第一章 風読みの谷の冒険者達
プロローグ
満月の夜。
フェスティバルの会場に集った群衆の前に、最後のバンドメンバーが姿を見せた。
悪意ある情報操作により支持率は最下位。エントリーさえ非難する客がいる中、彼らに向けられる視線はどれも冷ややかなものばかり。
しかし、そんなことは彼らにとって大きな問題ではなかった。
今、自分は自分の成すべきことにきちんと向き合えているかどうか。それこそが一番の問題なのだ。
「そして、これが俺たちの答えだ」
四人は静かにお互いの顔を見回すと、ついに演奏を始める。
それが、この少年たちの始まりの歌だった。
それが、この物語の始まりの歌だった。
『Fire◎Flower ~七色に燃える月の花~』
第一章 風読みの谷の冒険者達
これは、山を下る川の水が日に日にその冷たさを増し、澄んだ風が青白い空を高く高く持ち上げていこうという、そんな時季のお話しだ。
大都市圏から見て南東に位置する広大な森林地帯。そのまたさらに奥地にそびえる小高い山のふもとに、《風読みの谷》と呼ばれる小さな村があった。
人口は約二千人弱。村で唯一の学校には、計八十人程度の生徒が通学している。もともと人口が少ない村とはいえ、これは近年でも最も少ない数らしい。
とはいえ、この村の活気が衰えているわけではなかった。元々、豊かな採掘資源と水に恵まれた土地である。外部との交易は盛んであり、その恩恵に与っている人々は数知れない。
物語の主人公となるのは、そんな美しく平和な谷で起きることになった、近年まれに聞くあるお騒がせな事件に巻き込んだり巻き込まれることになった四人の子ども達である。
―1―
村の外れ。
立ち入り禁止と書かれた看板とフェンスに阻まれ、普段は決して人の立ち入ることのない廃炭坑の続く崖道。
「まさかこんなところにまで忍び込むとはな……」と呟いた少年は、まだ新しい足跡の残る廃炭坑の前で気だるそうに体を伸ばした。
彼の名は乙竹春樹。この村にある学校の高等部一年である。
現在、午前九時四十分。本当なら学校で授業を受けているはずのこの時間になぜこんな場所にいるのかと言えば、それはもちろん学校をサボっているから……ではなく、列記とした理由があってのことだ。
「しかし、また面倒なことを頼まれたもんだ……」
彼の同級生には咲花昇という有名な問題児がいた。そいつがどうやら、ここ一週間ほど学校に顔を見せてないらしい。
そこで途方に暮れた担任は、春樹の腕を買って彼に仕事を依頼したわけだ。
『頼む。このままでは、あいつは二度と学校に来なくなってしまう。どうにか咲花の隠れ家を暴きだして、奴を連れ戻してくれ』
もっとも、春樹は担任からそうやって事情を聞いて初めてそのことに気付いたようだった。
そういえばあいつ、ずっといなかったっけか。なんて具合に。
だいたい、昇は元々そんなに学校へ顔を出すタイプではなかったような気がする。加えて、自分は自分で他人のことにはまるで興味などないわけだし、まぁこれなら気がつかないのも当然と言えば当然だろう。
そんなことを考えながら足跡をたどる春樹だったが、普通の人間の感覚でいけば春樹のこの考えは明らかにおかしなものだった。なぜって、全校生徒が八十人程度しかいない学校に、彼の同級生が一体何人いたか想像してもらえばすぐにお分かりいただけるだろう。
十人だった。確かに他の学年に比べれば断然多い数ではあるが、その中の一人が学校に来ないともなれば誰だって気付く方が当然だ。
つまりは、春樹とは“そういう男”である、ということだった。
たとえば昇が世に言う“自由人”なる人種であるならば、春樹はそれとまた似て非なる“一匹狼”といったところだろうか。とにかく無愛想で、無口で、非合理的な人付き合いなどには一切関わろうとはしない、そんな冷めた人間だった。
しかしそんな彼も、ただ「面倒だから」という理由だけで担任の申し出を断るようなことはできなかった。なにせ、彼がこの世で最も面倒だと思うことは、「人間関係におけるいざこざ」なのだ。そういうことは、自分がイエスマンであれば基本的には回避できる。
「だが……なかなかどうして、今回の場合は衝突を避けられそうにないな」
春樹は真っ暗な廃炭坑の中を適当に進み、やがて一つの穴の前で足を止めた。
間違いない。人の気配がする。ここに咲花昇がいるのだろう。
春樹は確信を持って穴の中を見据えると、その中へ堂々と足を進めた。
しかしその時。
「誰だ?」
不意をつかれた。
春樹の脇腹に、何か金属のようなものが押し当てられている感触が走る。
「おいおい、よせよ。俺だ、乙竹だ」
「は? ……乙竹?」
意外にも聞き覚えのある名前が出てきたことで、昇の体からは一気に力が抜けたようだった。
小さなランタンの灯が、お互いの顔を照らしだす。
「お前、乙竹春樹か? あの無愛想な?」
「……無愛想かどうかは知らないが、その乙竹春樹だ」
自覚のなかった春樹である。
やがて昇は不機嫌そうな顔で近くの椅子に腰をかけた。
「どうしてここへ?」
その、「帰ってくれ」と言わんばかりの昇の目つきに、春樹は含み笑いを浮かべながら困ったように肩をすくめる。
