第三章 オレンジタウンの洗礼 A
第三章 オレンジタウンの洗礼
さて、旅の一行は“風読みの谷”を目指すゴルドーと別れ、彼が教えてくれた通りの経路で最初の町へと気球を進める。その町の名前は、オレンジタウン。
四人がそのオレンジタウンに到着したのは、旅を始めてから四日目の昼過ぎのことである。
「おい。町が見えるぞ」
「なに! ついにオレンジタウンに着いたのか!」
しかし、春樹の双眼鏡にうつったのは、聞いていた街並みとは少し違ったもののようだった。
彼は「いや……」とも「ああ」とも答えないまま、意味深な表情で昇に双眼鏡を渡す。
「とにかく、見てみろ」
「言われなくても、見てやるさ」
昇は春樹の手から勢いよく双眼鏡を奪い取ると、もう待ち遠しくて待ち遠しくてたまらないといった様子でレンズを覗きこんだ。
そして彼は、その珍妙な光景に眉を寄せることになるのである。
「……なんだありゃ?」
森が途絶え、広大な草原が広がるその先には、確かに町の灯りらしきものが見えた。しかし、その上空に浮かんでいるとてつもなく巨大な“アレ”は、一体なんなのだろう?
「……ここからだとまだハッキリとはわからないが、あれはおそらく政府の飛空艇だな」
冷めた口調でそう告げるのは春樹である。彼はつい最近、父の仕事仲間からとある噂話を聞いていたのだ。
「なんでも、政府の連中は町を視察して回りながら、この大陸のどこかにある重要な宝を見つけだそうとしているらしい……。この近くにもそのうち通りかかるだろうとのことだったが、まさかこのタイミングだとはな」
いくら自分達が子どもとはいえ、これはマズイ事になった。
実のところ、一般人が町と町の間を自由に往来できないのは、この国の政府が定めた法律が絡んでいるからだ。もしも自分達が許可証もなく渡航していることがバレれば、どんな罰を受けることになるかわからない。
「さて、どうする……」
ふとバスケットの中に目を戻せば、シェリーと夏凛が小さく寄り添い合って眠っている姿が飛び込んでくる。
「……」
春樹はしばらく黙って考えを巡らせると、やがて意を決したように昇に提案した。
「なぁ、昇。一つ考えたんだが、逆に俺たちはこの機を利用すべきなのではないだろうか。正直な話し、俺はこいつら二人をこの危険極まる旅に巻き込んだことを後悔している。だったら、この町で政府に引き取ってもらうのも考え得る安全策の一つだと思うんだが……どうだろう」
しかし、昇は何の返事もせずにただただ町の方を眺め続けている。
「おい、昇。聞いてるのか?」
「あ、ああ。そうだな。春樹がそう言うなら……そうなのかもしれねぇ」
どうにも気の抜けた返事だった。
春樹はその様子を不思議に思って、もう一度町の方角へと顔をやった。そして気づく。
ああ、なるほど。確かに、町の上にあんな飛空艇があったら、花火なんて打ち上げあれないだろうな……。
どうやら、ここは自分がしっかりしなければいけないらしい。
春樹は気を引き締めるようにして自らの頬を叩くと、ふーっと細長い息を吐いた。
どちらにしたって町に行かない選択肢などはないわけだし、ここはしばらく事の成り行きを見守るしかないようだな……。
雲の谷間から差す光の柱をくぐるようにして、四人の気球は目的の町へと進んでいくのだった。
§§§
飛行場にて四人を出迎えたのは、オレンジタウンの航空管理局で働く若い男だった。スタイルのいい彼は少し気取ったようなところのある人間だったが、四人が深々と頭を下げる様子を見るとすぐさま町に受け入れる方向で上に話しを通してくれた。
「それで、この町にはどのくらい滞在するつもりなのかな」
事務室に通された四人は、ひとまず所定の手続きを取ることになる。
「短くて一週間。長くても二週間くらいで考えてます」
「なるほど。それじゃあ宿はどうしようか。こちらで適当な所を用意させることもできるけど」
「……宿、ですか」
実はそこが一番の問題だった。なんといっても自分達には金がない。とにかく働き口を探さねば、宿に泊まることさえできないのだ。
すると、そんな春樹の様子に気付いたのか、管理局の男は気前よく笑ってこんなことを言ったのだった。
「大丈夫。実はこの町、君たちの村とは仲良くさせてもらっていてね。四人分の宿と食事くらい、ただで提供させてもらうよ」
「本当ですか!」
「もちろん」
予想外の事態に、春樹はキツネにでもつままれたような心地だった。確かに“風読みの谷”は近隣自治区が困っている時には必ず手をさしのべるようにしているらしいが、まさかその効果がこんな形で表れようとは思っていなかった。
「さて、それじゃあさっそく宿まで案内しようか」
「ちょっと待ってくれ」
と、ここでようやく、ずっと黙りっぱなしでいた昇が口を開いた。
「なんだい? 質問ならいつでも受けるよ。それとも、今すぐにでも聞いておきたいことがあるのかな?」
