K 地獄に入る
カンナギ視点
目を開ける。起き上がる。辺りを見渡す。
黒く染ってしまった大地に胸がツキンと刺したような痛みが走る。喉が震える。目頭が熱くなる。視界がぼやける。瞬きすると頬が濡れる感覚がした。瞬きの後は一瞬視界が晴れて、十字架の形をした石碑を見つけた。それはすぐにぼんやりと輪郭が不明瞭になった。
「……ぁ、っ…………ぅう」
呻きながらよたよたと赤ん坊のように地べたを這い石碑に近づく。体を預けるように、凭れ掛かる。冷たく無機質なそれはとても大事なもの。わたしの後悔。わたしの戒め。わたしの罪。
「う、うう…………」
水が溢れる。言葉が出ない。どうして、わたしはここにいるのだろう。わたしはすべての罪を背負って贖うために自ら死したはずだ。だと言うのに、どうしてわたしはまだ生きているのだろう。
その時、一陣の風が吹いた。風はわたしの髪を打ち靡かせ、顔に付着した水分を吹き飛ばした。
風はわたしの真正面から打ち付けた。目の前に石碑があるというのに。そしてそれは少し温かかった。
不思議に思っていると水が止まった。瞬きを繰り返すと、ある変化に気がついた。
「これ……文字が増えてる」
石碑に手を伸ばし、知らない部分を指でなぞる。
「『大罪人の魂を捧げる時、神は汝に応えよう。』」
声に出して何度も何度も反芻する。大罪人、魂を捧げる、神、応える。
「ぁ、ああ……! わたしに機会を与えてくださったのですね!」
ドクンと大きく心臓が脈打つ。けれどそれは不快ではなかった。自然と口角が上がっていく。笑みをつくるこれはきっと喜びという感情だろう。
ゲヘナに落ちる覚悟をしていた。見捨てられてもおかしくないと思っていた。それほど、わたしの犯した罪は深きものだった。
主の愛は深く広い。けれどその愛は公平であり平等であり等倍である。そこに差異はない。等しく正しく人間という生き物でしか見ていない。だからこそ唯一善しい存在であらせられる。だからこそ人間を裁くことができる。
居住まいを正し、五体投地する。両膝を地面につけて身を屈める。両腕を地面につけて額も地に擦り付けるように下げる。頭上で手を組み目を閉じる。
「主よ、我、罪人を憐れみ給え」
誰よりも頭を低く、誰よりも無様な格好で、誰よりも強く祈る。これが大罪人モノリスとしての区切りである。これが復活と贖罪の機会を授かったわたしの誓いであった。
祈りを終え、立ち上がる。再びぐるりと辺りを見渡す。うーん、何も無い。意気込んだは良いものの、特別これと言った良案はない。そもそもわたしは七人の大罪人を知らない。
「まあ、取り敢えず行動しましょう」
考えていたって仕方ない。ここに居たって仕方ない。行動しなければ何も起こらないし、何も分からない。知らないのなら教えてもらえばいい。だから、まずは知っている人に会いに行こう。
わたしが石碑を運んだ跡が残っていた。確か、聖教会総本山から持ってきたものだ。ならば、この線を辿れば総本山に辿り着けるだろう。それから誰彼から話を聞く。よし。
「ゆるして……いえ、今のわたしはモノリスではありません。――そう、わたしはカンナギです。ただの贖罪者カンナギです」
頭の中に声が響いたような感じがした。多分気のせいだろう。けれどもカンナギという名前はしっくりくる。わたしには命名のセンスがあったみたい。
グッと拳を握りしめて気合いを入れる。わたしは線に沿って歩き始めた。
大地の境界線を超えてさらに歩く。すると街道に突き当たる。右を見る。何も無い。左を見る。建物が見えた。それに向かって歩く。
街に入って教会を探す。 ウロキョロウロキョロ。
………困った。教会の場所が分からない。
「もし……」
「……」
「もし……」
「触るな下種」
「もし……ッ!」
持っている棒で叩かれた。
うーん、場所を聞こうにも誰も相手してくれない。
あ、次はあの人に――
「ダメ!」
横から腕を引かれる。振り向くと街道の土みたいな黄色の髪の少女がわたしの腕を両手で掴んでいた。
「あの人は危ないよ」
「そうですか?」
「うん。こっち来て」
腕を引かれて彼女の後について行く。
「……ねえ。あたしが言うのもなんだけど、知らない人にホイホイ着いていっちゃダメだよ」
「そうですか?」
「そうです! 知らない人は信用しちゃダメ。知らない人に着いていっちゃダメだし、知らない人の話を真に受けちゃダメ」
「分かりました」
「だから……はあ」
少女が溜息をつく。
なんだかお疲れの様子だ。げんなりしているようだから、だいぶ疲労が溜まっているのでしょう。
「きみのせいだよ」
わたしのせいみたい。何かやってしまったみたいですね。うーん、思い返しても特に何もしていないような。
……と、考えている間にまた溜息をついて肩を落とした。なぜ。
「まあ、いいや。教会の場所が知りたいんだよね」
「はい。知っていますか?」
「知ってる知ってる。でもきみには教えないよ」
「どうし……はっ。分かりました。わたしはカンナギと申します」
「……えーっと。一応聞くけど、何が分かってどうして名前を?」
「知らない人は信用できないからです」
「うん、分かってた。分かってたけど……はあ。もういいや。あたしはマーム。悪いけどカンナギ、教会には行かない方がいい」
真剣な表情に思わず背筋を伸ばす。
「今の正教会はとても悪どいことをやっているんだ。神を信仰なんてしちゃいない。あいつらは金に生き、金に溺れてる。聖教会は変わっちまってんだ」
そんな……。聖教会が変わるなんて、想像できない。
「それでも、わたしは教会に行かないと……」
「大罪人を探すために?」
目を見開く。どうして、そのことを……?