「そんなに殺気立たないでくれるか。俺だって好きでここに来たわけじゃない」
「だったら、一体何をしにきた?」
「先生からの依頼でな。お前の居場所を暴きだして学校に連れ戻せとさ。尾行なんて物騒なことができる奴なんて、クラスじゃ俺ぐらいなものだからな」
「……なるほどな。さすがは優等生。先生方の言うことには逆らわないってか」
「おいおい。勘違いするな。俺は他人に媚を売るようなマネはしない。……俺も退屈でな。こいつはただの気晴らしってやつさ」
実際、春樹にとって学校の授業は退屈だった。
その気持ちはよくわかるぜ。と昇。
「それじゃあ、ここは一つ見逃してもらえねぇかなぁ。お前も、そろそろいい時間潰しになった頃合いだろ?」
しかし、春樹はこれを了解しない。
「……そういうわけにはいかねぇな。事情が変わったんだ。ここが立ち入り禁止区域であり、俺がこの村の自警団長の息子である以上、ここから黙って帰ることはできねぇよ」
「そうか、そりゃ残念だ」
不敵な笑みをこぼしてみせる昇だったが、この展開は彼にとっては一番好ましくないものに違いなかった。
その理由は、一目見ればわかるほどあまりにも大きすぎるハンデ。
確かに春樹と昇は同い年ではあるが、彼らが並んで歩いているのを見て二人が同学年だと思う人間はなかなかいないだろう。すくなくとも、春樹の方が一つか二つ上に見えるはずだ。それは、春樹の放つ空気がやたらと厳かなことにも起因しているのだろうが、やはり身長の差が目に見えて明らかであることこそが第一の理由であるといえよう。
その上、春樹は村の自衛団長の息子であり、本格的な武道を身につけている。そんな奴を相手にして重傷を負った日には、今までの計画が全て台無しになってしまいかねない。
「あくまでも、俺に『ここを出ていけ』と?」
交渉の糸口を見出そうとする昇に対して、しかし春樹は淡々と答える。
「そういうことだ」
二人の間に流れる空気はまさに最悪だった。
小さな虫けらなら窒息死してしまいそうなほどの閉塞感と圧迫感。
そして、いまにも春樹が動きを見せようと踏み込みに入ったその時――
「そうだ! それなら完璧だ!」
昇は勢いよく立ち上がると、今までの空気がまるで嘘だったかのような満面の笑みを浮かべて春樹に詰め寄ったのだった。
「な、なんだよ……」と、春樹は気色悪そうに顎を引いて対応する。
しかし昇はそんな春樹の様子を全く気にせずに、目をキラキラと輝かせながら提案したのだった。いや、これはもはや提案というよりは命令に近い。
「春樹、お前は俺の仲間になれ!」
「……は?」
―2―
昼休みの学校。
音楽室の窓から、物憂げに景色を眺めている少女が一人。
彼女の名前はシェリー。
窓の外に見える景色など、実のところ彼女にとっては何の意味もありはしない。
ただ、そうしてボーっとしているうちに、何か自分の尺度で測ることのできないようなものが閃いたりするような気がして、彼女は景色を眺め続けるのだった。
風になびく雨水色の前髪。
三つ編みの先端で自分の頬をなぞっていると、ふいに後ろから声をかけられた。
「シェリー。次の時間、低学年の子供達のこと頼んでもいいかしら?」
ふと、我に返るシェリー。澄み切った空のような色をした彼女の瞳が、そこに居た教師の顔に向けられた。
「え、あ、はい。大丈夫ですよ」
「いつも悪いわね。そういえば、お花の水、ありがとう。今日はあなたが取り替えてくれたのでしょう? さっき子ども達に聞いたわ。さすがは学校一の成績優良生徒ね。気配りまで優秀だわ」
「い、いいえ、そんな……」
瞬間。シェリーの表情が、ほんの少しだけ陰りを見せる。
「……そんなことより、先生方は明日のお祭りの準備でお忙しいみたいですね。楽しみにしていますので、頑張ってください」
「ありがとう。それじゃ、はりきって行ってくるわね」
「いってらっしゃい」
シェリーは、のんびりと手を振りながら先生が教室から出て行くのを見送る。そして、やがて再び独りになれたのを確認すると、胸に両手を当てて小さくため息をこぼすのだった。
「私は、このままずっと……」
それは、彼女が決して他人には見せない不安の片鱗だった。
――シェリーは今年で十六になった。
しかし、いくら歳を積み重ねても、彼女は自分が成長している実感を味わったことがなかったのだ。確かに、背も伸びたし、体つきだってだいぶ大人っぽくなってきた。本をたくさん読んで、物知りシェリーなんて呼ばれるようにもなった。それでも、何かが違うような気がしている。
教師や親、大人たちから言われるがままに何でも言うことを聞いて、褒められて、そんなことの繰り返しが、なんだかとても無意味なことのように感じられてしまって、彼女は時々言い知れぬ焦燥感にかられるのだ。
自分は、このまま定められた通りの大人になって、定められた通りの幸せを掴んで生きていくのだろうか……。
窓の外に目を向けても、遥か遠くの林の中から突き出した黒い防護壁がそびえ立つばかりだ。それはまるで、「お前にはどこに行くことも許されない」と宣告してくるようで。
「そんなこと……」
シェリーは胸の奥が締め付けられるような思いを感じながら教室を後にした。
―3―
「シェーリーイっ!」
