんと愉快で、なんと美しい人間ドラマなのだろう。

 私は心の底から、この瞬間を楽しんでいた。



 ◇ ◇ ◇ ◇



 私たちの実験は寸分の狂いもなく進行していた。

 予測された理論が現実の事象として完璧に証明されていく過程は、何物にも代えがたい興奮を私に与えてくれる。


 姉のミックと元婚約者のロス。

 二人は面白いほどに私の描いた筋書き通りに動いた。

 与えられた救いの手にすがりつき、そのたびにプライドを少しずつ削り取られていく。その過程で生まれる葛藤、嫉妬、後悔、自己憐憫。それら全てが私の研究記録を豊かに彩る貴重なデータとなっていった。


 そしてその負の感情で彼らは無謀な事業に飛びつき、さらに負債を膨らませる。


 人間の精神がいかに脆弱で、自尊心がいかに脆いものであるか。

 その証明が着々と進んでいく。


 私は日々の観察記録を手にジャック様の書斎を訪れた。


「順調かい、ブレンダ」


 彼はいつものように愉悦を隠さない笑みで私を迎える。


「完璧ですわ。彼らは予測通りに追い詰められています。データは順調に蓄積され、人間の脆弱性が証明されつつあります」


 報告を終えた私にジャック様がどこか思案げな表情を向けた。


「ブレンダ、君は気づいているかい?」


 彼の声にはいつもの観客としての軽やかさとは違う響きがあった。


「今回の『作品』はこれまでと決定的に違う点がある」

「何ですの?」


 私が問い返すと、彼は面白くてたまらないというように目を細めた。



「君自身が舞台に立っている」



 その言葉に私は息を呑んだ。


「観客席からではなく役者として。そして――君は演じることを心から楽しんでいる」


 私は言葉を失った。

 ジャック様の指摘は私の心の奥底を正確に射抜いた。


 確かに今回は違う。

 私は単なる観察者ではなかった。

 婚約者を奪われた『悲劇のヒロイン』を演じ、公爵家嫡男の『高貴な婚約者』を演じ、そして姉に救いの手を差し伸べる『慈悲深い妹』を演じている。


 その演技そのものに私はこれまでにない高揚感を覚えていたのだ。

 役になって相手の心を計算通りに動かす快感。それは客席から眺めていては味わえない甘美な毒。


「君がこれまで僕に見せてくれた『作品』は素晴らしかった。でも今回は特別だ」


 ジャック様は静かに微笑む。


「僕は長年、君という最高の『演出家』を観察してきた。そして今、君が最高の『役者』になる瞬間を目撃している。これ以上の観劇体験があるだろうか?」


 そうだ。

 私は演じていた。

 そして、楽しんでいた。


 なぜだろう。

 これまでの観察対象にはここまで深く感情移入することはなかった。常に一歩引いた場所から冷静に分析していたはずだ。

 そう思考していると、ある結論にたどり着く。



 ……ああ、そうか。

 今回の主役が、私の双子の姉と私の婚約者だったから。



 あまりに近しい存在であったために私自身も完全に観客に徹することができなかったのだ。その個人的な関係性が私を舞台の上へと引きずり出した。


 自分自身すらも、観察対象になり得るとは。

 面白い。

 やはり人間は面白い。


 ジャック様の目が愉しげに輝く。


「完全な観察者など存在しない。誰もが舞台の上にいる。その事実を理解した時、観劇は最も深淵な意味を持つ」




 全ての布石が打たれ、舞台が最終幕を迎えた日。

 全てを失ったロスとミックが私の前に泣きついてきた。


 見る影もなくやつれた二人の姿は惨めという言葉ですら生ぬるい。


「ブレンダ……いえ、ブレンダ様」


 ミックが震える声で言った。


「お願いです。助けてください」


 ロスも深々と頭を下げる。


「どうか、お慈悲を……!」


 私は穏やかに微笑んだ。


「もちろんですわ。お二人を見捨てるなんてできませんもの」


 希望の光が彼らの目に宿る。

 その光を、私はゆっくりと消していく。


「条件は一つだけですわ」


 ここまでこの「人間劇」は完璧な流れで進んでいる。

 この劇を最高の形で終わらせるため。二人の絶望や自己崩壊を絶頂にして観察するため。


 私は告げる。



 ――今までの従順で慈悲深い妹の仮面から、演出家としてのおぞましい顔を少しだけ覗かせて。



「近々開かれる夜会で社交界の皆様の前で告白していただきます。――あなたたちがどのような経緯で私を裏切ったのか、その全てを」


