第三章 オレンジタウンの洗礼 C
「何よあいつ! 今度会ったらミンチにしてミートソースの材料にしてやるんだから!」
夏凛のご機嫌は最悪を通り越してまさに極悪の境地に達していた。いつもなら石ころでも蹴り飛ばして怒りを発散しているところなのに、今日は適当なものが地面に転がっていないだけ余計に気分が悪い。
「で、これからどうする?」
この春樹の問いに答えたのも彼女である。
「は? そんなの決まってんじゃない! 行くわよ、八番街の楽器屋に!」
「八番街の楽器屋? お前まさか……」
「ええ、もちろん出るつもりよ、バンドフェスティバル!」
どうやら、本気で先ほどのライオン頭に対抗する気でいるらしい。しかし、そんなことが現実的に不可能なことくらいちょっと考えればわかることだ。
「おま……。無茶を言うな。あと一週間ちょいしかないのに、今からバンドを結成して間に合うはずがないだろ」
「そんなの、わからないじゃない!」
「いいや、わかる。だいたい、お前は何か楽器ができるのか」
「それは……!」
急に黙り込む夏凛に、春樹は「ほらな」と溜め息を洩らした。
「とにかく、ここは一度頭を冷やしてだな、もっと現実的な方法で……」
しかし、そこへ口を挟んだのは先ほどからずっと考え事をしていたシェリーだった。
「ちょっと待って下さい」
彼女の目はとても真剣で、春樹も一瞬ハッとさせられるほどだった。
そしてシェリーは春樹に歩み寄る。
「私、ずっと考えていたんです。どうすれば昇くんの願いを叶えてあげることができるのか。花火大会の中止を食い止める為には、一体何をすればいいのか」
それはつまり、いかにしてこの町の空からあの飛空挺を退かすか、という問題であった。
だが、この町の部外者である自分達がいくらそんなことを考えたところで何かを変えられるわけでもあるまいし……。
「シェリー、お前の気持ちはわかるが、俺達にできることなんて……」
その時だった。
彼らの会話を断ち切るようにして、近くのレストランの窓ガラスが砕け散ったのだ。
「……!」
そのただならぬ様子に、三人は視線を奪われる。
「今度はなんだ……?」
見れば、窓ガラス突き破って路上に転がりこんできたのは、まだ十二才くらいの男の子だった。
彼は全身に傷を負いながらも、再び立ち上がって店の入口へと向かう。
「これしきのことじゃ……諦めねぇぞ……」
しかし、彼が再び店の中に足を踏み入れることはなかった。彼が入口の扉に手を掛けた時、扉は勢いよく開いて彼の体を吹き飛ばしたのだ。
「うっ……!」
地面に倒れた彼の額から血が滲む。
夏凛とシェリーはすぐに彼の元へ駆け寄ろうとしたが、それを遮ったのは春樹だった。
「待て。絶対に近寄るな」
「でも!」
「近寄るなと言ったんだ」
その鋭い眼光に、夏凛とシェリーの体は硬直した。
「春樹君……?」
一体どうしてこんなに冷血な物言いをするのか、シェリーは本気で理解できない様子である。しかし、春樹は彼女達に何と思われようとも構わなかった。とにかく、この二人の身に何かあっては、昇に合わせる顔が無い。
そうこうしているうちに、店の中からは黒服を着た男達が次々に出てきた。やがて最後の最後に姿を見せた軍服姿のヒゲ男が、男の子の前で足を止める。
「ぐぇっへっへっへ。小汚ぇガキが、俺様に逆らうんじゃねぇよ」
そして軍服の男は少年の髪をわしづかみにすると、何の躊躇も無く血に染まったその額を地面にねじ伏せた。その情け容赦無い扱いは、見ていて非常に耐えがたい。
「どうだ? 泣いて謝ってみろ。そうすれば、これまでにはたらいてきた狼藉の数々、今ここで見逃してやってもいいんだぞ?」
しかし、少年の瞳から彼の覚悟が消えてしまうようなことはなかった。
彼は男に抑えつけられていた頭を渾身の力を持ってして地面から持ち上げると、ヒゲ男の靴に向けて唾を吐きかけたのだ。
「お前らなんかに……この町の空は渡さない」
そして、少年のこの言動がきっかけで、ついにヒゲの男は腰の剣を抜くことになる。
「てめぇ……やってくれるじゃねぇか……。そんなに死にてぇなら今すぐ殺してやるよ」
少年の首に突き付けられた細い剣。つばに刻まれた軍の紋章は、周囲の光をやたらと反射してギラギラと輝いていた。
まさかあの軍人、本気でこんな町のど真ん中で人殺しをするつもりなのだろうか。
しかし、少年の周りを取り囲む大勢の黒服達を前に、シェリーと夏凛には成す術がない。
「あばよ、糞ガキ」
そうして、その凶刃が今にも少年の体を一閃すると思われた時だった。
「ちょっといいですか」
突如、ヒゲの男と少年の間に立ち塞がる一つの影。それは全身に黒衣をまとった、いかにも怪しげな人物であった。
彼は少年に向かって振りおろされた剣を素手で受け止めると、何事も無かったかのように話を始める。
「お取り込み中、失礼」
「なんだ、てめぇは?」
「単なる通りすがりの刀鍛冶ですよ」