「ああ。教えてくれ。今年の夏祭りは確か十日後に予定されてたはずだよな?」
「そうだね」
「それじゃあ、あのバカでかい“飛空艇”ってのは、いつまでこの町に停泊し続けるつもりなんだ」
「さて、僕も詳しいことはわからないけど、少なくともあと二週間くらいは居座り続けるつもりじゃないかな」
「そんな……」
つまり、祭りの当日になっても、あの飛空艇はこの町の空から消えちゃくれないわけだ。花火を見ることができないかもしれないという不安が、かなり現実味を帯び始めた瞬間だった。
「なるほど。どうやら君はこの町の名物の一つである花火を見にきたんだね」
大体の察しはついた、とでもいうように声をあげた男に、昇の視線が食らいつく。
「どうなんだ! 花火は上がるのかよ! 上がらないのかよ!」
そして結論。
「残念ながら、花火は上がらない」
その言葉にはまるで「それはもう決定事項なんだ」と断言しきるような勢いがあった。昇は悔しそうにギリギリと奥歯を噛みしめて吠える。
「やっぱり、全部あの馬鹿でけぇ船のせいなんだろ!? くっそぉ……。あいつら、どうして飛行場に降りないで町の上に居座り続けてやがるんだよ! ふざけやがって!」
「君の怒りは良く理解できるよ。おかげでこの三日間は空を見上げるたびに息がつまるような気分だ。もちろん、我々も幾度となく移動してくれるように頼んではいるのさ。だが連中、権力にものを言わせて聞く耳も持たない」
「ちくしょう……」
力の抜けきった昇の背中に、他の三人はかける言葉も見つからない様子だ。
やがて部屋には二時を告げる鳩時計の鳴き声だけが虚しく響き渡った。
§§§
「行くぞ」
春樹がゆっくりと歩き出すと、やがてそれに続くようにして三人が重い足を運んでいった。歩みを進めながら、やはり昇はずっと頭をうなだれていた。そのあまりにも気の毒な彼の様子に、他の三人も無言のままにひたすら足を動かした。
町は思い描いていた通りの様相で、庭無しの一戸建て住宅がすし詰め状態で立ち並んでいるようなものだった。アスファルトで舗装された緩やかな曲がり道。どこまでも続く淡い茶系統の街並み。時折見かける赤レンガの洒落た建物は、そのほとんどが酒場かレストランといった飲食店である。
これで青空でも覗けば一層良いのだけど……。
ふと空を見上げたシェリーだったが、例の飛行船のおかげで町には暗い影が落ちてしまっている。これではせっかくの美しい街並みが台無しだ。シェリーは町の人々の気持ちを察してまるで自分のことのように憤慨した。
この町は、主に加工業で収益をあげているらしい。風読みの谷で豊富に取れる鉱物資源を買い取り、それを加工して次の町に売っているのだとか。四人に宿と食事まで提供してくれたのは、そんな理由も重なったからなのではないかと、春樹は頭の中で考えていた。
それにしても、先ほどから歩いていて気付いたことがある。この町の道路はどんなに幅が広くても車がすれ違うことはできない程度のものばかりなのだ。この町の移動手段は徒歩か二輪車に限られているのだろうか。
ちょうど、そんな疑問を感じていたときだった。前方から、良く通る鐘の音が聞こえてくる。見れば、路面電車が低速で走ってきており、各所で町の人達が自由に乗り降りできるようになっていた。
なるほど。どうやらあの路面電車は定期的に町の中を走っているらしい。初めて見るものなので多少驚いたが、一度は利用してみたいものだ。
人口約三千。風読みの谷と比べ、人口密度が約四倍にも及ぶ町、オレンジタウン。のびのびと体を伸ばして成長してきた四人には、この町は少々窮屈な場所かもしれない。
§§§
ホテルでチェックインを済ませた四人は、ひとまずパンフレットを手に町の中を一回りしてみることにした。所持金はほとんど無いに等しいが、それぞれに覗いておきたい場所はだいたい決まっている。
しかし、昇はというと……。
「俺、行かねぇ……。少し一人にしてくれ」
彼は部屋のベッドの上で枕に顔を沈めたまま力なく宣言すると、そのまま蚊取り線香の燃えカスのように白くなって動かなくなってしまった。どうやら、一度落ち込むと気が晴れるまでひたすら沈み続けるタイプのようだ。
三人は仕方なくどこを回ってくるのかだけメモを残してホテルを後にした。
「大丈夫ですかね……。昇くんのあんな姿を見るのは初めてです」
「そうね。だけど、今は何をしてやってもきっと無駄だわ。時が解決してくれるのを待ちましょう」
§§§
そして、三人が出て行ってほどなくした頃。
一人ホテルに取り残された昇は、やがて死にかけのロバのような動きでベッドから起き上がった。
「トイレ……」
どうやら、もよおしたらしい。
