第二章 ここから始まる四人の物語 C
「お前ら……“バルーンキラー”がくるぞ……!」
「バルーンキラー?」
どうやら、シェリーにも聞き覚えの無い名詞が飛び出したようだ。夏凛は説明を求めて顔を春樹に向ける。春樹は緊急事態ということもあって、短く簡潔にまとめた。
「要は、気球を突き破って落とすのが大好きな怪鳥のことだ。旅人の間では有名だが、それでも出くわす確率はほとんどゼロに等しいはず……!」
「え? じゃあ、つまりなに? この気球が狙われてるってことなの?」
「あぁ、間違いない。こっちに向かって飛んできている」
「!? 対処法はあるんですか?」
「とにかく、着陸するしかない。奴らは飛んでいるものにしか興味を持たないらしいからな」
「よし、ちょうど土地の開けた場所がある。急いで降りよう!」
昇が素早い身のこなしで二つの気球を切り離すと、夏凛と春樹がそれぞれに着陸処置を開始する。シェリーと昇は、双眼鏡を覗いてバルーンキラーの位置を確認。そいつは、昇が最初に見た時よりも、かなり近くまで迫っていた。
「おい、このままじゃ間に合わないんじゃないか!?」
「くっそ、冗談だろ!? これで精一杯だ!」
地上まではまだ百メートル弱は高度がある。もしここで気球に風穴でも開こうものなら安全な体勢で着陸することはできないだろう。
そして、春樹たちの懸命の作業も空しく、ついにバルーンキラーの猛攻が始まる。
「全員、しっかりつかまれ!」
バルーンキラーが、気球のわずか横をかすめるようにして飛んでいくと、その爆風で二つの気球は大きく揺れた。不安定なバスケットの中で、春樹はその鳥のあまりの大きさに思わず息をのむ。
「クチバシの先端から尾の先まで、およそ三メートル半ってところか……。聞いていた通りの不気味な顔をしてやがる。さすがは“空の死神”と恐れられる怪鳥……!」
シェリーは、ほんの一瞬そいつと目が合って、背筋が凍るような恐怖にかられていた。黒と赤の入り混じったグロテスクな色合いの羽毛。その中から丸々とむき出しになった大きな瞳。それは外敵への攻撃を本能的におこなうバルーンキラーの凶暴さがいかなるものなのかを物語っているようにも思えた。
「あんなのが直撃したら、今度こそ墜落しちゃいますよ!」
「まずいわね……。今の衝撃で、こっちの気球に傷ができたみたい!」
夏凛たちの気球の状態を確認して、春樹の頭の中には一瞬にして様々な議論が飛び交った。しかし、いくつか挙げられた対処手段の中で、必要条件を満たしているものは一つもない。
なんというお粗末な結末だろう。どんなに考えを凝らしても、今の自分達にはこの危機を乗り切ることはできないのだ。
「ここまでか……!」
彼は父親の同僚から日ごろ旅の話を聞くことが多かったが、その中で最も忌み嫌われていたモンスターこそがこのバルーンキラーだった。「空の上で遭遇した場合の生存率は一割」とまで言われてきた怪鳥に、対抗する手段は何も無い。
なにより厄介なのが、ライフルさえも意味をなさないその剛堅のクチバシだった。武器を持たない自分たちが反撃することなどまず不可能だろう。
大きく旋回して再びこちらに標準を定め始めた黒い影を見つめながら、春樹はいかにして墜落の衝撃を和らげるかということだけに考えを集中させていた。しかし、ふと目をやると、足元で昇が荷物をあさっている。
一体、何をしようというのだろう。
やがて昇は花火の筒を一本取り出すと、いつか見たようなあの悪どい表情でニタっと笑って見せた。
手持ちの花火で威嚇するつもりなのだろうか。しかしそれではその威力はたかが知れている。たとえ一瞬でも気を引くことができたとしても、現状は何も変えられない。
「昇、いくらなんでもそいつには意味が無い。奴は五感が非常に鋭いことでも有名なんだ。そんなものが恐れるに足りないことなんて、すぐに見破られちまうだろう」
しかし、昇は迫り来る怪鳥目掛けてまっすぐに花火の筒を向けたまま一歩も引こうとはしなかった。
「へぇ……。そいつは助かるぜ」
昇の囁きに、春樹はその意図を測りきれず困惑する。
こいつは一体、何を考えている? こんな絵に描いたようなピンチに直面していながら、なんだってこんなに楽しそうなんだ?
