知らない感情
視界が一瞬白に埋まる。白い塊から空が現れ、人の姿へと変わる。明確になった人物を見て、眉を下げる。
「――……エクエスさん」
会いたくて、会いたくなかった人。今この時ばかりは居て欲しくないと望んだ人物がわたし的最悪なタイミングに現れてしまった。
「カンナギ様、どういう状況なのか教えて頂けませんか?」
わたしの首に剣を当てながら彼は苦々しい顔で報告を求める。首に当たる冷ややかな感触。けれどそれは痛くもなければ鋭くもない。面の部分を触れさせているだけなのだから。
「見ての通りです。ここにいるみなさんの動きを止めました。今自由に動くことができるのはわたしとエクエスさんだけです」
「解放してください」
「嫌です」
ニコリと笑って即答する。くしゃりと顔を歪めたエクエスを見たら胸がぎゅっと苦しくなった。なぜ。
どうして喉が詰まるのだろう。
どうして胸が痛むのだろう。
どうして泣きたくなるのだろう。
こうなることは分かっていた。初めて会った時から想定していた。
エクエスはインビティア領の騎士で、レビィを守る人間で、わたしの護衛であると同時に監視役でもある。彼は真面目な人だから職務を優先するのは至極当然のことだ。
だから、心の準備はできていた。確かに居ないことに喜んだけど、居たとしてもやる事は変わらない。仕方のないことだと割り切っていた。邪魔をするなら容赦しないと決めていた。
わたしは今、贖罪のために生きている。罪人に奪われた主の一部を、継承してしまった末裔から回収することが使命であり、それ以外は瑣末事だ。問題にならないぐらい小さくて、重要にはなり得ない、取るに足らない事柄でしかない。
「カンナギ様」
だから、名前を呼ばれたって何ともないんだ。名前を呼ばれたとしか思わない。例え、今この世界で唯一わたしの名前を呼んでくれる人だとしても、気にしない。気にならない……はずなのに。どうしてか、気持ちが揺らいでいる。
「教えてくれませんか。あなたが今から成さろうとしていること。俺は言葉にされないと分かりません」
真摯な表情。真っ直ぐわたしを映す青い瞳。わたしのすべてを受け止めようとしてくれている。板挟みだからこそ、折り合いを見つけようとしている。どちらも捨てれない、捨てたくないから妥協点を探す。
「無理ですよ。無意味です。わたしとレビィとでは相容れません。妥協点など存在しません。わたしもレビィも目的は己の身に七つの『力』を宿すこと。道は二つに一つしかありません」
もう選択肢は決まっているけれど。
今さら誰に何と言われようと決意は覆さない。わたしの意志は、使命は最初から決まっている。わたしは進む道は見失いはしない。迷わないし、惑わされない。
「エクエスさん、わたしが言ったことを覚えていますか? これがわたしの人生で、わたしが選んだ道です。他の道は存在しません。妥協する気もありません。あと一人です。あと一つです。これですべてが終わります」
「終わるのはお前の方だ。さっさとレビィ様の願いを叶えろ! ……っ何をしているエクエス! 早くその女を捕らえろ」
ミレスが口を挟む。周囲の騎士もミレスに同調してエクエスを捲し立てる。レビィは、思考に没頭している。
エクエスは周りの声など聞こえていないかのように、ただ一心にわたしへと意識を集中させている。
「初めからこうなさるおつもりだった、ということですか?」
「はい。エクエスさんと会った時、レビィが会いに来た時、カンナギになった時から決めていました」
「ずっと利用していたのですね」
「お互い様でしょう。レビィの目的は分かっていましたので釣り餌を垂らしたら案の定すぐに掛かってくれました」
「全部偽りだったのですか……!? 星を見上げて喜んでいたのも、涙を流していたのも、……末裔の心に寄り添ったのも、全部」
「誓って、わたしの言葉意思行動に嘘偽りはありません。断言します。彼女たちの心に寄り添ったのも、進むべき道を示し導いたのもわたしの我が儘です。わたしが大罪を犯してしまったが故に全くの無関係な罪を背負うことになってしまった被害者なんです。罪なき被害者に悲観したまま終わって欲しくないというわたしの浅はかな願い。最期の瞬間は、最期だけは……希望に満ちた明るい顔で終わって欲しい。幸せになって欲しいという戯れ言までは言いません。それは高望みであり、わたしが願っていい立場でも、権利もありません」