「ふわっ!」
突如、シェリーの視界を遮るひんやりとした手。
「ふわっ…! ふわわわ! や、やめて下さいぃ! 前が見えません!」
「もう、シェリーったらぁ、相変わらず可愛いんだからぁっ!」
シェリーの慌てふためく様子を楽しんでいるこの少女は、同級生の夏凛である。
彼女はその男勝りな性格で有名な、村の看板娘だ。落ち着いた服装のシェリーとは対照的にキャミソールに短パンといった日焼け上等な格好をしている彼女はスポーツの試合となればもう引っ張りだこ。彼女の為に特別ルールを設けなくてはならないほど、その動体視力と瞬発力は桁違いなものなのだ。
さてさて、窓の外の木にとまって忙しく鳴いているアブラゼミにも負けないくらいの元気を振りまく夏凛は、シェリーの顔から勢いよく手を離すと、今度はそのままシェリーの体をコマのように回して遊び始めた。
「そーれっ!」
「は、はわわわわわっ……!」
足元をふらつかせて床に倒れそうになるシェリー。しかしそこは夏凛も手慣れたもので、シェリーを受けとめる準備は万全に整っていた。
「シェリー、大丈夫?」
「らいじょうぶじゃありませんよぉ……。ふへぇ……」
「あらら。ちょっとやり過ぎたかしら」
その後、シェリーはどうにか歩けるまでに回復したが、その頭はまるで風に遊ばれるシャボン玉のようにゆらゆらと揺れていた。
「か、夏凛さん、ひどいです……。うぇ……まだ吐き気が……」
「あっはっは! シェリーったら鈍臭いわねぇ。しっかりしなさいって!」
「むぅ。そもそも誰のせいだと思ってるんですか、夏凛さん!」
頬を膨らまして抗議するシェリー。かと言って、彼女が本当に怒っているわけではないことは夏凛にも分かっていた。
二人のやりとりは、いつだってこんな調子のものだ。たまに夏凛の方から絡んできて、何気ない世間話に花を咲かせる。近づきすぎず、遠ざかり過ぎない、そんな距離の置き方。
「で、シェリーはまた初等教室で子ども達の面倒を?」
「はい。先生方もみんな、明日の祭りの準備で忙しいらしくて」
「あー、そうよね明日なのよねー。まったく、早いものだわ。まさか私達がアレに乗る日が来るなんて」
「……ええ、そうですね」
夏凛の言う《アレ》というのは、お祭りの最大のイベントである《気球打ち上げ》のことであろう。
この村で行われる祭りは、もともとは成人の儀を意味するものであり、一人前の大人になるためのイニシエーションだったそうだ。その昔は、村の奥にそびえる崖を若者達が競い合うようにして登っていくという壮絶な内容だったとの資料も残っている。
「と、いうわけで、あの気球に乗れるのが十六歳になった者だけという掟は、そのときの名残みたいなものと考えられているのですよ。もっとも、その掟も次第に薄れていくのでしょうけどね」
「へっぇ~。なるほど。さっすがは物知りシェリーだわ。そんなことまで知っているなんて、やっぱり私みたいな馬鹿とはレベルが違うわねぇ」
「い、いえ、たいしたことじゃないですって」
「またまたぁ、謙遜しちゃって」
しばし微笑みを交わし合う二人。
するとやがて、夏凛の方からシェリーに一つ提案が持ち上がった。
「あ、そうだわ! 確か気球には二人で乗れるのよね? もしシェリーが良ければ、私と一緒に乗りましょうよ」
「え……。私でいいんですか?」
「いいもへったくれもないわよ。私はね、シェリーとなら乗れる気がするの」
「え?」
それは、まるで彼女が本当は気球に乗れない人間であるような言いぶりであった。しかし、夏凛は特に高い場所が苦手なわけでもないし、乗り物酔いするタイプでもない。
「……それじゃ、明日はよろしく! じゃね!」
「あ、はいっ……!」
その時だった。
シェリーは夏凛の瞳の奥に、何か暗いものが蠢いているのを垣間見たような気がした。しかしそれは、誰にでも明るく振る舞う彼女のイメージからは全くかけ離れたもので。
「見間違い……ですよね」
シェリーは夏凛の背中を見送りながら独りごちると、そよ風のなびく渡り廊下へ足を向けた。ふと、雲の切れ間から光が差して、シェリーの白肌を照らし出す。
空に流れていくのは、崩れかけた入道雲と少し湿った風の匂いだけだった。
―4―
翌日。
気球祭りの当日は、朝から雲一つ無い快晴。
祭りの本番は午後六時からで、薄暗くなった夜空に鮮やかな装飾を施した気球が十機あまり飛ぶ予定になっている。
やがて、あちこちに屋台が立ち並び、食欲をそそられるような匂いが広場をつつみこみ始める頃。お気に入りの服を着て集まり始めた村人たちの中に、仏頂面をした男が一人、無言で空を眺めていた。
「どうしてこうなっちまったんだか……」
自分はもともと人混みが嫌いな方なのだが、やはりどうにも場違いな場所に来てしまったような気がして落ち着かない。約束の時間になってもあのお調子者は一向に現れないし、苛立ちは募る一方である。
そうしてしばらくして、ようやく彼のもとに例の男がやってきた。
「おーい、春樹ぃ!」
大きく手を振りながら軽快な足取りで走ってくる昇は、約束の時間から三十分以上遅刻していることを微塵も感じさせない無邪気な笑顔を浮かべていた。
「まったくあの野郎は……」