そして昇は三人の見守る中、全員に聞こえるような大きな声で宣言したのである。
「俺は何があっても、最後まで抗い続ける男だ。この先、苦しくてお前らが旅をやめようとしても、俺は絶対、自分の夢を諦めない!」
瞬間、昇の手にしていた筒から、一つの光の玉が飛び出していった。一等星の何倍もまぶしく輝くその大きな光の粒は、空に金色の道のような光の線を残しながら突き進んでいく。
そうして、いよいよ怪鳥に光の玉が接触しようという時、昇が再び大声をあげた。
「みんな、耳を塞いで今すぐ伏せろ!」
ここは昇の指示に従うしかない。
全員がバスケットの中に屈みこんで耳に両手を押し当てる。
その瞬間、光の玉は轟音とともに炸裂し、辺りを真っ白にしてしまうような凄まじい光を放った。その衝撃は、二百メートル以上先を飛んでいた鳥の群れを全て気絶させ、地上に落下させるほどのものだった。
もちろん、これを直にくらったバルーンキラーが無事で済むはずがない。いきなり視覚と聴覚を奪われた怪鳥はひどく混乱し、まるで何かに取り憑かれたようにギャアギャア鳴き声を挙げながら遥か遠くへと飛び去っていく。
「どうだ! 特性撹乱弾だ! これであいつは、十分間はわけもわからず飛び続けるはずだぜ。おっと、『五感が非常に優れている』んだったっけか? かわいそうにな!」
そうして得意げに親指を立てる昇の姿に、春樹は「またこいつにしてやられた」と思った。こいつは、自分が無茶だと思ったことを、こんなにもあっけなくやり遂げてみせる。一見バカなだけかと思いきや、とんでもなくセンスのあることを考え付く。
お前は一体、何者なんだ……?
春樹は目の前でへらへらしている同い年の少年のことがどうしても掴みきれずに、今までに無い不思議な感覚を覚えていた。夏凛やシェリーのことなら、なんとなくその思考パターンを読むこともできよう。しかし、こと昇に関しては何を考えて何をしでかすのかさっぱりわからない。
夏凛とシェリーも、昇に感心しているようだった。
「昇、あんたなかなかやるじゃないのよ!」
「本当に、もう駄目かと思いました!」
「あっはっはっは。一応約束だからな。こんなところでお前たちを死なせやしないぜ」
とにかく、全員が無事でよかった。
春樹は気球の降下処置に戻って、今後どうするべきか考えをまとめることにした。あちらの気球の損傷が激しいようなら、四人で一つの気球に乗ることも考えておかなければならないだろう。しかしそれでは窮屈すぎる。やはり、旅というのは最後には気力との戦いになってくるものらしい。
春樹はいつしか星が瞬きはじめた空をみあげながら、大きく息をついた。
今夜は長い夜になりそうだ。
「――!?」
ふと、地上から何者かの視線を感じて目を落とす。
しかしいくら目を凝らしてみても、そこにはなんの陰も確認されない。
野生の狼でもいるのかもしれない。そう思って顔をそらしてしまうの春樹だったが、実はそこには確かに巨大な何かが潜んでいたのだ。暗黒の森に光る二つの赤い瞳は、ただじっと彼らの着陸を待ちわびている……。
♭♭♭
「で、これからどうするか考えてみたんだが、やはり燃料をまとめて一つの気球で飛んだ方がいいのではないかと思う」
シェリーと夏凛は、春樹の意見が打倒であると思わざるをえなかった。現実的に考えても縫合しきれないほど気球に開いた傷は大きく、そこには判断の余地などなかったのだ。
「まぁ、こんな状態じゃあね‥…。無理に使い続けて、どこかで墜落するよりかはマシよ」
「ふつつかものですが、どうぞよろしくお願いします」
「ちょっとシェリー、変なあいさつしないでよ。確かに世話にはなるけれど、シェリーに少しでも変なことしようとしたら、男二人はこのあたしが叩き落すからね!」
「わかったわかった。昇にも伝えておく」
その昇は、ただいま焚き火を作るためにあちこちから木の枝を集めるのに大忙しである。
実は彼、小さい頃から熊爺の説教と真っ暗な場所だけは大の苦手だった。いち早く明かりを起こそうと躍起になって働くその姿に他の三人は感心していたのだが、別に昇は自分から進んで働こうなどとは全く思っていなかったのだ。
そんなわけで、なんとか木々を集め終えた昇は、今度はなかなか火がつかないことに苛立ちを募らせていた。