 二人の顔から急速に血の気が引いていく。


「それとも告白を拒み、ささやかなプライドを守って破滅の道を歩みますか?」


 絶望。

 二人の瞳に浮かんだのはまさしくその一言だった。

 社会的な死を選ぶか。経済的な死を選ぶか。

 どちらに転んでも彼らに未来はない。


 その究極の選択を迫られる人間の姿を、私はジャック様と共に静かに見つめていた。


 ああ、なんと美しいのだろう。

 極限状態に置かれた人間の精神が最後の輝きを放っている。



「お二人の行動はおおよそ予測通りでした。私の実験にご協力いただき感謝します」


 私たちの実験は、最高の形でクライマックスを迎えた。





 全てが終わった後、ジャック様の書斎で二人きりの祝杯をあげた。


「完璧な作品だった」


 ジャック様が、心からの賛辞を口にする。


「君はこれまで何十もの人間ドラマを僕に見せてくれたが、今回が最高傑作だ」

「ありがとうございます、ジャック様」


 私は静かに微笑み返す。


「理由が分かるかい?」


 彼は私のグラスにワインを注ぎながら続けた。


「それは――君自身が作品の一部になったからだ。観察者が舞台に上がり、役を演じる。そしてその姿が僕によって観察され続けた。この入れ子構造こそが芸術の極致だよ」


 自分が観察されていたこと。

 そして、その事実すらもひっくるめてこの壮大な『作品』だったこと。

 それを理解した時、私は奇妙なほどの充足感に満たされていた。


「しかし、ジャック様」


 しかし、私は静かに口火を切った。

 私が観察されていたように、私もまた、ジャック様を観察していたのだから。


「私が舞台に立ったように。今回は婚約までしてあなたも完全な『観客』ではありませんでしたわね?」


 私の言葉にジャック様はふと、意表を突かれたように目を見開いた。

 その表情の変化を見逃さず、私は問いかける。


「それは、なぜですの?」


 彼は少しの間、思案するように沈黙した。

 やがて諦めたように、そしてどこか楽しそうに、結論を口にした。


「……どうやら僕も、君という最高の演出家に執着してしまっていたらしい」


 彼はそう言って、自嘲気味に笑う。


「いやはや、これだけ永く人間というものを『観劇』し続けてきたというのに。自分自身ですら完全に把握できていないことがあるとは…… やはり人間は面白い」


 そう言うとジャック様は静かに立ち上がり、私をその腕の中にそっと抱きしめた。

 彼の胸の鼓動が、静かに、しかし確かに伝わってくる。


「では、次の『作品』は?」


 彼の腕の中で、私は囁くように尋ねた。


「もちろん一緒に探そう。君が面白い作品を作り続けるうちは、僕も最高のパトロンで居続けると約束するよ」


 私たちは顔を見合わせて笑い合った。

 観客と演出家。そして互いを観察し合う共犯者。


 それが、私たちの歪んだ関係性の完成形だった。


「ねえ、ジャック様」


 私は悪戯っぽく微笑む。


「東の侯爵家で面白い噂を耳にしましたの。愛人騒動なのですけれど、これがまた興味深くて……」

「詳しく聞かせてくれ」


 彼の目が輝く。

 私たちは再び、ソファに並んで座った。

 窓の外では夕陽が沈み、書斎は薄暗い黄昏に包まれていく。

 けれど、この空間だけは奇妙な熱気に満ちていた。


 人間の愚かさを愛し、その醜さを美しいと感じる二人の歪んだ楽園。

 互いの狂気を理解し、共有し、そして――観察し合う関係。


 面白い人生。刺激的な日々。

 私は心の底から、この瞬間を楽しむのだ。

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― 新着の感想 ―
ここまでやらかしてると公爵夫妻も「怖っ、関わらんといとこ!」となって遠巻きにされてそう^^;
初めまして。 主人公二人?主人公と旦那様?の趣味は、なかなか癖が強く、ある種の「被害者」が発生するものなのかもしれない。 だけど、そもそもネタ提供=二人が興味を示すような言動をとらなければ、彼らの舞…
妹だけ婚約者がいてお姉様はいなかったの? それならきっともっと上の男を狙ってたはずなのに、わざわざ格下の男を欲しがるなんて彼はそんなにいい男なのかな? 公爵夫妻はそのうち刺激が足りなくなって王家の人…
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