第一話 静かな祈りのそばで
第1話:静かな祈りのそばで
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雨の日だった。
朝から降り続ける冷たい雨が、ビルのガラスを叩く音だけが静かに響いている。
千紗は、いつものようにコーヒーを片手に編集部のドアを押した。
地味な服装に、長めの前髪。人混みに紛れると、すぐに見失われるような存在。
「おはようございます」
小さな声で挨拶すると、奥のデスクでパソコンに向かっていた有馬が、ふと顔を上げた。
「おはよう。びしょ濡れじゃない?」
「少しだけ。……傘、忘れちゃって」
「タオル、使う?」
そう言って、彼は自分のロッカーから新しいハンドタオルを差し出してきた。
彼――有馬涼は、部署で一番無口で、一番優しい人だった。
必要以上のことは言わないけれど、いつも誰かをさりげなく気にかけている。
千紗はその優しさに、いつからか目を向けるようになっていた。
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その日の午後、彼女は資料を探して倉庫へと足を運んだ。
古い文芸書が積み上げられた棚の隙間に、ふと、風に開いたページが見えた。
それは一冊の、少し色あせた聖書だった。
「……なんでこんなところに」
何気なく手に取ったそのとき、背後から声がした。
「それ、昔の企画の資料かもね」
振り返ると、有馬がいた。
「……読んだこと、あるの?」
「うん。毎朝、少しずつ読むようにしてる」
「え……? ってことは、信じてるの? 神様とか……」
「うん。クリスチャンだから」
少し驚いた。
けれど、どこか腑に落ちた気もした。
この人の優しさの理由が、少しだけ見えた気がして。
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「信じるって、どういうことなのかな」
小さくつぶやいた千紗の声に、有馬は静かに答えた。
「ひとりじゃないって、知ること。
自分がどれだけ愛されてるかを、信じることかな」
胸の奥がきゅっとなる。
それは、ずっと誰かに言ってほしかった言葉だったのかもしれない。
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それから数日、千紗はいつもより少しだけ彼を目で追うようになった。
そして、静かに開かれた聖書のページの余韻が、
心のどこかに小さな光のように残っていた。
それが、“始まり”になるとも知らずに。