「おーい昇。こっちに着火材があるぞ」
春樹の呼びかけも、必死になっている昇には全く届かない。春樹が眉をひそめていると、昇は何を思ったのかバスケットの中へと帰っていってしまった。
「何をあんなにムキになっているんだ、あいつは?」
「きっとみんなのために頑張ってくれているんですよ」
シェリーが微笑むと、彼女の腕の中から顔を出していたパトラッシュが「それは賛同しかねる」と言いたげな様子で鳴き声をあげた。続く夏凛も、思わず苦笑いを浮かべる。
「えぇ? それはちょっとあいつのことを美化しすぎなんじゃない? シェリー、あんたまさか、ちょっとカッコイイとこ見せられたからって、昇に惚れちゃったりとかしてないでしょうね?」
「な! ななな、ななななにを!?」
突然の夏凛の指摘に、今まで全くそんなことを考えていなかったシェリーは大きく動揺した。思わず腕に力が入り、パトラッシュを締め付けてしまう。
第一、夏凛がそんなことを自分に聞いてきたこと自体がシェリーにとっては驚きだった。そりゃあ夏凛とはそれなりに仲が良かったものの、これまでそういったガールズトークをしたことなんてまるでなかったのだ。それなのに、春樹がこんな間近にいる状況でいきなり色恋の話題を振ってくるなんて、一体どういう風の吹きまわしなのだろう。
うまく焦点が定まっていないシェリーに、夏凛は顔をにんまりとさせる。
「冗談よ、冗談。あんなの好きになるなんて、相当の物好きだもの。本気で動揺するなんて、シェリーったら可愛いわね」
「もう、夏凛さんひどいですよぉ! びっくりしたじゃないですかぁ!」
「あはははは! ごめんごめん」
何をそんなに盛り上がっているのやら。
二人の女子のやりとりを聞きながら、無表情のままに呆れていたのは春樹だった。
特にこの状況下において、こんなふうに気を緩めていられる二人の心境が春樹には全く理解できなかった。夏凛などは神経が図太いからどんな危険地帯に放りこまれようとある程度は耐えられるだろうが、あの臆病なシェリーまでこれほど穏やかに会話を続けているとは。
もしかして、この状況がとてつもなくヤバいことを肌で感じ取れているのは自分だけなのか?
だとしたら、それは逆に幸いだったのかもしれない。もし、今こいつらが森の中にうごめく奇妙な気配を察知できていたなら、それはそれで必要以上に精神を擦り減らされてしまうだろうから。
春樹は大きく一息つくと、これから成すべきことを手短にまとめることにした。
とりあえず、今は戯れている場合ではない。
「おい、聞いてくれ。とにかく今夜はできるだけ静かに……」
とその時、突如大きな破裂音が暗闇に響き渡る。驚いた三人がすぐさま目をむけると、そこには焚き木に向かって花火を打ち込んでいる昇の姿があった。
「な、なにしてんだお前は!」
あまりにも現状を考慮できていない昇の行動に、春樹はつい大声をあげてしまった。
「な、何って、見りゃわかるだろ。なかなか火がつかねぇからよ、盛大にいこうかと思って……」
春樹が怖い顔をするので、昇は一歩退いて答える。
「お前な、バカも休み休みにしておけ。もしも今の爆音でモンスターの注意が俺たちに引きつけられでもしたら……」
そしてそのとき、春樹のその台詞を遮るようにして、耳をつんざくような大きな鳴き声が森の中に轟いた。まるで火山の火口から炎が噴出すような光景をイメージさせるその声は、とてつもなく凶悪な感情に満ちているように思えた。
野性の本能が働いたのか、シェリーの腕の中にいたパトラッシュは全力で逃げ出してバスケットへと身をひそめてしまう。対照的に、四人の人間たちは静かにそれぞれの顔を見回して、どうすればいいのか誰か意見を述べてくれと訴え合っているようだった。
仕方なく、昇が口を引きつらせながら微笑んで一言。
「ま、まぁ、どんまい」
「ふざけんなぁ!」
春樹と夏凛がほぼ同時に声をあげた次の瞬間だった。
森の中から現れたのは、体長十メートルはあろうかという巨大な竜。地響きを立て、鋭い叫び声をあげながら飛び込んできたそいつは、四人の様子を探るようにして動きをとめる。
「あ、あれは……!」
シェリーはあまりの恐怖にその身をワナワナと震わせながらも、目の前に現れたその竜をどこかで見たことがあるような気がしてならなかった。