まるで光を避けるようにして目深にかぶられたフードが、彼の顔を覆い隠していた。
軍服の男もだいぶ警戒しているようではあったが、その異様なまでの存在感から彼がただ者でないことを感じ取ったらしい。
「それで、その通りすがりの刀鍛冶が俺に何の用だ?」
「ええ……いやはや、危ないところでしたよ。あなたの持つこの剣、見ればかなりの優れ物ではありませんか」
「ほう。わかるか? 俺様自慢の愛剣だからな」
「でしょうなぁ。しかし……」
黒衣の男はそこで言葉を切ると、渋るような声で続けた。
「しかし、残念ながら寿命のようです」
「どういうことだ?」
「ええ……つまりですね、この剣はもう使い物にならないのですよ。もしもあと一人でも人間を斬れば、この剣は簡単に折れてしまいましょう」
「なんだと! そんなはずあるか! これはまだ……」
しかし、一度はこの話しを否定しかけた軍服の男にも、心当たりがないわけではない様子だった。
「……いや待てよ。確かにこの剣が使い古しである可能性は否定できない」
「ええ、かなり使い古されております。このように、素手で容易く受け止められてしまうのもそのせいです」
「なるほどな……」
これが決め手となったらしい。軍服の男は、もう黒衣の刀鍛冶の話しを信用しきっている。
「ささ、こんな薄汚い子どもなどに構っている場合ではありません。一刻も早くこの町の鍛冶屋へ向かわねば」
「おう、案内しろ」
こうして、軍服の男とその取り巻きの黒服達はぞろぞろと去っていった。
取り残されたシェリーと夏凛は思い思いにその姿を見送る。
「あんな野蛮な人が、政府に雇われた軍人だなんて……」
それはシェリーにとってはかなりショッキングな出来事であったようだ。
軍人が弱き者の味方であることは、理想国家の必要条件。シェリーは幼い頃から、軍人である父親にそう聞かされて育ってきたのだった。
それなのに、これはどういうことだろう。この国は今、そんな初歩中の初歩さえも踏み外すところまできてしまっているということなのだろうか。
そして彼女のこの辛辣な嘆きは、夏凛の怒りをも増長した。
「本っ当に最低よね! どうしてあんな奴が軍人なんかやってるのかしら!」
だが、イライラするのは後からでも遅くはない。
とにかく今は傷だらけの男の子を保護しなければ。
「君、大丈夫? 名前は?」
急いで男の子の元へと駆け寄る二人。
「俺は、シュウ……。八番街の、楽器屋で……」
しかし、ひどく衰弱していた彼は、ようやくそれだけ口にすると気絶してしまう。
「夏凛さん、八番街の楽器屋って……」
そう。八番街の楽器屋と言えば、例のライオン頭が紹介していた楽器屋のことだった。
「ええ……。これはどうやら、神様のお導きってやつみたいね」
こうして二人は少年を連れて八番街の楽器屋へと向かうことになる。
だがここで、シェリーはようやくある異変に気がついたようだった。
「あれ? そういえば春樹くんの姿が見えませんね。まったく……こんな時にどこへ行ったんでしょうか」
何度辺りを見回しても、彼の気配すら感じられない。
「本当に、春樹くんは何を考えているのかわかりません。さっきだって……」
正直、シェリーは春樹に対して少し幻滅していた。
だって彼は、自分たちが男の子に向けて差し伸べようとした救いの手を、無情にも遮ったのだ。彼があそこで止めなければ、男の子もこんな危険に晒されずにすんだかもしれないのに。
しかし次の瞬間、シェリーは夏凛の言葉に打ちのめされることとなる。
「あら? シェリー気付いてなかったの?」
「何がです?」
「あの野蛮な軍人をうまいこと騙して連れて行った黒衣の刀鍛冶、あれ春樹よ」
「え?? ええっ!?」
意味がわからなかった。
「だって、春樹君はあんな服……」
「ああ、あれね。実はあいつがいつも着てるジャケット、対龍用の防炎マントにもなるらしいのよ。ほら、この間、森の中で龍に襲われたでしょ? あの時にちょっと見せてもらったわ」
そんなこと、自分は全く知らなかった……。
シェリーは自分が勝手な勘違いしていたことを知り、ひどい嫌悪感にさいなまれた。そして何よりも、自分がまだ彼のことをきちんと信じてやれてなかったことに気付かされ、とてつもなく恥ずかしい気持ちになった。
「私、最低です……。春樹君のこと、まだほとんど何も知らないのに……」
すると、そんなシェリーの心中を察してか、夏凛はさりげなく彼女の肩を叩いてやった。
「気にすることないわ、シェリー。あいつも、ちょっと言葉が足りなさ過ぎるのよ。帰ってきたら、少しきつく叱りつけてやろうかしら」
その気遣いがまた、シェリーにとってはなんとも歯がゆい。
彼女はかろうじて夏凛に苦笑いを向けて応えると、まるで胸の奥底から湧きあがってきたような深い深い溜め息をついた。
(なんだろう、このもやもやする感じ……)
気がつけば、既に陽は傾きかけている。
ほどなくして、町の時計台からは午後五時を知らせる鐘の音が鳴り響いた。