第二章 ここから始まる四人の物語 A
第二章 ここから始まる四人の物語
夜明け前、いつもより近くで聞こえる鳥のさえずりに目を覚ましたシェリーは、いつの間にか体にかけられていた布を寝ぼけ眼で見つめていた。見回せば四方は壁に囲まれており、頭上にはゴウゴウと音を立てながら稼動するバーナーが吊り下げられている。
あれ…? これは……夢の中……?
空気はいつもよりも冷たく感じられ、むしろ寒いくらいだった。ぶるっと身震いをしたシェリーは、自分の手で両腕をさすりながら大きなあくびをする。
「あ、シェリーがあくびしてるー。かっわいー」
突然、頭上から聞こえてきた声に、肩をすくめて驚くシェリー。
「わ! 夏凛さん!?」
眠気の吹き飛んだ瞳を向けてみれば、そこには笑みをこぼしながらこちらを見おろしている夏凛の姿があった。自分と密着して立っていた夏凛の姿に、シェリーは気がついていなかったのだ。
「え? え? 私、一体どこに……?」
「ようこそ現実へ」
シェリーは夏凛に右腕をとられると、そのまま引っ張りあげられるようにしてバスケットの淵から顔を覗かせた。顔に当たる日の光に目がくらむ。やがて少しずつその目蓋を開いていった彼女は、目の前の景色に思わず息をのみ込んだ。
ここがどこなのか、自分が誰なのか。そんなことがどうでもよく思えてしまうほど雄大な景色を見たことがあるだろうか。シェリーの瞳に映し出されたものは、まさにその一例に挙げられるような雄大な自然だった。
人間が足を踏み入れることの無くなった大地にはどこまでも鬱蒼とした木々が続いており、まだらに見える開けた土地には青く揺らめく湖や小金色に輝くすすき野が堂々その身を構えている。遠くに見える山々の斜面には灰色の岩肌がくっきりと顔を覗かせていて、立派にその迫力を誇示していた。
ふと、バスケットのすぐ近くを小鳥達がかすめていく。こういう光景は写真でなら見たことがあったが、やはり実物を目の前にしてみるとその感動はひとしお大きいものである。
シェリーは声をあげるのも忘れて、神秘的な空気にひたすらに身も心もゆだねた。
「夢じゃなかったんですね……」
そして、やっとのことで口に出した言葉は、隣で同じ景色を見ていた夏凛に向けられたものだった。
夏凛は大きく深呼吸すると、シェリーの気持ちをくみ取るようにして語り始める。
「ええ。私達は今、村から見て遥か北の空を進んでいるわ。何者も足を踏み入れることを禁じられてきた土地、《アンダーグラウンド》。きっとこうしている間にも、どう猛な獣達が私達を狙っているはずよ。まったく、これから私達はどうなるのかしらね」
§§§
「っしゃぁ! たっぷり寝たぞ! お前ら、おはよう! さぁ起きろ今起きろ!」
すぐ横を飛んでいた気球から、この穏やかな空気をぶち壊すような雄叫びがあがったのは、シェリーが目覚めて十分ほどたった頃だった。
「アホ。もう全員起きてる。最後まで寝ていたのはお前だ、昇」
春樹の呆れ声が、シェリーの元にも聞こえてくる。
そういえば、自分はこの二人に巻き込まれて、こんなことになっているのだっけ。
ほとんど学校に顔を見せない昇のことはとにかく、普段から一言も口を開かない春樹のことを、シェリーは以前から苦手に感じていた。本人にはそんなつもりはないのかもしれないが、彼女から見て春樹はいつでも近寄りがたい空気を放っていたのだ。
いつか、彼とじっくり話をする機会でもできれば……。
確かにそんなことも思ってはいたが、それがまさか、こんな形で旅路をともにすることになるなんて、誰が考えただろうか。
「どうしたのシェリー? 男どもがいると落ち着かない? なんなら、あたしがあいつらを黙らせてあげるけど」
とそこへ、シェリーに声をかけてきたのは夏凛だった。
シェリーはいつのまにか夏凛の陰に隠れるようにして春樹達を注視していたらしい。彼女はハッとして夏凛から体を離すと、少し頬を赤くしながら顔を横にふった。
