強欲の記憶
男は居場所がなかった。
家はあった。両親もいた。生活で言えば不便はなかった。けれど彼はいつも孤独を感じていた。
両親はいつも喧嘩をしていた。言い争い、物が投げ交うのは日常茶飯事だった。鳴り響く怒声と何かが割れる音。耳を塞いでも聞こえてくる。自分が居ようが居まいがお構いなし。だからいつも部屋の片隅に蹲っていた。目を閉じて耳を塞いで息を潜めて、心を無にして終わるのをただただじっと待っていた。
いつから不仲になってしまったのだろうと記憶を辿っても彼の記憶には喧嘩をしている姿しか思い出せなかった。結婚しているし、自分が居ることから愛し合っていた時期はあったはずだ。けれどもどれだけ記憶を遡っても仲良いどころか笑っている顔すら思い浮かばなかった。
時間が経てば喧騒は鳴りを潜める。それは気が収まったからではないことを彼は知っている。相手の顔も見たくないと二人ともどこかに行ってしまうのだ。行先は分からない。気にならないと言えば嘘になるけど、だからと言って後を追うという気は起きなかった。だってこの時間だけが彼にとっての平穏だったから。肩の力を抜いて楽に呼吸ができる時間だった。
二人が出て行ってからは家の片付けをする。食器の破片は飛び散り足の踏み場も危うい。命令されてやっているわけではない。自発的な行動だけれど感謝されることもなければ何かを言われたこともない。きっと二人にとっては気にも留めないことなんだろう。それでも彼が掃除をするのは身の危険を案じてのこと。踏めば痛いし怪我をしたくない。そう割り切っているけれど一縷の望みがないとも言い切れなかった。
男は家から出ることは滅多にない。出たことはあるけど用事を済ませてすぐに帰るのが常だった。だってあまりにも違い過ぎるから。自分の世界とかけ離れ過ぎてさらに孤独を思い知らされた。楽しそうに手を繋いで笑い合う。優しい声で名前を呼び、明るい声で会話をする。
それは男にとっては未知の光景で手を伸ばしても決して掴むことのできない関係だった。見てると望んでしまうから、無理だと分かっていても希望を抱いてしまうから、だから蓋をするように家に閉じこもる。何も見ていない。何も聞いていない。そうやって頑丈な壁を築いて心を保つ。そうでなければ言葉にしてしまうから。言ってしまえばさらに悪化するのが目に見えているから。自分だけ耐えればいいと暗示のように呟いて、現状維持で満足していた。どれだけ喧嘩をしても二人の帰る場所はこの家で、それだけが家族という事実を物語っていた。それだけで幸せだと錯覚させた。
彼は健気に耐えた。憤りの矛先が自分に向いた時もあった。両親間で起こるのが常だけれど、片側だけでも気が抜けなかった。子供故か激しい怒りではなく苛立ち程度ではあったがそれでも恐ろしくて身を竦めた。幼い彼にしてみれば程度など関係ないのだから。対象が誰かも関係ない。恐れている感情をぶつけられているという事実が首を絞めるに十分だった。
時間が解決してくれると、それだけを希望に過ごしていたある日、父が家を出ていった。初めはいい気味だと尊大な態度を取っていた母だが日が経つにつれ荒れていく。母は未だに父を愛していたのだ。捨てられたという現実を受け入れたくなくて現実逃避していただけに過ぎなかった。時間と共に現実をまざまざと突きつけられた。失ってから気づく、愛する人の存在。悲嘆した母は行き場のない感情を側に居た息子にぶつけた。
「どうして、何がいけなかったの!? 嫌よ捨てないで! 私を一人にしないでよ」
母は言葉と肉体の暴力を息子に奮った。男は抵抗しなかった。怒ってばかりで決して好感情はないけれど彼にとってはかけがえのない家族だ。母は一人と言うけれど彼にはもう母しかいなかった。だから耐えた。
「ああ、ごめんね。ごめんなさいグリード。私の息子、大好きよ。あなたはどこにも行かないで」
少しの間耐えればこうして愛してくれることを男は知っている。だからこれでいいんだと母に抱きしめながら淡い笑みを浮かべた。ようやく自分を見てくれる。ようやく自分の名前を呼んでくれる。仄暗い歓喜に包まれる。だからこれでいい、はずだった。
「あんたなんか生まなきゃよかった!」
ポロポロと涙の雨が降り注ぐ。悲しい涙の出所は憎悪に歪んだ母の目からだった。首を絞めながら吐かれた言葉に彼の感情は壊れた。か細い息の中でただ一つはっきりしたのは裏切られたという現実だった。
