3話
(——あ、私以外の面子で遊びに行ってる)
駅のホームで、桜は画面に視線を落としたまま嘆息した。
肩に掛けた鞄の持ち手が痛い。毎回テストがあると言った授業のせいである。おかげで教科書を持ち帰り勉強に励まなければいけない。
(取る授業は間違えたし、私以外の面子で遊んでるし、最悪)
違う大学へ進んだ友人のアカウントを消して、桜はやってきた電車に視線を滑らせる。
人混みに紛れるように乗車する。席は——空いてない。
仕方がなしに入り口付近の手すりに寄りかかる。と、手の中のスマートフォンが振動した。開くと、母からの連絡だ。
『今日の夕飯は自分でなんとかして』
まただ。
もう少し早く言ってくれれば、電車を待っている間に何か買えたのに。と心の中で愚痴る。
(最近、良いことないなぁ)
鞄の中へスマートフォンを滑り込ませる。
(……いや、それは昔からか)
電車がトンネルの中に入り、ぼんやりとした自分の顔が鏡のように見えた。
(サークルとか入った方が良かったかな。友人って呼べる子、全然出来ないし……でもバイトしたいしな。落ちまくってるけど)
振動に揺られながら、桜は電車のアナウンスを聞き流す。
ふと、吊り下げられた広告が目に入る。
(あー……海行きたい)
海が好きだった。
幼い頃、両親と共に遊びにいった記憶を思い出す。数少ない、家族との楽しい記憶だ。
(行くお金も時間もないけど)
電車の席は空かない。
お前の居場所はないのだと。そう告げているようだった。
「——勇者様、召喚にお答えくださりありがとうございます」
「……え?」
異世界召喚。
すぐに状況を呑み込めたのは、暇つぶしに読んでいた異世界ファンタジー小説のおかげだろう。
(まさか、本当にあるとは思わなかったけど……)
どうやら自分は勇者として召喚され、これから魔王を討伐しなければいけない。
召喚される際に勇者としての特別な力が付与されているため、膨大な力を持っている。
国王と名乗る男の話を要約すると、これだ。
確かに、力がみなぎっているのを感じる。
(異世界ものはチートが定番だしね)
桜はすぐに納得した。
こうして、桜の勇者としての旅は始まった。
そして——すぐに後悔することとなる。
「こ、これ食べるの?」
焚火に炙られた魚は、思い描いていた異世界ファンタジーの食事シーンだ。
……その魚が、軽く発光していることを除けば。
「勇者、こゆの嫌い?」
首を傾げたのは魔王討伐メンバーの一人、治癒魔術師の女性だ。
女性、と表現したものの、彼女の見た目は幼女そのものだ。しかし実年齢は魔王討伐メンバーの誰よりも上だというのだから驚きだ。
「……毒はない」
同じく魔王討伐メンバーの一人、戦士の男が口数少なく言う。
大きな斧を背中にかつぐ筋骨隆々な男は、熟練冒険者の雰囲気を漂わせている。その見た目を裏切ることなく、慣れた様子で発光魚を噛みちぎる。
「魚は……好きだけど」
「そなの? じゃあ食べれる?」
「……食べられる時に食べなければ。保存食を無闇に消費するのは、良くない」
「う、うん……」
考えてみろ。光を放っていることくらい、なんてことはない。いやでも流石に光は。いやいや毒はないって言ってた。
と、桜の思考はぐるぐる回る。その時だった。
「勇者様、大丈夫ですよ」
横から、気遣わしげな声が聞こえた。
「この魚はアルファンノって品種で、発光している見た目は少し特殊ですが、中々美味なんですよ。市井でも結構人気なんです」
「ヒース」
魔王討伐最後のメンバー、魔術師ヒースは苦笑しながら教えてくれた。
ヒースはお手本を示すように、ぱくりと魚を食んだ。そして美味しそうに頬を緩めた。
「……」
恐る恐る、発光する魚の目に慄きながら、一口。
「——」
途端に、今まで味わったことのない美味が口の中いっぱいに広がる。
アジに近いような遠いような。とにかく美味しい。さらに骨がないのが驚きだった。
「……ふ」
隣でヒースが柔らかく微笑む。
桜は妙な気恥しさを覚えながら、食事の手を進めた。
「——勇者様、お助けくださりありがとうございました!」
「怪我がなくて良かったです」
ある時、魔獣討伐に困っている人々を助けた桜達は、驚くほど村人から感謝された。
なんでも生贄の娘を捧げるよう、要求されていたとか。桜はそんな悪しき存在を無事に倒せたことに胸を撫で下ろした。
「……我々の目的は魔王討伐。これは寄り道だ」
村人たちが催してくれた感謝の宴に参加している最中、隣に座った戦士は口数少なく言った。
「駄目、だった?」
「……」
そっと見上げると、戦士はふっと口元を和らげた。
彼は無骨な手を上げると、ぽすんと桜の頭の上に掌を乗せた。想定外に優しく撫でるものだから、言わずとも彼の気持ちを理解する。
