嫉妬の記憶
男は王族として生まれた。
「エンヴィーは未来の王になるのよ。王は最も貴き身分。誰もが王に跪き、誰もが王を褒め称す。国のすべてが王の思うがまま。国のすべてが王の持ち物。それが王であり、それが未来のエンヴィーよ。あなたはこの国で一番偉い存在になるの」
男は国王と王妃の間に生まれた男児だった。けれど彼より前に側妃が国王との間に子を授かっていた。その赤子も彼と同じく男児だった。血筋を尊ぶこの国では王位継承権は次男であっても王妃の子である男に優遇された。
王位継承権の序列は周囲の人物の態度からも如実に現れていた。みなが男を褒め称し、持ち上げ、慇懃を重ねる。反対に長男である兄には罵詈雑言、貶し蔑み、不敬を働く。
賢王と呼ばれた父は他人に厳しく、また己にも厳しかった。しかしそれは政が関連しているからだった。王に私生活と呼べる時間は存在しない。毎日一分一秒すべてが国に関与する重要な事柄であると常に己を律していた。より良い国にする。ひいてはすべての国民の幸福な未来のために。
素晴らしき為政者である父の厳しさは、しかし己の子らには向かなかった。一言でいえば親バカであった。王族と言えどまだ幼き子供だ。政に関わるまでの僅かな時間は好きに遊ばせる。王族として自覚と使命は時が経てば自ずと芽生える。だからこそ無邪気でいられる今の時間を大切にしていた。
父王は王位継承権に関わらず二人の我が子に平等に接した。どちらも同じように甘やかした。正妃は己の息子が王になると信じて疑わず、国王と同じように甘やかした。望む物すべてを与えられて男は幸せだった。
みなが自分に傅き、彼もまた、自分が王になることを信じて疑わなかった。
その浅はかな思い込みが覆されたのは二人の王子が大きくなってからのことだった。
「王に相応しいのはエンヴィーよ! 王妃であるわたくしの息子が次期国王に決まっています」
王族と忠臣が集う会議で王妃の声が響き渡る。母を心配そうに眺める男の耳には周囲の話し声が聞こえていた。
「第一王子殿下はすでに帝王学を履修済みだそうだ」
「正直、第二王子殿下の頭脳ではとても国を任せるには……」
仮面の下に隠された侮辱の数々。声を潜めているようだがしかと男の耳に届いていた。言葉の意味は分からないまでも自分にとっては好ましくないことだけは理解できた。手の平を返す下人どもの薄気味悪い笑みに怒りの感情が芽生えた。
真綿に包むように甘やかされて育てられた男とは違い、兄には多くの家庭教師がつけられていた。勤勉でスポンジのように知識を吸収する兄の評価は目覚ましいもので、従来の風習に意を唱える者が増えてきた。
これに対して国王はやはり二人の王子を同等に扱った。元々王位継承権などという序列は父にとってはただの数字でしかなかった。どちらの王子が王になろうと構わなかった。なぜなら王族は生まれ持っての王たる素質を有していると思っているからだ。
どちらの王子も王たる才能が開花する。先に生まれた第一王子の方がやはり先に才能が開花しただけのこと。第二王子もいつかは才能が開花すると信じて疑わなかった。
政に厳しい父王はすでに決めていた事がある。王太子を決定するタイミングで二人の王が才能を開花させていたのなら序列に従い第二王子を指名していた。片方だけなら王位継承権に限らず才能を開花させていた方を指名する。
そして王太子は第一王子が指名された。
この決定に激怒した母は男に政敵と同じように家庭教師をつけた。即位式まではまだ時間があり、まだ国王になれるチャンスが残っているからだ。王太子は決定したが次期国王はまだ決定していないと諦めなかった。
けれども母の執念と願望とは反対に男は最低の非凡であった。自分たちの常識が全く通用しない人並の知識すら覚えられない頭の悪さ。卓越した知識量の家庭教師ですら理解できない思考回路に遂には匙を投げた。