人ごみの中を走るには早すぎる速度で近づいてくる昇に、春樹は驚くというよりは呆れたような眼差しを向けて息をつく。
「お前、少しは遅刻したことを申し訳なさそうにしたらどうだ。俺がどれだけ待ったと思ってる?」
「いや、それがよー、予想以上に準備に手間取っちまって」
「……まぁいい。見せてもらうからな。お前言うの“完璧な計画”とやらを」
「あぁ。バッチリ決めてやんよ。俺はこう見えても、かなり計算高い方なんだぜ」
「そーかよ。そりゃ楽しみだな」
一体、こいつのこの自信はどこから沸いてくるのだろう。春樹の苛立ちは増すばかりである。しかしながら、その一方で「もしかしてこいつならうまくやってのけるのではないか」と思っている自分がいることもまた事実。
例えば、このなんの刺激もない単調な暮らしを一枚の真っ白な画用紙にたとえるとして、そこに一滴のシミを……いや、バケツいっぱいのインクを悪気も無くぶちまけることができる人間がいるとしたら、それはきっとコイツだけだと、自然にそう思えてくるのだ。
―5―
祭りは順調に進み、いよいよ終盤に入ろうとしていた。ちょうど、夕日が山際に沈もうとするのにタイミングを合わせて、次々に照明が点灯していく。
やがて人々の歓声とともに、見事な彩りの気球があちこちに立ち並び出した。
「よぉし。今年の着色もなかなか綺麗に仕上がったのぉ」
この祭りの指揮をとっているのが、この村の村長で御歳七十の山田熊次郎、通称“熊爺”であった。この熊爺、とにかく祭り好きなことで有名である。なんでも、祭りの為ならその命さえ失くしても惜しくないと思っているとか。
熊爺は次々に膨らんでいく気球に目を見張りながら、あごに蓄えた白い髭をなでていた。眉間に深いシワを刻み、鋭い目付きで仁王立ちするその姿は、さながら大工職人の親方のような風貌である。
「今年も、必ず成功させてみせるぞい」
今回の祭りは天候にも恵まれ、ここまでは何事も無く熊爺の思い描いていた演出の通りにプログラムが進んでいた。このまま無事に全ての気球が空に浮かぶことができれば、いよいよグランドフィナーレである。
その頃。
気球に乗る為の順番待ちの列の中で、シェリーは未だに直に見たことの無い村の外の景色を思って胸を高鳴らせていた。それは何もシェリーだけに限られたことではなく、今年初めて気球に乗る者全てが感じているはずの興奮だった。
この村では普段、村の外へ出る為に気球を使用することはほとんどできない。よほど重大な理由でもない限り、一般人が村の外にでていくことは許されないのである。
それもそのはず。村を一歩出れば、そこに広がるのは生きるか死ぬかただそれだけが試される世界。そんな場所に自ら足を踏み入れようなどとは、どんな馬鹿でも絶対に考えるはずのないことだった。だからこその防護壁。だからこそ、谷という地形に芽生えることのできたこの村である。
シェリーは目の前で膨らんでいく気球に目を奪われながら、ついにあの黒い防護壁を見下ろしてやれる日が訪れたことを改めて実感し、言いようのない感慨にふけっていたのだった。
「シェーリーイっ!」
あれやこれやと妄想にふけり始めたシェリーの耳に、不意打ちをかけるようにして聞き覚えのある声が飛んでくる。
振り返れば、そこには珍しく女の子らしい花飾りを頭に付けた夏凛の姿があった。どこで手に入れたのかは知らないが、目が冴えるような色をした南国の花は、夏凛にはとてもお似合いだと感じられた。
「あ、夏凛さん。こんばんは」
律儀に挨拶をするシェリーに対して、夏凛は眉をハの字にして息をついた。
「もう、あんたは何ボサっと突っ立ってるのよ。気球、全部出ちゃうわよ?」
「え? え!?」
シェリーが慌てて気球乗り場に目をやると、ちょうど最後の気球が膨らんでいくところだった。そこにいた係りの人が、心配そうにこちらを眺めている。
「シェリー、乗るんでしょ? 早く行ってあげなさいよ。係りの人、あんたがなかなか来ないから不安げにしてるわよ?」
「は、はい! 私ったらつい……!」
「いいから早く」
夏凛は左手で頭を掻きながら、シェリーを追い払うようにして右手をひらひらと動かした。シェリーはその指示通りに一、二歩走り始めようと気球に向けて足を動かしてみたのだが……ふと、何かがおかしいことに気付いて立ち止まった。
「あれ……?」
「ちょっとシェリー、急ぎなさいよ」
シェリーを急かす夏凛の声。
しかしシェリーは彼女の言葉を無視して振り返ると、周りの音楽にかき消されないように精一杯の声をあげて夏凛に問いかけた。
「か、夏凛さんは乗らないんですか!?」
そうだ。自分は昨日、彼女と一緒に気球に乗ると約束したではないか。
それを聞いて、何か誤魔化すような笑みを浮かべながら顔をそらす夏凛。
「え、あはは……。あたし、やっぱりいいやって思ってさ。ほら、別に気球なんか乗らなくっても大人にはなれるしね。それに……」
夏凛はそこまで言うと言葉を切って顔を下に向けてしまった。そんな夏凛の様子に、シェリーは少し動揺する。おそらく彼女は今、これまで誰にも見せることの無かった表情を、初めて人に見せているのではないだろうか。
