ペシマム
「子ができて嬉しく思う。愛しいペシマムに一つ褒美を与えよう。何でも申せ」
言葉はとても愛に満ちているのに、無機質な声のせいでどこか空っぽな印象を受ける。思う、は思っているだけということか。聞いているのではなく聞こえているといった様な意味合いだ。
なんでもという言葉は禁句だが、神にはその限りではない。なぜなら神だからだ。言葉の通りなんでもできてしまうのだ。
意に介さない内容であれば容易く叶えてしまわれるし、嫌なら拒否することだってできる。結局は神の意思に委ねられる。わたしは生まれたばかりの神子であり、ティア様はわたしに力を与えてくださった父である。圧倒的に格が違う。どう足掻いたところで万に一つも敵わない。元より抗うつもりは毛頭ないけど。
「では、このピュシス……世界をわたしにください」
「ふむ」
真意を探るように目を細める。
「確かにこの世界はもう長くはないでしょう。ですが、ここはわたしが生まれた、いわば故郷です。なればこそ、最後の瞬間まで見届けたい」
思考を読み取られることは分かっているけど、敢えて口に出す。まっすぐその瞳と向き合う。
わたしのせいで壊れかけてしまっている世界。崩壊するまでそう遠くはない。だから、これはわたしの最後の贖罪である。生きていることが罪とは良く言ったものだ。罪は贖わなければならない。ペシマムにできることは静観すること。手を加えるだけで崩壊が早まってしまうのだから無干渉を貫かねばならない。
モノリスは人間の罪に対する贖いで生贄の役割を果たす御子として、すべての罪を背負って死んだ。
カンナギは人間の罪を神に変わってゆるし救いを与える巫女として、大罪人の業を背負った。
ペシマムはこの世界で生まれこの世界でつくられた神子として、この世界の行く末を見守ろう。
緊張している。カラカラに乾いた喉に唾を流し込む。
これは賭けである。何でも言っていいという割にはティア様は我を通す。神とはどこまでも自分勝手な御方だ。つまらなければやらないし、面白そうならやる。そこには善も悪もない。非常に自分本位なのだ。神という存在は。
人間でいう法律や規則がなく、獣のように群れる必要もない。理性はあるが本能を優先する。しかしそれは人間に必ず備わっている求生欲ではない。いや、そもそも欲ですらない。
恣意性で任意性。そんな神を止められるのは同じ神しかおらず、それも互角かそれ以上の力を持っていなければならない。けれどもその神も同じく神なのだ。
要するに、よっぽどの事が無ければ干渉しない。最悪の場合は面白そうだと便乗して手を出し、玩具を横取りされたと思われ喧嘩に発展することだ。神同士の喧嘩ほど厄介で迷惑極まりない事柄は存在しない。それが二神間だけで済むということはまずあり得ない。周囲の世界に遍く影響を及ぼし、被害を被った神が参戦し最終的には壊滅的な被害になる。
無関係な世界からしたら溜まったものではないだろう。突然天変地異が起きるのだから。そこに住んでいる人間あるいは動物の大半が死ぬ程度なら安いものだ。世界そのものが消滅しても不思議ではない。
――神とは実に迷惑な存在でしかない
その一神になってしまった。嬉しくない。今でも父を尊敬する気持ちは変わっていない。ただ、人間の時のように盲目的に信仰することが無くなっただけだ。これらも知りたくなかった知識である。
「――良かろう」
ティア様の声に我に返る。どうやら賭けには勝てたみたいだ。内心ホッと安堵の息を吐いてお礼の言葉を――
「この世界のすべてを与えよう」
「……ッ、まっ!?」
ティア様の言葉の意味を理解して、待ったを掛ける。だがその前に、奇なるラッパの響きが天より鳴り渡ってしまった。
「ああ……!」
空を見上げれば分厚い雲の隙間から眩しくも輝かしく幻想的な光が地上に降り注ぐ。それは正しく世界の干渉であった。
「《止まれ》! 《お願い》、《やめて》、《壊さないで》、《奪わないで》、《助けて》ーー!!!」
願いも祈りも届きはしない。目の前にいる神にも、ここには居ない神にも、見ているだけの神にも。
叶わない。敵わない。
父には勝てない。この力はその父から与えられた物だ。紛い者が純正な本物に優るわけがない。背伸びしても逆立ちしても足元にも及ばない。それでも、分かっていても、手を伸ばす。止めるために。自己主張する。
これは誰の意志だ。誰の想いだ。誰の願いだ。
――『がんばれ』
ううん、誰でもいい。誰の人格の影響だろうと構わない。わたしが誰であろうと何になろうとわたしである。
がんばれと言ってくれた。たくさんのありがとうをもらった。だからがんばる。わたしがんばる!
