第5話「信じることの始まり」
月曜日の朝。
千紗は、出勤途中の電車の中で、ジャケットの内ポケットを指先でなぞった。
そこには、有馬からもらったカードが入っている。
「あなたのために祈っています」
短いその言葉は、日が経つにつれて、じわじわと胸に沁みていた。
“誰かが自分のために祈ってくれている”
それだけで、なんとなく心の奥があたたかくなっていた。
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「おはようございます」
会社のドアをくぐると、有馬がいつもの穏やかな笑みを浮かべて待っていた。
「……今日、ちょっとだけ不安だったけど、顔見たら落ち着いた」
そうつぶやくと、有馬は照れくさそうに笑った。
「僕も、同じ。……千紗さんが、ここにいてくれるだけで少し安心するんだ」
その一言に、千紗の頬がふわりと紅く染まる。
今までは、自分が“必要とされること”ばかりを求めていたけど――
“誰かの心に、ただいるだけでいい”
そう思えるようになったのは、有馬の隣にいた時間があったからだ。
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昼休み。
ふたりはビルの裏手のベンチに座り、コーヒーを飲んでいた。
「ねえ、有馬さん」
「うん?」
「信じるって、やっぱり怖いことだよね」
「……怖いと思うよ」
「裏切られるかもしれないし、何も得られないかもしれないし」
千紗は、カップを見つめながら言った。
「それでも、信じてるの?」
「信じるというより、“信じ続ける”感じかな」
有馬は、ゆっくりと空を仰いだ。
「裏切られても、道に迷っても、それでも信じる選択をする。
信仰って、そういうものかもしれない。
……人を愛するのと、少し似てる」
千紗は、その言葉に少し驚いたように目を上げた。
「愛するのと、似てる?」
「うん。完璧だから愛するんじゃなくて、
欠けたままでも、大丈夫だと信じて、寄り添っていく……そういうもの」
風がそっと吹き抜ける。
春のにおいが、どこか懐かしい。
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その夜。
帰宅した千紗は、久しぶりに机の前に座り、ペンを取った。
そして、何かに話しかけるように、小さく書き始めた。
『神さま、あなたのことをまだちゃんと知りません。
でも、私のことを知ってくれているなら……
どうか、この不安な心に、静かな光をください』
それは祈りだった。
たどたどしくても、ぎこちなくても、
誰かを信じようとする、最初の一歩だった。
信じることの始まりは、きっと、
「知りたい」と思うことから始まるのだろう。
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その日、有馬からメッセージが届いた。
「祈ってくれてありがとう。
祈りはいつも、ちゃんと届くよ。
たとえ自分が信じきれなくても、神さまはずっと変わらずそこにいるから」
千紗は、スマホの画面を見ながら、そっと微笑んだ。
“私は、きっと大丈夫”
少しだけ、そう思えた夜だった。
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次回:第6話「その手にふれたとき」
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