このとき、シェリーは直感的に自分がどうするべきかわかっていた。しかし、彼女はまた、自分がそんなことができる人間でないことも知っていた。
……だけど、本当にそれでいいのか? 今それをやらなかったら、自分は一生後悔するような気がする。自分はずっと、このまま何も変わることができないような気がする。
「夏凛さん!」
シェリーは意を決して夏凛のもとに駆け寄ると、夏凛の腕をギュッと握って気球へ向かって走りだした。
「うそ!? ちょ、シェリー? どうしたのよ!」
「だめです! だめなんです! ここで私と一緒に気球に乗ってくれないと、絶対にだめなんです!」
「なんでよ!? 別に……私のことなんて、置いていけばいいじゃない!」
「置いていきません! どんなに私との間に壁を作ろうとしたって、私は絶対に夏凛さんのそばから離れたりはしません! 私にとって、夏凛さんはそれだけ大切な友達なんです!」
「シェリー……」
カラフルな模様の気球から放たれるきらびやかな光をあびながら、シェリーはまるで夢でも見ているような気分に陥った。
自分が今、何をしているのかも忘れてしまいそうなほど息が苦しくて、それでも、今までに味わったことのないようなくらい開放感があって――
順番に地面を離れていくバスケットの横を走りぬけて、ついに二人は残されたバスケットの中へと飛び込んでいった。バスッケットが離陸するまでには数秒もかからない。
そして、二人が勢いよく起き上がって顔を出した時には、バスケットはすでに地面から離れ始めていたのだった。
―6―
「さて、いよいよ大詰めじゃぞ……!」
全ての気球が無事に離陸したことを確認した熊爺は、壊れかけのパイプ椅子にどっしりと腰をおろして煙草に火をつけた。残る仕事は、一番良い頃合いを見計らってライトアップの合図をするだけとなる。ここまでくれば、祭りの成功はもう目前だ。
ただ一つ気がかりなのは、気球を一定のポジションに固定しておく為に地上からくくりつけておいたワイヤーのことだった。鉈で叩こうと切れることのないくらい強い耐久性をもったワイヤーだが、万が一の事態が起きた時、それぞれの気球に二人ずつ乗っている子ども達を助けだすのは至難の業だ。
とはいえ、子ども達には、基本的な気球操作の知識を学校で教えているので、降下することくらいなら容易いだろうと思われる。まさか、上空の気流に乗って飛んで行ってしまうようなことは無いだろうと思うが、とにかく何事もなく終わることを祈るしかない。
「そろそろかの」
やがて、それぞれの気球が予定していたポジションへの上昇を完了した。いよいよ最後の合図を出す時がきたのだ。熊爺は名残惜しむように立ち上がると、照明担当の男に向かって大きく右腕を挙げようとする。
しかしその時だった。
唐突に群集がどよめき始め、ただならぬ空気が辺りに立ち込め始める。
熊爺もすぐにその異変を察知して気球の群れの中へと目を凝らした。
「なんじゃあれは……」
「どーだい、俺の作った花火に、みんな一目惚れしちゃったんじゃねーの?」
昇は休み無く花火の筒を取り替えながら、村人達の呆気にとられた様子にご満悦だった。同乗していた春樹も、このときばかりはさすがに彼の花火に関心を持って見物していたようだ。
春樹は、古い資料の中で一度だけ花火についての記述を読んだことがあった。その時はただ火薬の取り扱いについて学ぼうと本をあさっていただけだったのだが、たまたま目に入ったその文献が意外と面白かったことは今でも憶えている。
だから春樹には良くわかっていた。花火を作ることはそう簡単ではない。科学的知識に相当たけている者でなければ、遊び心で花火を作ろうとしたところで火傷を負うだけだ。
しかし、それがどうだ。今、自分の目の前にいるのは、学校をサボりまくっているせいでろくに成績もつけられないような落ちこぼれじゃなかったのか。独学で花火を打ち上げるまでに至るなんて、到底成しえないことだ。
こいつのような人間を、天才というのかもしれない……。
春樹は一瞬、本気で昇のことを信じてみようかと思った。
「よっしゃ、見とけお前ら! この日の為に用意した、この俺の最高傑作を!」
そんな春樹の視線などは気にもかけず、昇は四方に設置した数十本の筒から延びた導火線に手早く火をつけていく。楽しそうにニヤける彼は、まさにステージ上の魔術師のようだった。
「一撃連動式スターマイン、※一斉風火※!」
ほぼ同時に全ての筒の中から飛び出した火の玉は、それぞれに絶妙なタイミングで花開いた。およそ十五秒間、休みなく打ち出される花火はなかなか迫力のあるもので、観客の中には思わず声を上げたり拍手を贈ったりする者もいた。
しかし、昇の感じていた快感は、観客たちの感動とはまた比べられないほどのものであった。この祭りというイベントを、空間を、全て支配しているという高揚感。圧倒的なまでの魔法を手に入れたような充実感。
この日のために腐心して準備を進めてきた努力が実った瞬間だった。
「おい、昇。随分と楽しそうなところ悪いが、これでおしまいってわけじゃないんだろう? 確かにここまでは見事だったが、果たしてここから事態をどう転がしていくのか、じっくり見物させてもらうぞ」