「い、いえ、別にそういうんじゃないです。ただ、私たちがこうして一緒に気球で漂流することになるなんて、夢にも思わなかったことなので……」
「あっはは。確かにそうよね。あの馬鹿共のおかげで、散々な目にあったわ。いいえ、過去形じゃおかしいわね。これからもっと危険なことが待ち受けているかもしれないんだもの。でも安心して。あいつらには、危険からシェリーを守る責任がある。そして、あの野蛮人達からシェリーを守るのはこのあたしの役目。少しでもあんたに手を出そうなんて考えたら、指の骨から足の骨まで一本ずつへし折ってやるわ」
「か、夏凛さん、こわいですよぉ……? でも、私だって旅の足手まといになるつもりはありません! 何かお役に立てることがあれば、いつでも言ってください!」
「うんうん。それでこそ私のシェリーだわ」
夏凛はシェリーの頭をワシャワシャとなでると、満足そうに微笑んだ。
§§§
「ってなわけで、俺たちは同じ旅路を歩むことになった仲間になったってわけだな。よろしく」
これからのことについて話し合う会議は、そんな昇の一言から始まった。
予め気球に備えつけてあった緊急用の道具や食料をチェックしていたシェリーは、慌てて立ち上がって向き直る。
「よ、よろしくお願いします!」
しかし、それを遮るようにして夏凛が一歩前に出た。
「昇、あんたねぇ……何が『よろしく』よ! あたし達、あんたの無茶苦茶に巻き込まれたのよ? あんたには、あたし達に対してまず言っておくべき言葉があるはずよね?」
「なんだよ夏凛。まだ気にしてんのかよ」
「あったり前でしょ! あんたねぇ、自分が何をしたのかわかってんの?」
「まぁどんまいどんまい。楽しかったんだし、いいじゃねぇか。あ、そうだ。あのドーンってぶつかるやつ、またやろうな」
「一人でやってろ!」
するとそこに、この二人のやりとりを見かねたようにして口を出す者がいた。
「おいおいお前ら、あんまり熱くなるなよ。話が進まねぇ」
それは、ここまでずっと「我、関せず」といった空気を放ちながら無表情で下の風景を眺めていた春樹の言葉だった。
「昇。今回の件、始めからお前がこの二人を一緒に連れていくつもりだったのなら謝る必要はない。だがこれは明らかにお前のミスだ。だとしたら、ここは一言きちんと謝っておけ」
「……しょうがねぇなぁ」
春樹があまりに真面目な顔をして説得するものだから、昇もこれ以上つまらないことでお茶を濁すのはよそうと考えたらしい。
「まったく、人に謝るなんて何年ぶりだかなぁ。ま、こういうのはとっておきの場面で使うべきものなんだろうよ。今がその使い時だってんなら、俺も素直に謝罪するとしよう」
昇はそういうと、二人の前にどっしりと腰をおろして頭を下げた。
「夏凛、シェリー、本当にすまなかった」
その姿に、夏凛はこれまでにないほどの衝撃を受ける。
あの悪名高い咲花昇が、こんなふうにして人に頭をさげるなんて。
思い返せば、蛇を鞄の中に入れられたり消しゴムに落書きされたりと、悪戯される度に追い掛け回してきた昇が、一度だって夏凛に謝ったことはなかった。それが今、ついに彼の方から折れてきたのだ。
これは夏凛にとって教科書の年表に載っているどんな太字ワードよりも革新的なできごとであり、いっそこの日を記念日として祭日にしてもいいのではないかと考えられるほどのことであった。
夏凛は身じろぎしつつも、ここは素直に許してやるのが賢明だと判断した。
「ふ、ふん。まぁいいわ。私も外の世界に興味がなかったわけじゃないもの。ちょうどいい機会だと思って我慢するわよ」
しかし、ちょっと気を使ったつもりで言ったこの台詞が、昇にはそのままの意味で受け止められてしまったらしい。
「なんだ。やっぱりお前も村の外を見てみたかったんじゃねーか。それなら最初から素直にそう言えばいいのによー」
「く……。こいつ……!」
やっぱり、今すぐにでもバスケットから放り投げだしてやりたいっ!