「それならあたしが手伝ってやるよ。なんてったって、あたしがカンナギの探してる大罪人だからな」
動揺が隠せない。だって大罪人は男だった――
「神が居なくなってからもう三百年経っているんだ。当時の、カンナギの探している大罪人はもう生きていない。記憶と力だけが脈々と引き継がれている」
三百年……引き継がれ……?
「これがその証だ。記憶にあるすべての人生で必ずこのリングの印が左手にあった」
マームが左手を見せる。そこには二本の線の間を塗りつぶしたような丸があった。
「あたしに引き継がれた記憶と力は絶対カンナギの役に立つ。そう思うと、最初があたしで良かったよ」
「どうして、マームさんはわたしを助けてくれるんですか」
掠れた声で尋ねる。聞かずにはいられなかった。だって、嬉しそうな顔で寂しそうな顔してる。
「もう、うんざりなんだ。金だけを求める声も飢え苦しむ声も。聞きたくない声しか聞こえなくて、誰も信じれなくなった。ずっと、待ってた。ずっと。この地獄から救い出してくれる人を」
手を握られる。マームが優しく微笑む。
「ねえ、カンナギ。あたしは罪人か」
「いえ、いいえ。大罪人の罪は本人だけの罪です。背負うことになってもマームさんの罪にはなりません。あなたと彼は違う」
「そうか……うん。ありがとう」
繋がれた手に自分の手を重ねる。額を合わせる。
不思議と、どうすればできるのかが分かる。
「カンナギ、がんばれ!」
「……はい!」
目を閉じて、意識を集中する。
触れ合う額から熱を感じる。マームと繋がる感覚がする。包み込むようにそれを受け入れる。すると、マームが抱える莫大な記憶と感情が濁流のように流れ込む。
すべてを受け入れ終わるとプツンと繋がりが切れた。
目を開けるとマームは倒れていた。手の力も入ってない。
「マームさん……っ!」
冷たい。死んでる。……そう、だからマームの記憶もあるんだ。
「がんばります、マームさん」
胸の中に居る彼女に誓う。受け取った記憶には知りたい知識が揃っていた。強欲の後継者たちは知識欲が豊富だった。それはこの力によるものも大きかった。
お陰で大まかな道筋を立てる事ができた。
正教会に向かう。中に入ると辺りを見渡して目処をつける。
罪の意識に苦しむ人間に近寄る。罪の記憶だけを引き受けると足取り軽く出ていった。それを見送ると声を掛けられる。
「君、今何を……っ。いや、そうか。――人助けに興味ないか」
正教会の司教。わたしの左手の甲を見留て目を細める。雰囲気が変わった。
これまで強欲の末裔は教会との接触を避けていた。だから、教会側は強欲の『力』がどんなのかを知らない。だから、今見た情報で推測するしかない。そして、誤認識と気づかずに計画を立てる。
末裔の管理、『力』の使い道、嫉妬の末裔に情報共有などを瞬時に算段をつけた。
「人助け……ですか? わたしにできるでしょうか」
「もちろんだ。その『力』は人を救うためにある。そして、教会には君の救いを求める人が多く訪れる。さあ、我々と共に迷える仔羊を救おう」
手を差し出される。手をじっと見て、視線を上げると司教は頷く。
「…………はい!」
その手を掴む。満面の笑みで。
ありがとう。わたしの筋書き通りに動いてくれて。
さあ、ここからだ。わたしはここにいるよ。大人しく待っているよ。だから早く会いに来て、嫉妬の後継者。