「はいはい。人がせっかく浸ってるっつーのに。そんな無骨な物言いすんなよ。俺だってちゃんとわかってるって」
不満げな昇だったが、彼だってここからのことを忘れていたわけではない。
やがて昇は素早い手つきで荷物の中から一つの筒を取り出すと、躊躇せずにそれに点火した。
「そいじゃ、もう一仕事いこうかねぇ……」
左手から右手へヒョイと持ち替えて、まるで狙撃手のような構えでバスケットから身を乗り出す。狙っているのは、自分の足の下から地上へと伸びる一本のワイヤーだろう。
続けて、ボシュッと音を立てて飛び出した赤い弾。
「火炎弾か」
春樹はその様子を冷静に分析していた。
「なるほど。その熱でワイヤーを断ち切ろうって魂胆だな。だが、あいにくあのワイヤーの強度は鉄のそれに匹敵する。そんなものではせいぜいワイヤーに焦げ目がつくだけだろう。無駄なことだ」
しかし、この忠告にさえも昇は余裕の笑みで切り返すのだった。
「確かにそうだな。だがそれは、ワイヤーの方に何の仕掛けもない場合の話しだ」
「なに……?」
火の弾は昇の狙い通りの位置に向かって真っ直ぐに飛んでいった。そして、ワイヤーに火の弾が接触した瞬間、電線がスパークするようにしてワイヤーは破裂、分断されたのである。
「やりぃ!」
「お前、まさか……!」
「おうよ。ワイヤーの一部に、たっぷりと火薬を仕組んでおいた」
それを聞いた春樹は自分の頭に手を当て、こいつは参ったと息をつく。
「なんて出鱈目なことをしやがるんだ……」
咲花昇という男は、やはり一本ネジが飛んでいる。
―7―
さて。繋ぎとめるものがなくなり、いよいよ昇たちの気球は徐々に上昇を始めたわけだが、そのただならぬ様子を熊爺が見逃すはずがなかった。
彼はすぐ横で呆けている照明担当を突き飛ばして、全てのライトの電源をオンに切り替える。そしてそのまますぐに双眼鏡を覗き込むと、今度は息が止まるほどの驚愕を覚えたのだった。
「これは一体、どういうことじゃ!」
それは、熊爺が最もおそれていた事態。あろうことにも、あの頑丈なワイヤーが一本、途中からプッツリ途切れているではないか。
どうやって切断したのかはわからないが、一番の問題はあの気球に乗っているのが何者かということだ。本来この村に決して入ってくることのない花火を扱っていたところをみるとただ者ではなさそうだが……。
焦りながらも、どうにかバスケットをレンズに収めた熊爺。そしてその双眼鏡がとらえたのは、彼もよく見知っている村一番の問題児の姿だったのである。
「……昇か! あのガキ、最近は不気味なほど大人しくしておると思っていたら、またこんなふざけたマネを!」
熊爺の胸にこみ上げる、激しい怒りと憤り。
例えば、これが他の何者かであれば、状況は全く違うものに感じられただろう。だが、昇が絡んできたことで、この騒ぎが事故によるものでは無く故意的な事件であることが決定的になったのだ。
このままでは、自分が築き上げたはずの祭りが、全てあの餓鬼のいいように利用されかねない。額の血管が浮き出るほど頭に血が上った熊爺は、放送用のマイクを手にとって口から唾が飛ぶ勢いで彼に怒鳴りつけた。
「おい昇! 貴様、今度は一体何のつもりじゃい!」
スピーカーごしに爆発する熊爺の怒りに、村人達は思わず両手で耳をふさいだ。
もちろん、その声は二人のもとへも届いている。
「おい、昇。熊爺がぶち切れてるぞ。いよいよバレたらしいな」
「うっは。おっかねぇ。捕まったら今度こそ殺されそうだ」
昇はあらかじめ鞄に入れておいた懐中電灯を手にすると、地上に向かってモールス信号を送り始めた。熊爺も双眼鏡越しにそれを読み取っていく。
「ザ、マ、ミ、ロ、ク、ソ、ジ、ジ、イ。ア、バ、ヨ」
熊爺の堪忍袋の緒が切れる音が、スピーカーを伝わって村人達にも聞こえたような気がした。
「今すぐ降りてこんかぁ! 降りてこないなら叩き落とすぞ!」
春樹はビリビリと鼓膜が揺れるのを感じて思わず冷や汗を流した。
「昇、お前一体何を……」
しかし昇は春樹の質問には耳を貸さずに熊爺にメッセージを送り続ける。
「やれるもんならやってみろ、と」
一方、熊爺は警備隊のライフルを手に取ると、気球に向かって標準を合わせ始める。黒光りする銃口が、今にも火を吹きだしそうだ。
「こんのクソガキがぁっ! 死んで後悔するでないぞ!」
このままでは本当に引きがねを引きかねないので、周りにいた大人達が決死の覚悟でこれを抑えにかかる。本物の熊のように大柄で剛腕の熊爺を止めるのは、まさに命がけだ。
「村長おぉ! おお、おやめになって下さいぃぃ! 他の気球に当たりでもしたら、それこそ大惨事です! なにより、ここからでは距離がありすぎて弾なんて届きま―――」
「ええい、やかましいわ! 本当に撃つわけがあるか、この馬鹿タレどもが!」
熊爺はライフルを投げ捨てるその動きで周りの男を七人あまり薙ぎ払うと、怒りを抑えられないあまりに頭を抱え込んでその場にひざまずいた。
「くそう、こんなことがあってなるものか! ワシが全身全霊を捧げてここまで築き上げた祭りを、最後の最後であんなクソガキにとられるなど、絶対にあってはならんぞ!」
―8―
そんなドタバタ劇の様子を気球から見ていたシェリーは、先ほどからずっと目を点にしたまま上へ下へと頭をキョロキョロさせていた。
「はわぁ……。どうなってしまうんでしょうか……」
しかしこれを横で笑い声をあげながら見物をしていた夏凛は、シェリーの背中を軽く叩きながら彼女を落ち着かせようとする。
「大丈夫よシェリー。私たちにはなんの関係も無いわ。なるようになるわよ」
完全に傍観者の台詞だった。
「……しっかし昇もやることが派手ねー。まぁ、観客として見てる分には、面白くて一向に構わないんだけど」
「もう、夏凛さんったら。そんなこと言ってると、バチが当たりますよ」
そう。まさにシェリーのおっしゃる通り。
そんなことを話していたから、バチが当たったのかもしれない。
夏凛が腹を抱えながら昇たちの気球に目を向けた時だった。何か赤い物が、夏凛達の気球に向かって落ちてくるのが見えたのである。
「まさか……あれって……!」
夏凛の予想は的中していた。先ほど昇が撃った火炎弾が、燃え尽きることなく跳ね飛ばされてきたのだ。
焦る夏凛はすぐさま目を見開いて火炎弾の軌道を読みとる。これは動体視力が人並み外れた夏凛だからこそできる技だが、どうやら彼女の計算では火炎弾は気球の横わずか数十センチをかすめるようにして落ちていくようであった。
「良かった。直撃の心配はないわ。それにしても危ないわねぇ」
少しヒヤリとしたものの、安心して火炎弾を見送る夏凛。
しかし、火炎弾がバスケットの下方に落ちていったのも束の間、足の下から何やら乾いた破裂音が響いてきた。瞬間、足元がグラリと揺れ、気球はゆっくりと上昇し始める。
「え? え? なんなの?」
夏凛は始め、何が起きているのか理解できずに混乱していた。が、シェリーの指摘を受けて、ようやく全てを把握する。
「か、夏凛さん! 私達の気球のワイヤーが、破裂していますっ!」
「はあ!? 嘘でしょ!?」
叫び声は、夜の星空に虚しく響いて消えていく。
今、この気球と地上を繋ぐものは何も無い。
一方、昇達の気球は順調に高度をあげていた。
ここでようやく、下方の監視を続けていた春樹の目に、一機の気球が上昇を始めたことが確認される。予定に無いはずの気球の動きに警戒を強める春樹。
「昇、何故だか知らんが、気球がもう一機浮かび上がってくるぞ」
「んん? おかしいな。そんな話し、盗み出した企画書には書いてなかったぜ」
「そりゃあ、妙な話だ」
とその時、双眼鏡を覗き込んだ春樹の目に、新たに焼け落ちていくワイヤーが映しだされる。
「おいおい、冗談だろ……」
何が起こったのか大体の予想がついた春樹は、然るべき質問を昇に投げかけた。
「お前、まさか全てのワイヤーに火薬を細工したのか?」
「ん? あぁ、直前までどのワイヤーが俺たちの気球につけられるのかわからなかったからな。とりあえず」
「……じぁあ、お前が撃ったあの火炎弾は、あの後どうなる予定だった?」
「さぁ。わかんねぇなぁ。下に落ちてくんじゃねぇか?」
あまりにあっけらかんと答える昇に、春樹はこの事態の原因が誰にあるのかを理解して頭を抱えた。しかし、巻き込まれたあの気球には気の毒ではあるが、こうなった以上自分たちでどうにかしてもらう他無い。
春樹は再び双眼鏡を覗き込んで、どんな不運な奴らが乗っているのだろうと目を凝らす。そして、双眼鏡に映りこんできた夏凛とシェリーのパニックっぷりに、春樹は心から彼女らに同情した。
「うわ、あいつらかよ……。なんだか、えらく騒いでるようだが大丈夫なのか?」
「うわぁぁん、もう駄目ですぅっ! きっと私たち死んじゃうんですぅっ!」
大丈夫なのかと聞かれれば、それもう全く大丈夫ではなかった。
泣きながらしがみついてくるシェリーに手元を狂わされ、夏凛はバーナーの操作に集中することができない。
「ちょっとシェリー! うまく動かせないじゃない! って、あぁ!」
挙句の果てには、間違えてバーナーの火力を最大にしてしまう始末。
気球はさらにスピードをあげて上昇を始めた。
「いやぁぁ!」
冗談じゃない。このままでは、マジでお陀仏五秒前である。
「シェリー、落ち着いて! そんなにしがみつかれちゃ、うまく操作できない!」
「うぅ……。ごめんなさい……」
夏凛はシェリーから解放されると、すぐにバーナーの火力を最弱まで落とした。
「よし。これでしばらくすれば……」
大丈夫だわ、と一息ついて腰を降ろしたのも束の間。
突如、迫りくる巨大な影が夏凛達の気球へと覆いかぶさる。
「ぶつかるぞぉ!」
「え!? ちょっと! 嘘でしょ!?」
ドーン! と。
言わずもがな、夏凛達の気球に直撃したのは、風に乗って流れてきた昇達の気球だった。思い思いの叫び声をあげながら、四人は二つのバスケットの中で上も下もわからなくなるような強い衝撃を受けて体の自由を奪われる。
一方地上では、村人達が黄色い悲鳴があげたりしながらその様子を見つめていた。「早く助けてやれ」という声が高まる中、熊爺の焦りは募っていく。
まさかこんな事態になるとは、髪の毛の先ほども予想していなかった。もはや、あの四人がこのまま風によって村の外に流されてしまうことは避けられないだろう。だとしたら、今あの子たちにできる最善の支援は何だ?