そうだ……。確か、あれはこの星に大昔住んでいたと言われている「恐竜」という生き物について調べていた時のこと。図書室の本棚から偶然手にとった本の表紙に、この竜が載っていたのだった。その凶暴な姿に、思わず鳥肌が立ったことを覚えている。変な名前だったような気がするが、なんといっただろうか。たしか……ティラノ……。
「ティラノサウルス……」
シェリーがつぶやくのを聞いて、春樹はハッとした。
「ティラノサウルス? あれが……ティラノサウルスなのか!」
突然話しかけてきた春樹の鋭い視線に、シェリーは脅えながら何度も首を上下に振って応える。
「話しには聞いていたが……。思っていたよりもずっとでかいな……」
「ほらほら、そんな悠長に感想述べてる場合じゃないでしょ! 逃げるのよ!」
夏凛が叫ぶと、三人はバラバラに散って逃げ出した。狙うなら俺を狙えと言いたい春樹だが、恐竜の狙いは既にシェリーに定まっている様子だ。そして、そのシェリーの逃げる先には、まだ火の起きていない焚き木の前で突っ立ったままの昇の姿がある。
「あいつ……何をボヤボヤしてやがる!?」
なぜだかは知らないが、彼はその場から一歩も逃げる様子を見せずに迫りくる恐竜を平然と眺めていた。こんなときに、余計なことを考えてなければいいのだが……。
すると、あろうことか昇はいきなりシェリーの腕を取って彼女を引き寄せると、そのまま彼女の動きを封じるようにしてギュッとその体を抱き寄せたのだった。
「ひゃい??」
「は??」
「……んな! なにぃいい!?」
パニック状態のシェリーは昇の腕の中からどうにか逃げ出そうと必死で抵抗を試みるが、信じがたいことの連発でついに腰が抜けてしまったらしい。もはやそれ以上動くことはできず、迫りくる牙を前に放心状態である。
このままでは、二人仲良くあの牙の餌食に……!
恐竜との距離は約5メートル。もはや逃げる術なし。
しかしこの時、シェリーは実際に逃げ回るよりも遥かに安全な策を昇にとらされていたわけだ。恐怖に心を支配されている彼女にはまだ理解できないかもしれないが、昇はなぜ自分がこんな大それた行動に出たのかそのわけを彼女に説明した。
「大丈夫だ。今の奴に、俺たちのことは見えていない」
この一部始終を木の陰から見ていた夏凛は、その奇妙な光景に思わず息をのみこんだ。
「何……? もしかしてあのトカゲ、暗すぎてあの二人が目の前にいることに気づいてないの?」
春樹も近くの岩肌の陰に身を潜めてじっとこれを見守っていたのだが、そのおかしな画につい口元がほころぶ。
「なるほどな。昇の奴、面白いことに気付いたもんだ……」
おそらくあの恐竜、今は二人の匂いすらわからないのだろう。辺り一面、さっき昇が使った火薬の匂いでいっぱいなのだ。つまり、音さえ立てなければ、自分たちがあの恐竜に気付かれることはない。
それにしても、もしも昇が真っ先にああやってシェリーを抑え込みに行かなかったら……と考えるとぞっとする。おそらく、各々がバラバラに逃げ回っていたなら、今頃あれの餌食になっていたのはシェリーだろう。
「よくもまぁ、あの一瞬でここまで頭が回ったものだな」
もちろん、だからといって今の状況が危険なことに変わりはない。ここからが、ギリギリの駆け引きというわけだ。
きょろきょろと辺りを見回しながら自分の頭の上をまたいで行く恐竜の姿に、シェリーは大きく目を見開きながら石造のように固まっていた。心臓が、爆発しそうな勢いで脈をうっている。この音が奴に聞こえやしないだろうか。
間近にまで迫る鼻息。今にもこみ上げてきそうな悲鳴。
やがて恐竜は二人の気配を勘違いだと判断したようだ。頭を高くして辺りを睨み回すと、次第に二人のもとから遠ざかり始めた。
ひとまず危機が去ったことに安心を覚えたのか、シェリーの体からは力という力が一気に抜けてしまう。一人では立てなくなった彼女は、今度は自分から昇に抱きつくことになった。
「ふえぇ。ごめんなさい昇くぅん……」
これには次の行動に移りたかった昇も、シェリーのことを突き放すわけにいかなくなる。
「さて、どうしたものかね……。ん?」
ふと見れば、夏凛が木の陰から何やら伝えようとしていた。
(昇! あんたシェリーに抱きついておいてただで済むと思ってるの!?)