「我が儘の何がいけませんか。あなたはもっと欲深くなっていい。誰もカンナギ様を悪く言いません」
「誰彼ではなくわたしが許しません。今のわたしだって、わたしにとっては忌むべき存在です」
「そんなことっ! ……そのようにご自分を卑下する言葉はお止め下さい」
「事実でありわたしの意思です。否定されようとも考えを改めるつもりはありません」
「……そういう所だけは強情ですね」
呆れたように呟かれる。けれど、少し嬉しそうにほんの少し口の端が上がっている。なぜ。
分からない。思考は理解できるのに彼の意思が読めない。どうしてこの状況で嬉しそうにしているのだろう。何を感じて嬉しいと喜んでいるのだろう。
エクエスが目を瞑る。迷いを断ち切り、決意を固める。話し合いは終わった。剣は今もわたしに触れている。エクエスであればわたしが命令を下す前に首を刎ねることくらいは可能だろう。
青い瞳が力強い光を宿して開眼する。体は動かさずに内心身構える。多少の傷なら治る。先程みたいに距離を離して動きを止めればわたしの勝ち――
「――カンナギ様、俺はカンナギ様が好きです」
「…………え」
素っ頓狂な声が漏れる。頭の中が真っ白になった。
え、なっ、うえっ!?
なんでなんでなんで??!!
なんで今このタイミングで!!!???
「なっ、何を世迷言を!?」
「ふざけているのか!?」
「顔がいいからって調子の乗るなよ!!」
ミレスを初め、他の騎士も唖然とし、罵詈雑言をエクエスにぶつける。……「イケメン滅びろ!」って悪口なんですか?
ものの見事に一瞬にして場の空気が変わった。なんだか……気が抜ける。いやいや、剣はまだわたしの首に当たっている。油断禁物!
がんばれわたし。がんばれおー。
「一目惚れでした。護衛騎士という立場が煩わしいと思うほどに、あなたのことが好きで愛おしく想っています」
「あ、ありがとうございます?」
「あなたの事が知りたい。これから先もあなたのお傍にいたい」
「それは……叶わぬ願いです。わたしには話すことはありませんし、先の未来もありません」
「カンナギ様!」
「エクエスさんには感謝しています。一緒に居れて楽しかったです。……本当ですよ。名前を呼ばれた時は驚きました。でも、嬉しかったです」
「カンナギ様……」
縋るような眼差し。けれどその願望に沿うことはできない。悲しい。とても悲しいと思う。
「わたしにはすべてを差し置いてでも果たすべき使命があります。立ち塞がるのならエクエスであろうと容赦しません」
互いの立場が違えば別の未来があっただろうか。
仲良く幸せな家庭を築けただろうか。
愛し愛される幸福な日々を送れただろうか。
否。それらはすべて存在しない空想だ。切望しても掴むことのできない妄想。わたしとエクエスは出会った時から交わることのない道を歩いている。近づくことはあっても重なることは決してあり得ない。
「なら……っ、それなら、どうして泣いておられるのですか」
――泣いて……?
自分の顔に触れる。湿った、濡れた感触がする。泣いてる。誰が、わたしが? なぜ。
呆然と目を見開く。目の前にいるエクエスが視界に入っている。自然と彼の顔に意識が向かう。
痛みを耐えるような顔。いや違う。
泣きそうな顔をして、嬉しそうな顔をしてる?
ああ、ダメだ。わたしにはエクエスの感情が分からない。どうしてそんなごちゃごちゃしているのか分からない。
わたしが涙を流している理由も分からないし、本当に困った。こんなの、誰にも教えてもらっていない。
「くだらん茶番はいい加減いしろ! エクエス、早くその女を捕らえろ!!」
ミレスがエクエスに怒鳴り、空気を戻す。他の騎士もミレスに続き口々にエクエスに言葉を吐く。彼らは四肢の自由を縛っただけで他は動かせる。目も頭も心臓も口も動かせる。当時この場にいなかったからエクエスは拘束に干渉せずに動けるに過ぎない。
「……………………申し訳ありませんカンナギ様」
葛藤の末、絞り出した掠れた声。それはエクエスが本来の役目を全うする意志の表れだった。