この頃、男は兄と比較されることが増えていた。事あるごとに「第一王子殿下は」と比べられるのだ。それが彼の癪に障った。これまで甘やかされた男に勉強というのは苦行で、加えて毎度比較されたとあれば堪らなかった。癇癪を起こすのは当然の帰結だった。
「ずるい」
どれだけ努力しても兄には追いつけなかった。というより、男はその努力すらも放棄していた。
けれども母に教えてもらったのだ。自分は王になるのだと。だからこれは間違っていることなんだと、男は思った。
月日は流れ即位式の前夜。自室で歯噛みする男は考えていた。間違いを正す方法を。自分が王になる道を。
兄に追いつくのはどうあがいても無理。このまま行けば明日、兄が王になってしまう。兄さえいなければ自分が王になれたのに。と、ここまで考えて、ハッと閃いた。
――兄がいなければ自分が王になれる
そこからの行動は早かった。男はすぐさま兄の部屋を訪ねた。
母や大人たちの陰険な争いとは別に、二人の王子は仲が良かった。男は兄を遊んでくれる人と思っているし、兄はそんな弟を純粋に可愛がっていた。
彼が兄の部屋を突然訪れるのは奇抜な行動であるが、珍しいことではなかった。だから今回もいつも通り彼は招き入れられた。
「来てくれたのかエンヴィー。待っていろ、すぐに菓子の準備をさせよう」
「ううん、お兄さま。すぐに帰るから大丈夫だよ」
夜な夜な兄の部屋に訪ねた男は笑顔のまま兄を亡き者にした。純粋な悪意で男は親しい兄を殺したのだった。
これで自分は王になれるとほくそ笑んだ。悲しい気持ちはなかった。遊んでくれる人がいなくなるのがちょっと寂しいなぐらいの気持ちだ。それも王になればいくらでも遊んでくれる人ができると思い直してすぐに兄のことは忘れた。
そして翌日、彼の思惑通り王の座は唯一の王子である男の物になった。しかし彼はずっと甘い世界に生きていた。自分が住んでいる国の事も、王の仕事すらも、何一つ理解していなかった。
母が言った通りに自分が王になった。彼の理想はそこで終わりだった。生活は何も変わらないと思っていた。
積み重なる書類の山々。連日に渡る会議。書いてあることも言っていることも何一つ理解することができなかった。それどころかこんな生活に飽き飽きしていた。退屈で楽しくない。それどころかずっと怒られて嫌だった。
悪政に失政。頼みの綱である前国王は病に伏し、兄は死亡。王后となった母は権力を笠に着て悪逆の限りを尽くす。一番の被害者となったのは側妃で城から追放された後、殺された。
無能王と呼ばれた男だが対抗できる人物は残念ながらいなかった。王后や腹黒い貴族たちが彼の盾になっていたからだ。
豊かだった国はたちまち成り立たなくなった。運の悪いことに自然災害が続き、各地に暴徒が蔓延った。その頃には男は政務に我関せず、見目麗しき男性に夢中になっていた。
国が傾く中、勢力を伸ばしたのは教会だった。神を崇め奉り民草に慈悲を与える。国よりも寄り添う教会に世論は傾いた。国で一番偉いはずの王より居もしない神に縋るようになった。それを知った男は激怒した。
「ずるい」
一番偉いのは王である自分でなければならない。そこで男は思い至った。面倒な王より神になった方が楽ではないか、と。頭のいい自分にニヤリと笑みが浮かぶ。兄の時と同様に行動は早かった。
投獄されて処刑間近だった罪人の男三人、ラース、グラトニー、プライドを条件付きで釈放。お気に入りのラストとグリードを連れて教会に殴り込んだ。そこで意思を同じくするスロウスに出会い、神の住処を担当する教会の修道女であるモナリスに神の居場所に案内させた。モナリスを人質に取り、罪人三人に神を殺させた。
嘆き悲しむモナリスを放って男たちは神に手を伸ばす。これで自分は神になったと気分上々な男はスウロスとグリードの提案を話も聞かずに了承した。
それがカソリカ国の崩壊と七つの領地に分かつ内容だったと気づいたのは彼が死んで生まれ変わった時のこと。それと同時に自分が神になれていないことに気づいた。
これが無能王エンヴィーの生涯の物語。