そんなことをくちパクで伝えながら、夏凛はこちらに向けて思い切り中指を尽き立てている。なんとわかりやすい殺害予告だろう。あまりに無駄のないそのジェスチャーには、きっと彼女の想いのたけが全て表現し尽くされていることだろう。
(違う! 俺はたただシェリーを助けようとしただけで……!)
両手を挙げ、首をふりながら必死に無罪を主張する昇。しかし彼の言い分は夏凛には全く受け入れられなかったようだ。その証拠に、今度は中指とバトンタッチをした親指が激しく下に振りかざされて……。ほんっとにもう、どうしろってんだ。
「人助けをして殺されてちゃ、かなわねぇな」
それにしたって、この状況はまだ危うい。仕方ないので、昇はシェリーを抱えたまま、物音を立てないように少しずつバスケットを目指すことにした。
「シェリー、いけるか?」
「は、はい。お願いします……」
「任せとけ」
とは言ったものの、シェリーの髪から漂ってくる甘い香りと、衣服越しにじわじわと伝わってくる柔らかい体温は、昇は脳内細胞をじわじわと蝕んでいく。だいたい、人とこんなに密着すること自体が何年ぶりだかわからないのに、その相手が同い年の女の子だなんて、昇には刺激が強すぎたのだ。
「の、昇くぅんっ……!」
耳元で囁かれるシェリーの言葉と息遣いが、あと一歩で昇にとどめを刺すところまで迫っていた。このままでは、頭がおかしくなってしまいそうだ……。
しかし次にシェリーの口から出た言葉を聞いた瞬間、昇の煩悩は一瞬にして消え去ったのだった。
「ごめんなさい……! 私、肝心な時にこんなで……。もう、いっそのこと、ここであの恐竜に食べられたほうがいいのかもしれませんね……」
気付けば、シェリーは声を殺して泣いていた。
しかも彼女は、あの恐竜が怖かったから泣いているわけではないのだ。なによりも、「みんなの為にも私がしっかりしなくては」と意気込んでいたはずの自分が、逆にみんなの荷物になってしまっていることが申し訳なかった。悔しくて悔しくて、堪らなかった。
昇はそんなシェリーの気持ちを感じ取って、ようやく正気を取り戻した。
自分は、こんなところで……一体何に気を取られているんだ。
「馬鹿なことを言うんじゃねぇよ、シェリー。みんな揃って村を出たんだ。みんな揃って村に帰ろう。勝手に一抜けするなんて、この俺が絶対に許さない」
この時の昇の言葉が、これから先、何度シェリーを助けてくれるのかはわからない。シェリーは涙を拭うと、旅が終わるまで絶対にこの言葉だけは忘れないと胸の中で誓ったのだった。
勢いを付け始めた二人だったが、幸運は長くは続かない。ふと辺りに目を向けてみれば、それまで真っ暗だった空き地の中に、ほのかな光が差し込んできてしまっているのがわかった。どうやら、雲に隠れていた月が顔を出そうとしているらしい。
やがて、光は二人の元にも徐々に迫っていく。
「まずいわね。あれじゃ見つかるのも時間の問題だわ」
ごくりと、つばを飲み込む音が頭に響く。
夏凛は体の動きを完全に止めながら二人の動きを見つめていたのだが、この絶体絶命のピンチに居ても立ってもいられなくなったのだ。
「あたしがやるしかないわね」