それからの事は覚えていない。いつの間にか男は自宅ではない別の場所にいた。目の前には嘘みたいな笑みを貼り付けた男。自分の周りを強面の男が囲い立たされていた。絶望の淵にいても頭は正常に動作していた。話を聞くにどうやら母には多額の借金があるらしい。自害した母に代わって金を納めろと要求している。金貸しは子供だろうが容赦しなかった。誰であろうが落とし前を付けさせる。理不尽不条理だからどうした。貸した物を返すのが当然で、繋がりがあるのなら一連托生だ。そこに年齢性別は関係ない。
「金は裏切らない」
言われた言葉を繰り返す。それは男の胸にストンと落ちた。鬱々とした心に光が差した心地だった。光を取り戻した男は金貸しに交渉を持ちかける。さらに借金が増えようが彼にとっては知ったことでは無い。そして金貸しもいくら貸そうが結果全額返してもらえればとやかく言うつもりはない。何より、ただの子供が大人でも射竦める状況に平然と交渉を持ち掛けた心意気に少し興味を抱いた。
男の手腕は見事もので舌を巻いた。ただの子供がはした金を何倍にも増やしたのだ。少し時間が掛かったものの多額の借金はきっちり完済した。しかし男はそれで終わりはしなかった。軌道に乗った商売は右肩上がりに売上を伸ばしていった。もちろん正攻法ではない。所謂グレーゾーンをいい具合についていた。決して善ではないけれど罰を受けるような悪どいことはしていない。だからこそ、被害を被った少なくない人数から嫌われた。数々の妨害を受けたし、心ない言葉を投げかけられた。それでも彼は笑って受け流した。どんな言葉も彼にとっては戯言に過ぎなかった。心を動かされることはなかった。
「グリード……やっぱりグリードか。ああ、会いたかった」
そんな折にとある男に出会った。昔家を出ていった父だった。記憶にある姿より幾分老けて薄汚れた父は涙ながらに抱きしめてきた。当事者でありながら、どこか他人事のように静かに眺めた。
「紹介しようグリード。おれの妻だ。……どうだ、もう一度おれと一緒に暮らさないか?」
その言葉に目を細める。妻と紹介された女が微笑みかけるから同じく微笑をつくる。その笑みの下には獰猛な捕食者が鳴りを潜めていた。鍛え上げられた観察眼で状況はすぐに察せれた。身なりからして生活に余裕はない。父が求めているのは生き分かれた息子ではなく巨万の富だということ。向けられるのが愛情ではなく欲情だということ。
理解した上で男は父に従った。家に招かれて一夜過ごした。その晩何度も何度も詫びと感謝を伝えられた。翌朝、仕事に向かったはずの父がすぐに帰宅した。怒り心頭で男に詰めかかった。
「何をした!?」
「突然、なんですか?」
胸ぐらを掴まれて壁に押し当てられてもへらりと笑う。息苦しさも怒気も彼にはなんともなかった。振り上げられた手は男に当たることはなかった。入ってきた警備兵によって父だった人は連行された。
一夜にしてあの男は仕事を失くした。それどころか妻も家も少ない貯金も全てを失ったのだ。父の全てを奪ってやった。
報復するつもりはなかった。家族の情などすでにないし正直に言えば父のことなど頭にもなかった。触れずにいたのに向こうからノコノコやってきた。ならばおもてなしするのが商人として正しい姿だろう。
「金は裏切らない」
やがて国が傾き出した。王の悪政による多くの失職者が現れた。男はその波に乗りさらなる富を築いた。もはや彼にとって金を増やすことは容易いことだった。すでに個人が所有するにはあまりある額に達していた。それでも彼は稼ぐことをやめない。湯水の如く湧き出る金の発生源は誰かの懐。金を稼ぐ度に誰かの生活を奪っていく。それがどうした。男にとって信じれるものは金しかなかった。金は嘘をつかない。金は裏切らない。価値が証明してくれる。
国が混乱の境地ある最中、男は王と対面した。彼にとって王はとても扱い易い人物だった。適当にお立てて物を見せればすぐに金を払う。金銭感覚の乏しい王に多少ふっかけたところで気づくことはない。物の価値はその人によって変わる。ただの石ころでも宝石といえば光り輝く。本質に目を向けず付随価値を好む人間は男にとってはカモでしかなかった。
これは悪徳商人グリードが英雄になる前の物語。