わたしたちがペシマムに祈る。強い感情は力になる。質で劣るのなら量で補う。わたしは元は人間で、人間の集合体だから。不完全だからこそ未知数な力がある。
大きく息を吸って、思いっきり声を――
「無駄な足掻きだ」
「!?」
体が、動かない。声が出せない。指先一つ動かせない。……っ、動か、ないよ……!
動かせない体が浮遊感を感じる。ティア様はわたしを抱え、いつの間にかそこに居た白い馬に乗る。二人を乗せた馬は駆ける。大地ではなく、空を駆ける。
「見よ」
「……ぁ」
放心していると声を掛けられる。条件反射のように声に従ってしまう。顔を上げ、それを視界に映す。
黒い大地にいるはずのない人間の姿があった。立ち入ることができない大地に多くの人間がひしめき合っていた。
景色が次々と移り変わる。白い馬が大陸の上空をぐるりと一周している。
地上には大地を埋め尽くさんばかりの人間で溢れていた。死んだ人間が生き返っているのだ。復活させられている。この世界が創られてから生まれた人間、わたしが回収した人間以外のすべての人間が今、この世界に存在している。
大橋の上に一際目立つ人間がいた。赤色の中に青色があった。その青色はわたしを真っ直ぐ見つめていた。
それに気づいた瞬間、なぜだかとても胸が苦しくなった。言葉が詰まって喉が震える。目頭に熱を感じて、なにかが零れそうになる。
「ああ、好いておったな。ふむ。あれが欲しいか?」
好く? これが誰かを好きになると言う感情だと言うの? こんなに苦しい気持ちになるのが幸せの感覚だと言うの?
――それならいらない。
わたしの身勝手な我が儘に人間を巻き込みたくない。神の悪戯に付き合わせたくない。これ以上、被害者を出したくない。
それにあれは! ……あれは………………あれ?
「だ、れ?」
呆然とするわたしにティア様が愉快そうに喉を鳴らす。記憶……そうだ、記憶を遡って思い出せば……?
――何も、思い出せない。
モノリスの記憶も、カンナギの記憶も、約二千もの記憶も、何一つ思い出せない。過去があるのに、知識はあるのに、人間の記憶だけが無くなっている。
――『均した』
何を? 記憶を。
何で? 神であるため。
何が? 必要がないから。
人間は等しく人間であり、人間という生物でしかない。名前があろうが性格があろうが思考が意思が感情があろうが、人間である根底は覆らない。
必要なのは自我であり、記憶では無い。知識や感性などは残し、価値観や記憶といった不要なものは切り捨てた。
その青から視線を逸らした。ふっと笑われた振動が密着した肌から伝わる。一度強く目を瞑ってから視界を開く。
結局、わたしは見ていることしかできない。導かれるままに行動することしかできない。そして心を痛める。
……なんだ。わたしも神じゃないか。心痛は自分の事だけを考え思い悩むこと。そこには人間も世界も心配する気持ちは無い。わたしが発端になってナニカが無くなるのが嫌なだけで、眼下に存在する世界で生きる人間の事なんて気にも留めてない。
紛い者だと、自分は父のような神とは違うと頭では否定しても、今の根底は神でしかなかった。
死した人間、土より蘇りすべての人間が地上に復活した。これから始まるは世界の崩壊。行く先は天国でもゲヘナでもない。人間は裁かれることなく、滅びる天地と共にペシマムの一部になる。
「滅亡の運命」
ラッパの音が大きくなる。天より彗星が降り注ぐ。幾万もの彗星が世界の終わりを示す。
人間の祈祷が聴こえる。赦しを乞い、救いを望み、恵みを欲し、不幸と嘆く。御前に平伏し偏に希う。
希う先が元凶であるとも知らずに。
落ちた彗星は世界中のあらゆるものを壊し燃やす。星の炎はすべての生物を飲み込み、溶かし合わせる。
創造した十三の事象は真に一つとなりて眼前に浮かぶ。ティア様はそれを掴み、わたしの中に入れた。これでわたしは世界創造の『力』を手に入れた。
こうして一つの世界は終遠を迎えた。新たな神の贄となり、一つの世界は役目を終えた。
ティア様は、わたしの言葉を聞き入れた。額縁通りに受け取った。わたしの思考を読み知った上で、敢えて汲み取らなかった。なぜかって? その方が面白いからだ。
「ごめんなさい」
無の空間に落ちた抑揚のない声は響くことなく音が消える。世界の最後を見届けた神々は姿を消した。