―9―
気球の上では、何とかバスケットから放り出されずにすんだ四人があまりのスリルに放心状態となっていた。
特にシェリーなどは、陸にあげられた魚のように目と口をぱっくり開いたまま涙を流し続けている。呼吸が止まっていなければよいのだが、既にそれを確認するほどの余裕さえ夏凛には残されていなかった。
四人の中で一番に口がきけるようになったのは、やはり昇だった。彼はニヤニヤしながら立ち上がると、ふらついた足取りのまま馬鹿笑いを始める。
「どうやら、打ち所が悪かったらしいな……」
春樹が気だるそうにつぶやくのも無視して笑い続ける昇。
しかし、彼は別におかしくなってしまったわけではない。やがて昇は一通り笑い終えると、清々しいほどの笑顔で他の三人に声をかけたのだった。
「いやー、面白かったなー! よし、今のドーンってぶつかるやつ、後でもう一回やろうな!」
「「一人でやってろ!」」
夏凛と春樹がほぼ同時に怒鳴りつけると、何故か昇は再び高笑いをはじめた。
「ったく、こっちはちっとも笑えねぇってのに……」
熊爺の声が聞こえたのは、そんなふうにして春樹が溜息をついていた時である。
「聞こえるか、子ども達よ」
四人ははじめ、声の主が熊爺であることに全く気が付かなかった。
いつも決まって大声で相手を畏縮させるような話し方をする熊爺が、こんなに穏やかな口調になることなどこれまでにあったろうか。それだけに、熊爺がこれから何を口にするのか、その場にいた誰もが固唾をのんで見守っていた。
「いいか。おそらくその気球はもう、村に着陸することはできないだろう」
これに対しては、昇もいつになく真剣な表情になって信号を送った。
「モトモトオリルツモリハナイ」
「そうか。お前はいつも『村の外に出たい』と言っておったもんなぁ。しかし、他の連中はどういうつもりなんじゃ? そもそも、そこには誰が乗っておる?」
「ハルキ、カリン、シェリー。サンニンハ、グウゼンマキコマレタダケダ」
「なんと……!」
そこに並んだ名前は、村人の間でも特に話題に事欠かないような子どもばかりだった。しかもその組み合わせときたら、これ以上無いほど異色揃い。
「昇、本当にお前は困った奴じゃな。しかしここで怒鳴っていても仕方があるまい。これから村の外で生き延びる為の最低限の原則を教えておくぞ。憶えておけ」
「アリガタクキイテオク」
「まず、町に着くまでは極力地上に降りてはならん。化物どもは、いつだってお前たちを狙って息を潜めている。もしも襲われるようなことがあったなら、戦おうなどとは思うな。とにかく逃げるのじゃ」
それは、村人なら誰もが教わったことのある外界での緊急マニュアルだった。もちろん、たとえそれを守ったとしても生存率が低いことも彼らは知っている。
「それと、この季節の風はここら辺一体を大きく時計回りで廻っているはずじゃ。町を二、三も回ったら帰ってくるのがいい」
「オレモソノツモリダカラアンシンシテイイ」
しかし、ただそれだけのことが、いかに難しいものか……。
熊爺は静かに目を閉じて呼吸を置くと、もう一度だけ彼らに警告する。
「いいか。これは命賭けの旅になると思え。行方の知れなくなった同胞は少なくない。幸い、今回お前たちの通るコースはもっとも安全と言われているコースになるだろう。だが、だからといって気を抜くでないぞ」
「ワカッタ。イッテクルゼ、クマジイ」
これからの旅の危険を思えば、むしろ彼らの姿が見えなくなるまで警告を続けたいほどだった。しかしこれ以上はもう何も言うまい。後はもう、彼らのことを信じる他にない。
「幸運を祈っておる」
やがて、遠ざかる二つの明かりを静かに見守っていた群衆の中からも、ちらほらと応援の声が飛び始めた。それらはだんだんと大きくなって、最後には大歓声へと変わっていく。
「大した奴らだよ。お祭りのはずが、あっという間に送別会じゃな」
熊爺は煙草を口にくわえて芝生の上にあぐらをかくと、空に浮かぶ二つの明かりをいつまでも見つめていた。
いつか自分が夢見たように、彼らの夢もまた始まろうとしているのだろう。
「……どうか、無事に帰ってきてくれ」
それはまず不可能に近いことだと知っていながらも、熊爺はつぶやかずにはいられない。
その宵、半分の月は夏の夜空に美しく輝き、虫達の声は優しいシンフォニーを絶え間なく奏で続けた。
《第二章へつづく》