本気でそんなことをやりかねない様子の夏凛に、その心中を察したシェリーが夏凛の体を必死で抑えていたことは言うまでもあるまい。
§§§
「まず、あたしはあんたらの目的を聞いておきたいわ。今後のことはそれからよ」
夏凛の意見はもっともなものだった。昇たちが掟を破ってまで村を抜け出した理由とはなんなのか、シェリーも気になっていたところだ。
「そういえば、まだ話してなかったよな」
昇は二つのバスケットを繋ぐ縄ばしごをハンモックのように揺らして遊んでいたが、やがてピタリとその動きを止め、物静かなおももちでこう告げた。
「俺はな、伝説の花火職人のつくる四尺玉の特大花火を見てみたいんだ」
「……へ?」
その台詞に、夏凛は目を点にした。
昇の口調からして、彼の喋っていることが至って真面目なことであるのは伝わってきた。しかし、耳にしたことのない単語ばかりで、さっぱり意味がわからない。
「ハナビショクニン……? ヨンシャクダマ……?」
実は、彼らの住んでいた風読みの谷では花火を使うことなどほとんど無く、祭りでもごく稀にしか登場することがなかった。だから、夏凛のように花火というもの自体をよく知らない人間も珍しくないのである。
するとここで、シェリーが夏凛に簡単な説明を加えてやった。
「夏凛さん。“花火”っていうのはですね、火薬と金属類を使用して作られる伝統ある効果材のことなんです。火薬って言うと物騒なもののように聞こえるかもしれませんが、炎色反応によって色づいたその火花はとても美しく、見る者を虜にします。主に、おめでたいことが起きた時など、イベントを盛り上げるための効果材として使われることが多いですね」
すると夏凛も、昨晩の昇の花火を思い出したようだ。
「ああ! あれが花火だったのね! 確かに私も、あんまり綺麗だから見とれてたわ」
しかし、スッキリした様子だった彼女の表情は瞬く間に先ほどの状態に戻ってしまう。
「あれ? でも待って……。その花火って代物を、どうして昇が持っていたのよ? あんなの、売ってるところさえ見たことないわ」
するとまたこの質問にあっけらかんと答えてしまうのが昇の憎めないところである。
「ああ。ありゃ俺が自分で作ったからな。売ってるわけがねぇ」
「作った!? あれを!?」
「そうだ」
そうだ、とそんな簡単に答えられても、実際にやっていることを考えればそれはなかなか受け入れがたいほどのものだ。
「だってあんた、火薬とか、危ないじゃない! 怖くないの? それに、難しいんじゃないの?」
すると昇は「んんん~」を喉を鳴らして少しだけ考える素振りをして答えた。
「もちろん、怖いし、難しいさ。でも……」
「でも?」
「でも、好きだから」
その時の昇の表情の温かさを柔らかさと言ったら、まるで春の日差しの中で揺れる菜の花のようだった。そして夏凛は、「よかったらやるよ」と言って彼が差しだした花火の筒を、ただ何も言えずに受け取るのであった。
とにかくこれで、昇の目的は理解できた。
「でも、どこにあんたの会いたい花火職人さんがいるってのよ? 世界中探し回るつもりなら、あたし付き合いきれないわよ」
「まさか。俺は計算高い男だぜ。居場所くらいはつきとめてあるさ」
「……あんたが本当に計算高い人間なら、あたし達はここにいるはずがないんだけれど」
なんにしても、人探しに付き合わされるのは気が引ける。第一、昇の持っている情報が信じるに値するものかどうかもわからないのに、「はいそうですか」と素直に手を貸してやるほど夏凛はお人好しではなかった。
「言っておくけど、あたしはあんたの目的の為にお手伝いするなんてまっぴらごめんよ!」
「へっ! そんなこといちいち言われなくても、始めっから期待しちゃいねぇよ!」
再び険悪なムードになる夏凛と昇。
どうしてこう、この二人は仲良くできないのだろうか。
シェリーは二人をなだめるために何か声をかけようと必死で頭を働かせていた。しかし、いくら良い言葉を思いついたところで、自分にはそれを言うだけの勇気がないことに気がつく。
「はぁ……。私、自分が情けない……」
とその時、何気なく顔を上げれば、春樹がこちらを凝視しているのに気が付いた。それぞれの感情が入り乱れるこの場面で、彼だけはその表情を変えることはない。
シェリーは最後の希望にすがるような気持ちで彼に愛想笑いを向けると、勇気を出して彼に声をかけてみることにした。
「あのぉ、春樹くん……」
「なんだ?」
春樹の鋭い眼光に身じろぎしつつも、シェリーは必死で彼に問いかける。
「あの二人を、このままにしておいても大丈夫なのでしょうか……」
すると春樹はシェリーの言葉に対して、あくまでも事務的な口調で受け答えした。
「あぁいう奴らは、他人が口出ししても結局は関係が改善されることは無いんだ。放っておくのが一番いいだろう。それに、俺はあんな下らない見栄の張り合いに首を突っ込んでトバッチリを喰らうのはゴメンだな。まぁ、それでお前が納得できないのなら、好きなようにすればいい」
もしかして、この人たちの辞書には協調性という言葉が載っていないのではなかろか。
シェリーは自分の立ち位置があまりに絶妙であることを今更ながらに思い知らされたような気がして愕然とした。徐々に現実味を帯び始めた目の前の光景に打ちひしがれながら、彼女は深いため息を吐く。
「これは……大変な旅になりそうです……」
少なくとも、シェリーのこの予想は他の誰が感じていた危機感よりも正常だったに違いない。
この時、彼らにはまだ自分たちが魔物たちの巣窟のど真ん中を横断しているという自覚が足りなかった。彼らがそうしている間にも、薄暗い森の中では得体の知れない巨大な地響きが移動を続けていたのである。