「……これ、私の世界だとセクハラなるんだよ」
「……嫌だったか」
「ううん」
父の手とは、こういうものなのかもしれない。
幼い頃から碌に顔も見ていない父を思い出し、桜は目を伏せた。と、がしりと肩を組まれる感覚。
「ヒース?」
「勇者様ぁ、呑んでますかぁ?」
酒臭い。完全に出来上がった酔っ払いといったヒースは、桜の肩を組んでは「ほら呑まないと勇者様の分なくなっちゃいますよぉ、食べ物だってぇ、美味しくてぇ」と管を巻く。
「ヒース、お母さんみたい」
「ふぉ、ふぉかあさん!?」
「ふっ」
「いやいや待ってください! 僕は立派な成人男性! 貴方のお母さんなんかじゃありませんからねぇ!?」
「じゃ、なに?」
「え」
ヒースはぴたりと静止した。
アルコールが回ったのか、ますます顔を赤くして。
「僕は、あなたのぉ……あなた、の」
「?」
「貴方の、ことが、す、すすすす、す」
「す?」
「——素晴らしい、友人です!」
——友人。
「友人、かぁ」
「あ、いやその、ええと今のは」
元の世界を思い出す。
友人、そう呼べる存在は果たしていたのだろうか。一緒に行動する人間はいた。けれど、本当の友人だったかと問われると。
「……ヒースが、私の初めての友人かも」
「はえっ!?」
「ふふ、嬉しい」
「——それは、光栄、です」
「……残念な男だ」
「ありゃあ、引けなくなっちゃったね」
桜は思わず笑みを溢れさせた。
視界の端で、戦士といつの間にか現れた治癒魔術師が苦笑する。ヒースは、何故か泣きながら笑っていた。
「——勇者よ、魔王討伐ご苦労であった」
大喝采の元、桜たちは国に帰還する。
長い長い旅であった。その末、無事に魔王を討伐出来た。
帰還後の桜は大忙しだった。誰もが魔王討伐を果たした桜に一目会いたいと願い、連日のように開催されるパーティーに出席する。
「勇者様、貴方は少し休んでください。後は僕たちがやりますから」
ヒースがそう言って、無理やり休みをもぎ取ってくれなかったら、桜はとっくに倒れていたかもしれない。
ある日、桜は国王に呼ばれた。玉座の前ではなく、内緒話をするような閉ざされた部屋だった。
「勇者よ、おぬしには言わなければいけないことがある」
王は沈痛な面持ちで、桜が元の世界に帰れないかもしれないことを告げた。
曰く、召喚の陣はあるのだが帰還の陣はないのだという。作れるが、果たして本当に元の世界へ帰れるかは分からないのだという。
「おぬしには本当に申し訳ないことをしたと思っている。国を守るためとはいえ、おぬしのような人間を一人犠牲にするなど、本来はあってはならぬ」
「……」
「おぬしが望むのならば、わしは玉座から退く。その覚悟で、わしはおぬしを召喚させた」
国王は重い表情で言う。桜はその話を聞いてもショックでもなんでもなかった。
ああ、やっぱり。
それが正直な感想だ。異世界もので帰れないは定番だったからだろうか。それとも、
(あの世界に未練がないからだろうか)
目を閉じれば思い出す。勇者様、ありがとうと微笑む人々の顔を。自然と桜の胸は温かくなる。
桜は、サクラは。自分のために用意された椅子に腰掛けながら、笑みを浮かべた。
「——勇者、お人好しね」
国王との謁見から数日後。お茶会の最中、相手をしてくれていた治癒魔術師は呆れ顔で言った。
「もっと怒っていのよ? その権利が勇者にはある」
「別に、いいよ。この国でやっていけるお金はもらったし。色々手厚くやってくれるって保証してくれたし」
「それがお人好し」
治癒魔術師はカップを置くと「いい?」とびしっとサクラに指を突きつけた。
「怒っていのよ、泣いていのよ、勇者は勇者だけど、ただの女の子でもあるんだから」
「……ありがとう」
「同時に、あたしはきみをたんと褒めてあげる」
「褒め……?」
治癒魔術師は椅子の上で立ち上がると、身を乗り出してサクラの頭を撫でてくれた。
「きみは凄い、偉い、なでなで!」
「えーと、これはなに褒め……?」
「全部よ、ぜーんぶ。今までも、今この瞬間もひっくるめて、全部を褒めてあげてるの!」
「息してるだけで偉いみたいな……?」
「なに言ってるのよ。偉いに決まってるでしょ!」
治癒魔術師は明るく笑った。
サクラの胸が温かくなる。泣きたくなるくらい、優しい小さな手に、いつまでも甘えたくなる。
そう思って、目を閉じた時だった。
「……? あ」
「勇者?」
胸が痛い。
サクラは咄嗟に胸を抑える。しかし、心臓が暴れるような痛みは治まらない。信じられない激痛に、ぶわりと汗が額に滲む。
「勇者! しっかりするの!」
治癒魔術を行使しようとする彼女の姿を最後に、サクラの意識は暗転した。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます!