第四章 フラワーバスケット A
第四章 フラワーバスケット
朝。カーテンの向こうから白い光がすり抜けている。
目が覚めて、まず春樹の目に飛び込んできたものは、ペンを握ったままの左手だった。どうやら、ベッドの上に横になりながら楽譜に手をつけていて、そのまま寝てしまったらしい。なんだか、体が重く感じられた。
「譜面は……?」
春樹は体をベッドに沈めたまま楽譜を手に取った。
五線譜の上は雑に泳ぎ回るおたまじゃくしでいっぱいだ。見た感じ、とりあえず編曲作業は昨晩のうちに終わらせることができたようだ。しかし、いかんせん完成時の記憶が無い。これはもう一度見直しておく必要がありそうだ。
やがて、固まっていた体を動かそうとした春樹は右腕に妙な違和感を覚えた。
何だろう。まるで人肌のように暖かく、そして柔らかなこの――
「……!?」
春樹はそれを目にすると、驚愕のあまり四肢を硬直させてしまう。
なんと、そこにあったのは自分の右腕を抱きながら幸せそうに眠るシェリーの寝顔だった。
「っ……!」
春樹は思わず喉から漏れそうになる声を飲み込むと、息を整えるように深呼吸する。
シェリーは春樹の右腕をしっかりと抱いたまま、子猫のような小さい寝息をかいていた。こいつは正直、レッドカードものの愛らしさだ。大抵の男なら、しばらくは動けそうにない。否、動かない。
しかし、春樹は冷静だった。
彼はシェリーの腕を慎重にどけると、ゆっくりと起き上がってその身を引いた。シェリーの体温が、まだ腕に残っている。春樹は背筋にぞわぞわしたものを感じながら、どうしてこんなことになっているのか必死に考えた。
これはきっと何かの間違いに決まっている。とりあえず、シェリーが自らこんなことをするはずがない。となれば、これはもう昇の仕業としか考えられないだろう。
しかし、こんなことをして一体何になる?
……そうか! 夏凛だ!
昇は夏凛にこの状況を見せて俺を罠にはめるつもりなんだ。
しかし、いかに悪戯好きのあいつにしても、これはやりすぎなのではないだろうか。もし夏凛がこの状況を見たとしたら、俺は明日の朝にはカラスの餌にでもなっているところである。
春樹はシェリーの無垢な寝顔に目をやった。
幸い、シェリーは全く目を覚ます様子もなく気持ちよさそうに眠り込んでいる。今のうちに、この事態を打開せねば……。
「打開……せねば……! ぐはっ……」
しかし春樹は、いつしかその桃のような白い肌に目を奪われてしまいそうになっていた。やや大きめのパジャマに包まれた彼女の体は、呼吸の度にわずかに膨らんでいる。
「いや、俺は何を……!」
これでは、昇の思う壺ではないか! 今やるべきことは一つだけ。シェリーをあるべき場所へ返すことである!
むにゃむにゃと寝言を言うシェリーに心拍数を乱されながらも、春樹はなんとか彼女のことを抱きかかえることに成功した。もちろん、世間様で言うところの、お姫様抱っことやらである。
とにかく、このままではいろんな意味でまずい。
春樹はいち早く向かいの部屋へと急いだ。
奇跡的にも、女子部屋の入り口にはスリッパが挟まっていてオートロックがかかっていなかった。男子部屋の扉にもスリッパが挟まっていたが、これはどういった偶然だろうか。
物音を立てないように、慎重に女子部屋の中に足を踏み入れる。
とその時、一番恐れていた事態が起きてしまった。
「いやああああ!」
部屋の奥から響く大きな悲鳴。どうやら、夏凛が目を覚ましたらしい。
「ちょっと、の、の、昇! あんた、どうしてここに!?」
動揺する夏凛の声。と同時に、明らかになった昇の所在。
昇の奴はどうやらこちらの女子部屋に侵入していたらしい。
それにしても、なぜ昇がわざわざ夏凛のもとに? 奴が夏凛に対してなんらかの破廉恥をはたらくとは到底思えないが……。どうやら、事態はそう単純ではないらしい。
続いて、昇の慌てた声。
「は? なんだお前? どうして男の部屋にいるんだ?」
「違うわよ! ここは紛れもなく女子部屋!」
「いや、ここは男子部屋だろ。……そうか、お前、ついに自分が男であることを認めたのか。いやいや、いつになったら打ち明けてくれるんだろうと心配してたんだが、ようやく話す気になってくれたんだな」
「そう……。あんた、そんなに死にたいのね……!」
「へ?」
「でぇりゃあ!」
続いて春樹の目に映ったのは、枕に顔をうずめながら宙に弧を描く昇の姿だった。彼は床に落下すると、そのままあちこちにぶつかりながら春樹の足元まで転がり込んできたのだった。
「まだ逃がさないわよ! 昇!」
やべぇ! こっちに来る!
春樹は大急ぎで部屋の中から退散しようとしたのだが、それも間に合わなかった。
昇に追撃の一手を加えるべく登場した夏凛は、春樹達の存在に気付いてしまったのである。
なんというバッドタイミング。
「え? 春樹……?」
彼女は、春樹の腕の中で眠るシェリーを見て凍りつく。その愕然とした表情が、彼女の受けたショックの大きさを物語っていた。
やがて夏凛はゆっくりと後ずさりを始める。
「嘘、やだ……。私のシェリーが……」
いや、お前のではないだろ。とツッコミを入れておきたい春樹だったが、状況が状況だ。
「待て夏凛、落ちついて俺の話しを聞くんだ」
しかし、夏凛の耳にはもう何も届かない。
「私の、シェリーが……。そんな、嫌ああ!」
再び部屋の奥へと姿を消す夏凛。
なんてこった。どうやら、とんでもない誤解を招いてしまったようだ。
……というか、なんであいつは上だけパジャマ着ておいて下はその……パ、パンツ一丁なんだ! いや、見ちゃいねぇよ! 見ちゃいねぇけどさ!
ふと春樹が床に目を向けると、先ほど吹き飛ばされてきた昇が炒め過ぎたキャベツみたいになって足元で倒れていた。春樹は容赦なくそれを蹴り起こす。
「おい昇。お前夏凛に何をした?」
「いや待て、春樹! お前は何か勘違いをしているようだが、今回の件、俺は何もしてねぇよ! 俺だってびっくりだぜ! いつの間にか、あいつがあの姿で隣に寝てたんだからよぉ!」
「嘘をつくと自分のためにならんぞ」
「嘘じゃない! 信じてくれよ!」
とそこで、この最悪のタイミングを見計らったようにしてシェリーが目を覚ました。寝ぼけているシェリーは、春樹に抱えられているこの状況が理解できず、動揺のあまり手足をバタバタと動かし始める。
「え、え! なんですかこれ!? なんで私、春樹くんの腕の中で!?」
「こ、こら、そんなに動くと落ちるぞ!」
するとそこへ、下のパジャマを着用した夏凛が勢いよく登場。
彼女は気が動転していたのか、足にシーツを引っ掛けたままドタドタと突っ込んできた。
「春樹、私は認めないわよ! シェリーはね、あんたみたいな無粋な男にはふさわしくないわ!」
「知らん! いや待て、これは誤解だ! バカ、止まれ!」
もはや夏凛の目には春樹とシェリーしか映っていなかったのだろう。彼女は床に倒れていた昇に気がつかない。
「きゃっ!」
「うげっ!」
そして、再び蹴り飛ばされた昇とバランスを崩した夏凛が、春樹とシェリーに向かって見事なダイビングを決めたのはほぼ同時のことだった。
「どわああああ!」
死の山と化した四人に、白いシーツが虚しく覆いかぶさる。
「俺は、何だってこんな奴らと一緒に生活してるんだ……?」
春樹は、今に始まったわけではない災難に改めて憤慨を感じていた。
♯♯♯
それから。
「あ、そうですよ思い出しました! 私、お手洗いに行こうとして、真夜中に一回、目を覚ましたんです!」
「そうだきっとそれだ! 俺も夜中にトイレに起きた記憶がある。それで確か……」
二人の証言を元に推測すると、つまりこうゆうことになる。
二人は、真夜中に偶然同時にトイレに起きた。そしてこれまた偶然、同じ寝ぼけ方をした。彼らはトイレのドアをスルーすると、その先にあった廊下に出るためのドアを開けてしまったのだ。
扉から顔を覗かせた二人は、互いに顔を見合わせるとこんな会話を始めた。
「これはこれは、昇くんじゃないですか。こんばんは」
「あれ? シェリー? これはこれはコンバンワ」
廊下は薄暗かったが、わずかに照明の明かりが灯っていた。
二人は、重い瞼と格闘しながら会話を続ける。
「あれれ、昇くんもトイレですか?」
「いかにも、その通り。猫がトイレに連れていってくれるはずだ」
「猫さんですか? それは、どんな猫さんですか?」
「黒い猫さんです」
そして二人は、頭をクラクラさせながら廊下に出てしまう。
そのとき、二人の目には向かい側の部屋の扉が閉まっていく様子が映ったのだ。二人は咄嗟に考えた。このままでは、ロックがかかって部屋に入れなくなってしまう。
二人は慌ててすれ違うと、相手の部屋の扉が閉まらないように足を伸ばしてスリッパを挟み込んだ。
これでもう、大丈夫。
「あ、昇くん昇くん。トイレなら部屋の中にありますですよ。猫さんに頼らなくても大丈夫です」
「そうか。そうだったのか。これは一本取られたなぁ。ありがとうシェリー。いい夢見ろよ」
「はい、昇くん。また明日。いえ、もう今日でした。また今日。おやすみなさい」
ガチャン。
「で、入れ替わったまま部屋の中に入った……と。なるほど。ミステリーとしてはまずまずのオチだったな」
真顔で感想を述べながらコーヒーをすする春樹。すると、彼の顔めがけてジェットエンジンを搭載したような速さでスリッパが飛んできた。彼は軽く頭を傾けてそれを回避する。
「なに呑気なこと言ってるのよ! あんたはシェリーに添い寝してもらえたからいいでしょうけど、私はこの悪戯好きのガキと一緒だったのよ!?」
夏凛が指差した先で、昇は頭に大きなたんこぶを作ってうつ伏せ状態になっていた。一応、帰らぬ人となっていないことを願いたい。
この夏凛の攻めに、さすがの春樹も反抗せずにはいられなかった。
「終わったことでガタガタ騒ぐんじゃねぇよ。俺だって、してもらいたくて添い寝されていたわけじゃないぞ」
しかし、この発言が彼の立場をさらに危うくさせることになる。
「がぁーん……」
カラン、カラン、カランコロンカラン、と。
突如、部屋の中に響いた食器の音。
目を向ければ、そこには先ほどまでカップにコーヒーを注いで回っていたシェリーの、しょんぼりと悲しげにうつむく姿があった。
「うう……。春樹くんにまでそんなことを言われるなんて……私、女の子として非常にショックです。こんなんじゃ、私はもう一生、お嫁に……」
「いや、違うんだシェリー。そういう意味じゃなくて……」
しかし、この春樹の釈明にトドメを刺すが如く、シェリーの瞳がうるうると揺れる。
「初めてだったのに……」
ピシッ、と。空気に亀裂が入ったような音がした。
続いて、最早かわすことのできない速度となった枕が、春樹の頬をかすめていく。
「殺してやる殺してやる殺してやる」
どうやら、夏凛の決意は本物のようだ。
次はフォークか。はたまたナイフか。
「や、やめろ夏凛! 単なる添い寝の話しじゃねぇか! シェリーも、ほら、俺が悪かったから! どうにか夏凛を止めてくれ!」
「え、嫌ですよん。だってお二人とも、なんだかとっても楽しそうに見えますし」
「お前の目は一体どういう造りになっているんだ!」
開け放たれた窓から、心地よい風が入り込む。
空を塞ぐようにして浮かぶ巨大飛行船は、今日も町に黒い影を落としていた。かろうじてホテルの窓に届く日の光は、飛行船の上に広がる青空が見せた意地のようなものなのかもしれない。この分なら、午後から雨になるという予報は外れてくれそうだ。
シェリーは異種格闘技戦を繰り広げる夏凛と春樹を背景にして、自分のコーヒーに角砂糖七個とミルクを混ぜて幸せそうに微笑んだ。
「今日もいいことありますように♪」
さて、そろそろ昨晩のことを説明しておこうと思う。
八番街、ト二―爺さんの経営する小さな楽器屋にて、ついに《伝説の花火職人》虎次郎に遭遇した四人。しかし、彼のその姿は、あまりにも《風読みの谷の村長》熊次郎にそっくりだった。
「ほ、本当に熊爺じゃないのか……?」
壁際にまで後退してガタガタと震えている昇をよそに、春樹は虎次郎の体を隅々まで観察していた。するとやがて、春樹は彼の体に熊次郎との決定的な違いを発見する。
「おい、昇、安心しろ。やはりこの人は熊爺とは違う」
「ど、どういうことだよ」
「よく見てみろ。彼の左手を」
「左手……?」
そしてここでようやく、昇も冷静さを取り戻すことができたようであった。
「小指が、無い?」
「そうだ。俺達の知っている熊爺は確かに体中傷だらけではあったが、小指を失くすほどの怪我をしたことはないはずだ」
「なんてこった……。それじゃあやっぱり、この人が虎次郎さんで間違いないのか」
「ああ。そういうことになる」
そうとわかれば、話は早い。
昇は息をのみながら虎次郎に歩み寄ると、これまで誰にも見せたことのないような誠意ある挨拶をしてみせた。
「さっきは、騒いだりしてすんませんした! 俺、咲花昇っていいます! 虎次郎さんの作る四尺玉の花火が見たくて、風読みの谷からきました!」
「ほう。ワシの花火を見に……?」
対する虎次郎は、何やら難しい表情を浮かべて自分のあご髭をなで始めた。
「しかしどうするつもりじゃ? 今、この町の空は軍の連中に占領されておるぞ。これでは花火など打ち上げられん」
「……わかってます。だから、せめて虎次郎さんの工房だけでも見学させてもらえればと思い、こうして会いに!」
「ふむ……」
深々と頭を下げる昇を見据えながら、虎次郎は何を考えているのだろうか。
「ときに、風読みの谷といえば……お前達はあの新聞で騒がれていた四人組じゃな?」
「は、はい」
これは怪しい空気になってきた。思い返してみれば、自分達は政府の許可も無く渡航している流れ者なのだ。その流れ者を前に、虎次郎は果たしていい顔をするだろうか。
しかし昇もここまで来て退くわけにはいかない。
「お願いします、虎次郎さん! 俺はずっと、あんたの作る四尺玉に憧れて花火の作り方を学んできたんだ!」
「なに? 花火の作り方を?」
これは虎次郎にとっても予想外の出来事だったようだ。
今まで、観光の「ついで」や珍しいもの見たさで彼のもとを訪ねる輩はいくらでもいた。しかし、自ら花火の作り方を学ぼうとして彼の工房を訪ねてきた者は、おそらくこれが初めてになるのではなかろうか。
「お前さん、花火職人になりたいのか?」
「はい」
「火薬は怖くないのか? 事故で死んでいった同胞は少なくないぞ。俺のこの小指も、ほんの少しの気の緩みが原因で吹き飛んだ」
「もちろん、火薬は怖いものです。でも、取り扱い方さえ間違わなければ、最高に頼もしい相棒になります」
「……ふん。言うじゃねぇか、小僧」
まるで本物の虎のような、ギラギラと光る二つの瞳が昇をとらえる。
そして次の瞬間、虎次郎はニカリと笑って昇の肩を叩いてみせたのだった。
「よし、気にいったぞ。今度、特別に俺の工房を見学させてやる」
「……! あ、ありがとうございます!」
とここで、昨晩の回想はおしまいである。
「それにしても、良かったですよね」
シェリーは路面電車の座席に腰を下ろすと、おもむろにそんな言葉を発していた。
「何が?」
と聞き返したのは夏凛で、その周りに男子二名の姿は見られない。
実は今日、昨日のことでト二―爺さんがどうしてもお礼がしたいというので、女子二人で再びトンプソン楽器店へ向かうことになっていたのだ。
緩やかな坂を登り始めた路面電車の車内で、二人の会話は続く。
「何がって、そりゃあ決まってますよ。昇くん、このまま虎次郎さんのもとに弟子入りしちゃうんじゃないでしょうか」
「ああ、そのことね。まぁ、今回のことは素直に喜んであげてもいいと思うわ。また妙な方向に話がこじれたりして、私達の旅に悪影響がでても困るし」
夏凛は足を組み、腕を組み、座席にふんぞりかえって意気揚々と語り出した。
「ま、とはいえ、そこはあの昇のことだから? またいつ何時私たちに災難を吹っ掛けてくるか分かったもんじゃないわよ。だから、あいつがどこで何をしていようとも、私たちは気を緩めてはいけないわ。シェリー、肝に命じておきなさい」
「はい♪」
さて、この追い風を利用して、夏凛の構想しているあの計画も波に乗るだろうか。
実は彼女、昨日の昼間から今の今までずっと頭の中は例のバンドフェスティバルのことでいっぱいだったのだ。もし本当にトニー爺さんの楽器店から出場させてもらえることになれば、優勝賞金百万Gだって夢じゃない。
「でも、どうして昨日のうちにトニーおじさんに相談を持ちかけなかったんですか。チャンスならいくらでもありましたよね?」
シェリーにはそれが不思議でならなかった。昨日の時点で少しでも話しを進めておけば、今後の動きも楽になっただろうに。
しかし夏凛からすれば、この質問は非常にナンセンスなものだったようだ。
「シェリー、いい? 昨日、私たちがあの楽器屋にたどり着けたのは何故?」
「え、それは……偶然にもあの男の子を軍人達から助けてあげたから、ですよね?」
「そうよ! だからこそ、あの場ですぐにこの話題を持ちかけるのは、何となく『都合が良すぎる』と思われかねないの!」
「ああ、なるほど、確かに……。変な誤解を受けてしまっては、話がややこしくなりますしね」
「そういうことよ。それにこの交渉をト二―さんに持っていくのは、あの男の子が目を覚ましてからの方が好都合だわ」
「え、どうしてですか?」
「だって、万が一トニーさんが私たちの出場を拒否した場合、私たちを支持してくれる存在が一人でも多い方がいいじゃない」
うわぁ、考えることがセコい。いや、「セコい」というか、既に「がめつい」の域だ。
「そこまで考えなくても、あの気さくなトニーおじさんなら快く承諾してくれると思いますけどねぇ」
すると夏凛も、力を抜けた表情で「わかってるわよ」と返事を返した。
「まぁ、それは同感だわ。むしろ、私達の名乗り出に感激してくれるんじゃないかと思ってるくらいよ。あの寂びれた楽器屋を活気づけるためにも、私達はフェスティバルに出場するべきなの! これって立派に互いの理にかなってると思わない?」
「夏凛さんの場合、『理』ではなく『利』の方ですけどね……」
しかし、この二人の安易な考えが後にややこしい事態を招くことになろうとは、まだ誰も知る由もない。
「こんにちは、トニーおじさん!」
八番街に到着した二人は、さっそくトニー爺さんの楽器屋の入り口を叩いた。店の中からは香ばしいコーヒーの香りとゆったりとしたレコード音楽が漂ってくる。
「こんにちは!」
再び、大きな声で挨拶をする二人。
トニー爺さんは奥のカウンターで虫眼鏡片手に新聞を読んでいたが、二人の姿を確認すると声をあげて喜んだ。
「おお! 来たか来たか。待っておったぞい」
まるで新しい孫でもできたような心持ちなのかもしれない。その表情はとても晴れやかで、心から二人の来訪を待ち望んでいたことが見てとれた。
やがて彼は「ちょっと待っておってくれ」と言うと奥の部屋へと姿を消す。
「何か用意してくれているんでしょうか。本当にお礼なんて必要ないのに……」
「何言ってんのよ。貰える物は貰っておくに越したことないわ」
お礼といったって、とりいってかしこまるほどの物が出てくるわけでもないだろう。せいぜい、お茶菓子なんかを袋に包んでもってくる程度ではなかろうか。
「だったら、それをいただかないのはお年寄り相手に失礼でしょう?」
「まぁ、そうですけど……」
しかし、そんな軽い気持ちでト二―爺さんを待っていた二人は、この直後に驚愕の表情を浮かべることになる。
「すまん、待たせたの」
まず驚いたのがその量だ。
ト二―爺さんが奥の部屋から持ってきたそれは、台車に積まなければ運べないほどの大きな箱に詰まっていたのである。
「え! ええ!? ちょっと、ト二―おじさん!? なんですかその大きな箱は!」
「へっへ。まぁ、中身を見てみるといい」
訝しげな表情を浮かべながらも、言われた通りに箱を開ける二人。
そしてその中身を見て、二人の表情は面白いほどガラッと一転したのだった。
「す、すごい……! これって、全部女性向けの洋服ですよ!」
「本当だわ! 信じられない! 見て見て! これなんか、ちょうど私が着るのにぴったりみたい!」
しかも、箱の中に収納されていたそれらの洋服は、どれも二人にとっては憧れのブランド品ばかり。これを見せておいて「飛びつくな」と言う方が無茶な注文なのである。
「それにしたって、どうしてこんな女物の洋服をト二―おじさんが?」
というのは、当然の疑問であろう。こんな上等な服、普通の女の子でさえなかなか手に入れられないはずだ。それなのに、何故こんな年寄りの手に持てあまされているのだろうか。追究する必要がある。
しかし、夏凛のこの質問に対してト二―爺さんはいつもの高笑いだ。
「ほっほ! そんなものは決まっておろう。全ては研究のためじゃよ」
「……研究?」
不思議そうに首を傾げるシェリーの横で、夏凛は「ハッ」と何かに気付いたようである。
「ま、まさか、あんた……この洋服を使ってスカートめくりの練習をっ……!」
「ご名答」
絶句である。夏凛とシェリーはしばらく石工で固めた像のように真っ白くなって動けなくなってしまった。つまり、これらの可愛らしい洋服は、全てこの変態爺さんの練習台にされていたものということで……。この爺さん、今度はそれを本物の女の子に着せようとしているわけである。
「夏凛さん……。私、いま、全身の毛穴がつま先の方からブワーって逆立つのを感じましたよ」
「あらシェリー、私なんて背筋が凍りついて明後日の朝まで溶けそうにないわ」
しかしそんな二人のリアクションさえも笑い飛ばしてしまうのがこの爺さんである。
「わっはは! いかんのう、若い者がそんなようでは。どれ、ここは一つ、わしが秘伝のマッサージでも……」
「触れたら埋めるわよ」
「ほっほ。年寄りにも容赦ないわい」
するとここで、「それにしても……」とト二―爺さんはカウンターへ腰を下ろした。どうやら、彼の変態ジョークもここまでのようだ。
「君ら、本当にその服、貰っていってくれんかね。この老いぼれのささやかな頼みだ」
タバコを一服吹かす彼の目は、どこか遠くを見ているようだった。立ち昇る煙の先に何が見えるのだろうか。ト二―爺さんはじっと顔をあげて動かない。
そして、その哀愁漂う姿に、夏凛達もなんだかすっかり毒気を抜かれていたのだった。彼女達は素直に頷き、よくわからないままに段ボールを受け取ることになる。
「ま、まぁ、この洋服を貰えるってのなら、それ以上ありがたいことは無いけど……」
しかし、これじゃあまるで、一人の老人から何か大切な思い出を奪ってしまったようで後味が悪い。まぁ、それがどんな思い出なのかはさておいて。
「な、なら、私たちもトニーさんのために少しでも役に立ちたいわよね、シェリー?」
この、夏凛からの唐突な振りに、シェリーは最初「へ?」と間抜けな声を出してしまった。
(へ、じゃないわよっ! 話を合わせて!)
どうやら、夏凛はこのタイミングで例のフェスティバル出場の件を提案しようとしているようだ。
(ああ……なるほど……)
それならば、と意気込みを入れるシェリー。
「確かに、夏凛さんのおっしゃる通りですね! こんな高価なものをいただいてしまったからには、私たちも誠意ある対応をするべきです!」
さながら、バレーボールの試合で絶妙なトスを上げたような気分のシェリーは、既に夏凛が見事なアタックを決める姿を脳裏に思い描いていた。今この流れで話を切り出せば、トニー爺さんも快く出場を承諾してくれるであろう。
だが、シェリーの上げたこのトスは夏凛の頭上へ降りてくる前に突如として場外ホームランに化けてしまうのだった。
「へぇ。それなら、ついでに楽器の掃除でも手伝えよ」
「え。」
「あ。」
いつの間に入ってきたのか知らないが、シェリーのパスを的外れな方向に弾き飛ばしたのは大工姿の昇だった。彼は額の汗をタオルで拭うと、実にいい笑顔で夏凛達の分のお茶をぐびぐび飲む。
「とうっ!」
すかさず、夏凛からの正拳突きが入った。
「ごばっ!? おま、いきなり何を……」
「それはこっちの台詞!」
(あんたねぇ、毎度毎度どうしていらないことばっかりしてくれんのよ! 私たちはね、このお爺さんにバンドフェスティバルの出場を許可してもらいたいの!)
(バンドフェスティバル……?)
「ああ……もしかしてあれのことか」
「あれ? あれって何よ?」
しかし昇は夏凛の追究などそっちのけで何やら考え事をしている様子である。そうしてやがて、彼はト二―爺さんへと勝手に報告を固めるのだった。
「ってわけで、ト二ーのじっちゃん。俺とこいつらで、上の階の古い楽器磨いておくよ!」
「ほう。それは気が利いておる。なら、遠慮せず頼んでおこうかの。おぬしらは楽器の扱いには慣れておらんだろうから、後でシュウをよこそう」
「オッケー。じゃあそれまでに掃除を済ませておくか。ほら、お前らも」
「え、ちょ」
あれよあれよと話は進み、夏凛とシェリーは昇に腕を引かれて階段下まで移動するはめに。もちろん、夏凛がこのまま黙って彼に引きづり回されるわけもなく……。
「ちょっと! これは一体どういうことなのよ! なんで私達があんたの奉仕活動に付き合ってやんなきゃなんないの!?」
「まあまあ夏凛さん。お洋服の件は本当に助かったんですし、実際にこれくらいことはお手伝いしていってもいいじゃないですか」
「まあ、それはそうなんだけどね。問題は、この単細胞がいきなり割り込んできて、ト二―さんにフェスティバル出場の相談を持ちかける最大のチャンスをへし折ってくれたことよ! まったく、なんてことしてくれんの!?」
「ちっ。お前はいつもいつも、よくそんなふうにやかましくしていられるもんだな」
「なによ! あんたなんかはもうほとんど目的が達成できたからそんなふうにツヤツヤしていられるんでしょうけどね、こっちは風読みの谷に帰るまでのことを考えて必死なのよ……!」
少し本気で涙を浮かべ始めた夏凛に、さすがの昇も溜め息である。
「……ああ、悪かったよ。確かに、お前達を巻き込んだ身でありながら、俺は一人で浮かれすぎてたな。でも、ちょっとは俺の話も聞いてくれ」
すると昇は、「こっちだ」と言って薄暗い階段を上がり始めた。その真剣な表情は普段の彼からは全く感じることのない不思議な説得力に満ちていて、こうなるともう女子二人は黙ってついていく以外に選択肢を持ち得なかった。
「ほら、こっちこっち」
昇の後に続いて二階の部屋に入っていった二人は、思わず入り口付近で一度足を止めてしまった。
「う……」
そこは、長い間誰の手にもつかず放置され続けてきたような練習室らしかった。
夏凛とシェリーは、その部屋に一歩足を踏み入れただけですぐにぴんときた。そこらじゅうに鬱積しているのは塵やほこりだけではない。なんと形容したらいいだろうか。まるで心の中に小さな部屋をいくつか作ったとして、ここはまさしく……。
「どうだ? まるで、見たくないモノをここに閉じ込めて、ずっとほったらかしにしておきましたって感じの部屋だろ?」
「ええ……」