トイレは客室の内側に備え付けられてある。しかし彼はそれに気づいていなかったのか、トイレの前を素通りして部屋の外に出て行ってしまった。しばらくゾンビ歩きで廊下を徘徊する昇だったが、トイレが見つかるわけもなく、再び部屋に戻ることになる。
がちゃがちゃ。
「……?」
がちゃがちゃがちゃ。
「……!?」
もちろん、オートロックはがっちりと閉まっているわけで。
彼が部屋に入れなかったことは言うまでもないだろう。
するとここで昇のもとに救世主が現れた。
「ミャーオ」
猫だった。
階段の方から聞こえてきたその声に、昇はうつろな視線を向けて返事を返す。
「ミャーオ?」
「ミャオ」
何を言っているのかはさっぱりだが、どうやら、なんらかの交渉が成立した模様である。
昇は黒猫に案内されるがままに、その尻尾を追っていった。ホテルの外に出て、猫は路地裏へと入っていく。暗くて細い道は何度も何度も曲がりくねっていて、まるで小学生の作った迷路の中にでも入り込んでしまったのではないかと思えるほどだった。しかし、それでも昇は何かに取り憑かれたように一歩ずつ足を踏み出していったのであった。
そうしてやがて、ぽっかりと開いた場所に出た。
昇はふと我にかえる。
「ここは……?」
気が付けば、黒猫の姿はどこにもない。
その代わりに現れたのが、一人の少女だった。
「……」
四角い空から差し込んでくる光りが、少女の姿を明るく照らし出している。
歳は、体の大きさからして三つか四つは下だろう。デザインの細やかな袖なしパーカーと短パンに身を包んでいた彼女は、遠くから見ても小奇麗に育てられていることがよくわかった。
しかしよく見ると、彼女は泣いているようだった。地面に腰をおろし、ひざを抱いて顔をうずめている。その小さな肩は小刻みに震えていて、時折大きな息継ぎとともに力無く揺れた。
「どうした? どこか悪いのか?」
昇は彼女に近づいていくと、彼女の目線に合わせるようにして自然と腰をおろしていた。
やがて少女はハッと顔を上げると、少し警戒した様子で昇の顔を見つめる。
どうして、ここに人が……?
その吸い込まれるような青い瞳は、まるでそう言いたげに揺れていた。
「あなたは……誰?」
「俺か? 俺の名前は咲花昇。風読みの谷からやってきた」
すると少女は、『風読みの谷』という単語に心当たりを覚えたらしい。
彼女は興味ありげな眼差しを昇に向けると、か細い声で言葉をつないだ。
「風読みの……? もしかして、あなたが例の気球泥棒さん?」
これにはさすがの昇も思わずガクッときた様子である。
「気球泥棒ってのは、ちょっと言いすぎだぜ、お譲ちゃん……」
いや、事実である。
「確かに、反省すべき点はたくさんあるかもしれねぇけどよぉ、俺も別に悪気があったわけじゃ……いや、あったんだが……まぁ俺的には最高のショーができて万々歳だったんだぜ? あの時のみんなの表情ときたら、お前にも見せてやりたいくらいだよ。みんな、目と口が開きっぱなしでよ、……ってあれ?」
勝手に語りだした昇を見て、少女はいつの間にかクスクスと笑っていた。どうやら、昇が自分に害をもたらす人間ではないと感じ取ったようだ。
「ごめんなさい。あなたを見ていたら、私の友達を思い出しちゃって」
「ふぅん、そうか。まぁいいや。やっと笑ってくれたし」
昇はゆっくりと立ち上がると、小さな空に大きく伸びをした。
つられるようにして、少女も立ち上がる。
「ここにはあのふざけた飛行船の影も届かないんだな」
「うん。ここは私の秘密の場所。誰も来ない。誰も見つけられない」
「やっぱりそうか。俺にも秘密の場所があったから、なんとなく空気でわかる。ごめんな、勝手に入ったりして。もう二度と来ないから、今回だけ許してくれ」
「え……」
二度と来ない。その言葉に、少女の瞳は揺れる。
「いいよ。昇、ここに来てもいい。昇は、みんなとは違うもん」
「そうかい? ありがとよ」
昇もその少女の笑顔に、思いがけず素直な気持ちで礼を述べていた。
「……そういえば、お前、名前は?」
「私?」
ここで会ったのも何かの縁。名前くらいは、と思った昇だったが、聡明で社交的な雰囲気を持った少女は、意外にも「はじめまして」の挨拶には不慣れなようだった。
やがて、少し照れくさそうに笑っていた少女は、礼儀正しくお辞儀をしてから答えた。
「私、ドストエフ・舞・ルイーズ。マイって呼んで」
「マイ、か。良い名前だな」
「ありがとう、昇。……ところで昇はどうやってこの場所まで来たの? ここは一度迷い込んだら出るのに相当苦労するから、大人達でも滅多なことじゃ入ろうとしない場所なんだよ?」
「ああ、それはだな……」
すると昇はここでようやく自分がこの場所に来た理由を思い出したようだった。
彼はぶるぶるっと身震いしたかと思うと、真っ青な顔でマイに尋ねる。
「よし、それじゃあマイ。さっそく質問なんだが……」
「……?」
「トイレはどこだ?」
昇は今、かなりピンチである。