惑わせる女
初日は三人を相手にしたところで仕事は終わった。時間になれば男を起こして大人しく帰らせる。三人目が帰った後、準備をしてくれた少女が終わりだと告げて替えの服を持ってきてくれた。
新たに用意された透けていない服に着替えて、ベッドに腰かけてのんびり過ごす。うとうとと揺蕩んでいるとドアが小さくノックされる。ハッと微睡みから覚めてそそくさとドアを開ける。その先には予想していた通りゲンの姿があった。
「カンナギさんお待たせしました。姉さんの部屋に案内します」
「お願いします」
声量を抑えた声に同じように声を落として応える。聞かぬ知らぬの態度なのは彼なりの気遣いなのだろう。想像しているような事は一切なかったけど、わざわざ訂正する必要も無いので合わせる。
ゲンを信用していないわけではない。けれど人の口にとは立てられないと言うし、そもそも説明をと言われても困る。
それに、ここは敵地も同然だ。誰がどこで聞いているかも分からない。不用意な会話は気をつけるに越したことはない。
コン、コンコンッコン
「入って」
「姉さん、カンナギさんを連れてきたよ」
リズムのあるノックに応えが返ってくる。それを受けてゲンがドアを開ける。
アザミの部屋はわたしが案内された部屋よりも一回りほど広く、絢爛豪華な内装をしている。ベッドは部屋の隅に置かれ、開いたスペースにはカーペットが敷かれ、椅子と机が置いてある。ベッドの端には気怠げに横たわる女性がいた。枕に顔をうずめてうつ伏せになっている。
その女性にゲンが駆け寄る。
「姉さん大丈夫?」
「ゲン……平気よ」
ゲンはベッドの前にしゃがみこんで顔を覗き見る。女性は顔を横にしてゲンを見ると笑んで彼の頬に手を添える。ゲンはその手を大事そうに重ねて顔を寄せる。笑みを零した彼女の眼は彼を慈しむような優しい瞳だった。
ゲンは女性を抱き起して支えるように横に腰かける。わたしは椅子を正面に動かして座る。
「初めましてカンナギさん。私はアザミと言います」
玉を転がすような声が耳に届く。さほど声量が大きいわけでもないのに空気に馴染むようにスっと耳に入る。きれいな声だ。
「初めましてアザミさん。カンナギと申します。ゲンさんから聞いていると思いますが改めて、わたしはアザミさんを助けに来ました」
胸に左手を添える。誘導された視線に手の甲の刻印が映っただろう。不自然にならないぐらいに顎を少し上げる。
アザミは軽く目を見開いて悩ましげな息を零す。憂わしげな表情になりサラリと落ちたスミレのような紫色の髪が顔に影をつくる。僅かな動きだけなのにとても絵になる。男なら血を滾らせ喉を鳴らしただろうか。
女のわたしですら溜息が出るほどアザミは魅惑的な女性だった。豊満な胸は体の動きに合わせて揺れ、手に余る程の大きさでありながら垂れた様子はなくハリがある。だと言うのに腰は細く腹は薄い。太ももはムチッと肉付きがあり、丈が短いのかめくれて顕になっている左太ももには十字架の刻印が刻まれていた。ゲンが言った通りだ。
不意に同僚と話した内容を思い出した。上と下ならどっちがいいか。
わたしは空が良いと即答したけど、それが女性のお胸かお尻かのことだと言われてわたしは首を傾げた。女性の体の好きな部位だと言われてさらに分からなくなった。
それは置いといて、この問いに対して彼は激怒した。どうして二者択一なのかと。そこからは各部位ごとの熱弁が始まった。
そんな彼が最も好きな部位は手らしい。何でも、一番動きがある部位だから機微が表れやすいのだとか。加えて生活する上で最も使う部位だから隠す人がない。
アザミの手を見る。すらりと伸びた手は爪の先まできれいだった。短く整えられた爪の周りにはささくれ一つない。けれど、僅かに見えた手のひらには爪が食い込んだような跡が幾つも残っていた。
「ゲンから話を聞いた時は驚きました。私の運命は最期まで変わることがないのだと思っていました。けれど……正直迷っています」
「どうして? 姉さんはずっと苦しんで、頑張ってきたんだよ! 何を迷うことがあるの?」
「私を助けてしまうと今度は彼女にしわ寄せが向かってしまうでしょう? 誰かの犠牲の上で成り立った幸福なんて、私はいらないわ。カンナギさんもごめんなさい。あなたが苦しむのなら私はこのままでいることを望みます」
「でも……っ」
言葉に詰まったゲンの頭を撫でる。慈しむ眼差しに無償の愛を与えるような甘やかす手付き。アザミがどれだけゲンを愛しているのかが伝わってくる。それは本人であるゲンも感じていることだろう。
自分がどれほど傷ついても他人を慮る優しい心を持つ女性。苦しみながらも見ず知らずの、出会って間もないわたしの心配をする純潔な精神。本当に心苦しいばかりだ。
「アザミさん、それは違います。アザミさんが心配する理由も分かります。けれど、あなたを助けると決めたのはわたしの意志で、すべて覚悟の上です」
「カンナギさん……でも……」
「悪いのはアザミさんではありません。あなたが気に病む必要はありません。……そうは言っても、あなたにとってはそれが難しいことなのでしょうね」
苦笑を零すとアザミは一層憂いに帯びた顔をする。自覚があっても、それが彼女の性分なのでどうすることもできない。それが彼女の美徳であり、今では厄介な部分だ。だからこそ説得するのが難しい。彼女のことを一番に知っているゲンも感づいている。
「姉さん……」
ゲンは一縷の望みをかけてアザミを見上げる。目を伏せて考え込む彼女はとても迷っている。揺れ動く天秤。即決できないのは性格に加え、抱えるものが多くなり過ぎたのも一因しているのかもしれない。アザミは自分の価値を理解している。錘はゲンとわたしだけではない。
「決めるのは今すぐでなくとも構いません。あまり長くは待てないけれど、だからと言って結論を急かすつもりはありません。ただ、わたしはアザミさんに後悔してほしくはありません。今の立場も、今までのことも、これから先のことも、すべてを忘れて、柵を抜きにして、ご自分の心に素直になって、考えてみてください。あなたが成したい事、大切にしたい物、描きたい未来を」
それだけ言って部屋を出た。朝ごはんを頂いて宛がわれている部屋に戻る。
力を使うことは簡単だ。無理矢理奪うことだってできてしまう。けれど、それはしない。したくない。わたしは相手がきちんと納得した形を望んでいる。相手が承諾してくれるまで待ちたい。
たった一つの選択肢を悩ませて選ばせるのは酷なことだろう。これがわたしの我が儘だとは百も承知だ。遠回りで時間の無駄なことだとも。
けれど、選択肢すら与えられてこなかった彼女に一度だけでも選ぶことを知ってほしかった。導かれるだけの人生ほど楽なことはない。言われたことに従順になればいいのだから。人は楽な方へと進みたくなるものだ。言われたからやったと責任転嫁することも、なんでこんなことをと憤慨することもできる。
選択するとは何かを得て、何かを捨てるということ。すべて思い通りに事を運ぶことはできず、場合によってはすべてを失うことだってある。
流されて生きてきたアザミにとって『選択する』はとても辛い行為に当たるだろう。例え結果は同じだとしても、一時の自由はゆるされよう。それぐらいの猶予はあってしかるべきと思った。