そうだ。これはまさしく、進むことを諦めた空間だ。時計の針は一体いつから止まっているのか想像もつかないが、この部屋の有り様からすれば、十年……いやそれ以上前からずっと動くことをやめているに違いない。
封印なんて、そんな簡単な言葉で片付けられるのならまだいい。しかしこれは、明らかな放棄だ。放棄であり、忘却であり、停止であり、諦観だ。
「あ……。これって……」
やがて、部屋の壁をなぞるように歩いていたシェリーが、棚の上に伏せてあった一枚の写真立てを手に取った。昇が勢いよくカーテンを開けると、そこに写っていたものがはっきりと目に映る。
「もしかして、これってト二―お爺さんと……」
「娘……さん……?」
「だと思う」
そこで唐突に、夏凛とシェリーは答えに辿り着いたような気がした。ト二―お爺さんがくれた膨大な量の洋服は、どれも一昔前のお嬢様が着るような飾りっ気の多いものだった。
「あれは全部、この写真に写っている娘さんが着ていたものだったんですね……」
ここまでくれば、もう三人の中にはなんとなく共通の認識が芽生えているものだ。
「たぶん、その写真の中の綺麗な人は、もうずっと前に死んじゃったんだろうな。そして、ト二―のじっちゃんはその過去を清算できずに今も生きてる」
「……」
三人は、しばらく何も言わないまま、それこそ何も考えることもないまま、ただありのままを受け止めていた。まさかあの能天気そうなお爺さんがこんな重たい一面を持っていようとは。人は見かけによらないということだ。
するとそこへ。
「こりゃ驚いた……」
と、まだ声変わりも中途半端な少年の声が聞こえてきた。
「誰だ?」
部屋の入り口の向こうには影がかかっていて、その人物の姿ははっきりと確認できなかった。
「もしかして、シュウくん?」
シェリーの指摘に、その声の主はゆっくりと光のもとへと体を移動させる。その姿を確認すれば、やはり声の正体は昨日助けたあの少年だった。
「良かった……! もう体は平気なの?」
「あ、うん。あちこち痛いけど、平気かな。それより、ごめん。こっちは命を助けてもらったっていうのに、すっかり記憶がなくて」
それは当然だろう。彼は保護した時、既に意識が朦朧としていたのだ。
これは改めて、自己紹介の必要がある。
「えっと、初めましてってのも変だけど、私は夏凛。よろしく」
「私はシェリー。よろしくね」
「あ、うん……。よろしく」
出会った時の第一印象とはうらはらに、シュウは少しシャイで、割と硬派な性格のようだった。彼は三人の先輩を前にピシッと直立すると、深々と頭を下げて礼を述べた。
「昨日は面倒なことに巻き込んだりして、ほんとにごめんなさい。そんで、わざわざここまで運んでくれたことには本当に感謝してます」
たいしたことないわよ、と夏凛が笑う。
助けに入った当の本人がいないですけどね、とシェリーが続く。
「そういえば、昇くんとシュウくんは初めましてじゃないんですか?」
「ああ、俺とシュウはもうすっかり仲良しだぜ。一緒に風呂に入ったくらいだからな。男同士、裸の付き合いってやつ?」
「あら、いつの間に」
「あ、その人! 僕がお風呂に入ってたら勝手にシャワー浴びに入ってきたんですよ!」
「えっ……」
自宅の風呂場でいきなり見ず知らずの他人と遭遇するとか、怖すぎる。
「まぁ、仲良くなったのは事実じゃんか」
「昇にぃの『仲良し』はかなり一方的だけどね」
「そんな寂しいこと言うなよぉ。また今度、風呂場で『全裸ブリッジ対決』しようぜ」
「いや、そんなんやってないし! そもそも、それって何を競い合う競技なの!?」
まぁ、なんだかんだいって、結構打ち解けている感じの二人だった。こうして見てみると、昇もなかなかお兄さんらしく年下の子と付き合っているものだ。
夏凛達の感心をよそに、昇とシュウのやりとりは続く。
「ところで、シュウは俺達に何か頼みごとがあるんじゃなかったっけか?」
「あ……」
するとシュウは少し考えをまとめるためか、ゆっくりと窓辺に向かって歩きだした。やがて振り返った彼の表情には、さきほどまでの幼さ残る微笑みは無い。
「この部屋に入ることを許された夏凛姉さんやシェリーさんになら、きっと僕の願いを叶えることができるはずです」
「……?」