第4話「やさしい奇跡」
春の風が、ようやく冷たさを手放した午後。
千紗は、駅前のカフェの窓側で、有馬を待っていた。
本の打ち合わせ――という名目ではあったけれど、
心のどこかでは、ただ彼に会いたかったのだと思う。
「ごめん、待った?」
柔らかな声とともに現れた有馬は、いつも通り落ち着いた表情で、
でもどこか、千紗の頬を見て微笑んだ。
「……何かいいことあった?」
「……うん。たぶん、少しだけ」
彼女はカップを両手で包みながら、小さく笑った。
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先週の日曜、教会を訪れたあと。
千紗は、夜になってもあの静けさを思い出していた。
祈りという行為は、まだぎこちなくて、
信仰はどこか遠くのもののようだった。
だけど――
あの場所で、自分が「否定されなかった」ことが、ただ嬉しかった。
「ありのままで、ここにいていい」
それを教えてくれたのは、有馬であり、教会であり、
そしてあの静かな午後の空気だった。
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「有馬さん、ありがとう。……この前、祈ってくれて」
「ううん。こちらこそ、教会に足を運んでくれて嬉しかったよ」
その言葉に、また胸の奥がふわっとした。
「祈るって、不思議だね。何も変わらないのに、
気持ちだけは、少し変われる気がする」
「祈りは“何かを願う”っていうより、
“今ここに神がいる”って思い出すこと、なのかもね」
彼の言葉は、いつもやわらかく、深い。
まるで、何も咎めずに、ただ寄り添ってくれるような、
優しい奇跡のようだった。
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その日、カフェを出た帰り道。
夕焼けが街を染めていた。
赤く染まった空に、ふたりの影が伸びる。
ふと、有馬が立ち止まり、
ポケットから小さな紙を差し出した。
「これ、教会で配ってたものだけど……よかったら」
それは、“あなたのために祈っています” と書かれた、短いメッセージカードだった。
「こんなカード、あるんだ……」
千紗はそっとそれを受け取り、胸のポケットにしまった。
「誰かが祈ってくれてるって、不思議だね」
「うん。でも、きっと誰かの祈りが、
千紗さんをここまで連れてきてくれたんだと思う」
それは――
運命とか偶然とか、そういう言葉では足りないもの。
名もないやさしさが、
静かに誰かを導いていく。
きっとそれを、“奇跡”と呼ぶのだろう。
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その夜。
千紗は小さくつぶやいた。
「……神さま、もし本当にあなたがいるなら、
私は、もう少しだけ信じてみたいです」
それはまだ、小さな声だったけれど、
誰かに届くと信じて――
空に、やさしく祈りを浮かべた。