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死に至る罪  作者: 猫蓮
怠惰編
31/61

怠惰の記憶

 男は親の顔を知らない。


 自我が芽生えた頃から教会で育てられていた。いわゆる孤児と呼ばれる人種だ。同じく孤児の数人の子供たちと一緒に優しき神父の元で平穏に育てられた。


「スロウス遊ぼー」

「遊んで遊んでー」


 洗濯物を干していた彼の元に子供たちがやってくる。ドーンと後ろから突撃したり、洗濯物を持つ手を引っ張ったりする。男は人気者だった。神父からの信頼も厚く、また子供たちからも慕われていた。忙しない日々ではあったが彼はこの生活が満更でもなかった。


 適齢期になった彼は何とはなしにそのまま教会に入信した。覚えが良い彼はその時すでに聖書の内容を暗記していた。なんせ読み聞かせが聖書しかなかったのだ。毎日聞いていれば嫌でも頭に入った。


 ずっと神父の姿を見てきた。ずっと神父の教えを聞いていた。ずっと神父の在り方を見ていた。

 神父のことが誇らしかった。自分も彼のような立派な司祭になりたいと憧れを抱いていた。


 けれど理想はどこまでいっても理想だった。現実にはなりえないことを突きつけられた。見ているのと実際に行うのとでは全く異なる。知らなかった事が、知りたくなかった事が、浮き彫りになっていった。


 教会には毎日人が訪れる。理由は様々でただ自分の話を聞いて欲しい者、悩みに苦しむ者、神を狂信する者。

 男は誰彼なしに真摯に対応した。寄り添い、あるいは導いた。一人一人に心を砕いた彼はそれらが重荷となって身にのしかかった。


「疲れた」


 大きく息を吐いて木に凭れ掛かって座り込む。教会の庭には大きな木があった。子供たちとよく遊んでいた場所だ。風が吹き抜け、日中は影を作る。楽しい思い出が詰まったそこは彼にとって安らぎの場所だった。


 その子供たちは、もういない。みんな旅立ってしまった。どこに居て何をしているかは知らない。連絡手段はない。だから彼らが教会に訪れる時でしか会うことはできない。

 しかし、教会を出た彼らは一度としてこの地を訪れることはなかった。彼らの話を聞いたこともなかった。


 男の心はすり減っていった。砕いて()がれて減っていく。英気を養うだけでは修復できないほどに小さくなっていた。次第に彼の纏う雰囲気は鬱々と暗くなっていった。笑みを浮かべる余裕もないほどに疲弊していた。

 疲労はさらに彼を苛めた。自尊心を欠如させ、自身を見失わせた。良くない考えが頭の中を占めて離れない。


 そして、ついに彼は限界を迎えた。


「あの、神父さま。少しお時間よろしいですか?」

「どうしたスロウス。なにかあったのか?」


 男は神父に告白した。これ以上教会でやっていける自信がないと、自分の気持ちを赤裸々に吐露した。こんなこと初めてだった。彼は初めて自分で門を叩いた。初めて子羊の側に立った。

 すべてを話し終えた後、彼は高揚感を感じていた。自分のすべてを解放したことで一種の泥酔感に陥っていた。それと同時に彼は期待をしていた。進むべき道を見失ってしまった子羊(自分)が、正しき道に導かれることを心待ちにしていた。


 縋るような視線を目の前の父たる人に向ける。おもむろに開いた口から紡がれる教えを待った。無意識に唾を呑む。


「それは、気の迷いだよ」

「……え」

「疲れからくる思い込みだ。大丈夫。スロウスの働きは私がよく見ているよ。気を病むことはない。さ、今日は早く寝てしまいなさい。睡眠不足は思考の妨げになる。しっかり眠って、明日からこれまで通り精進しなさい。一人でも多くの罪をゆるしましょう。それが天に遣わされた我らの喜びです」


 男の中でナニカが壊れた音がした。気づいたら大木の下に蹲っていた。


 励まして欲しかったのだと思う。慰労の言葉を掛けて欲しかったのだと思う。寄り添って欲しかったのだと思う。

 もう何も分からない。神父に打ち明けて、どうして欲しかったのかすら分かっていなかった。何に悩んで何を思って何が苦しいのか。自分のことすら分からなくなってしまった。


 どうして自分は教会にいるのだろうか。どうして自分はこんな事をしているのだろうか。こんな事をして一体何になるのだろうか。自分の目指していた姿はもっと……もっと?


「はは、は……」


 男は自分の思考に自虐するように笑う。思い返せばこれまでなにかを望んだことがあっただろうか。自分の意思で行動したことがあっただろうか。すべて流されてきた結果だ。

 教会に入ったのだって神父のすすめだ。どうして今の今まで気づかなかったのだろう。


 最初から他人(神父)の望んだスロウスという人物像を演じていただけ。そこに己の意思も感情も存在しない。必要ない。


 渇いた笑い声が口から漏れる。それは空虚な自分にピッタリだと思った。


 それから男は人が変わったように怠けだした。物憂く気に、億劫そうな態度で過ごした。祈りも導きもおざなりになった。


 そんな彼の様子に辛抱できなくなった神父は悪魔に取り憑かれたと嘆いた。神聖な教会において、あってはならぬ事だと避難した。事は大きくなり聖教会から祓魔師(ふつまし)がやってきた。男はエクソシスム――悪魔に取り憑かれた人から悪魔を追い出して正常な状態に戻すこと――を受けた。しかし、それでも男の様子は変わらず、終いには教会から破門された。


 男には何も残らなかった。いや、元に戻ったと言うべきか。居場所も仲間も信じていたものも初めから存在しなかった。すべてを失ったのではなく、持たなかった時に戻っただけだ。

 けれど一つだけ、空っぽな彼の中に存在したものがある。『スロウス』という偶像だ。頭から離れない経験の心的表像。知覚の中にしか存在しない幻影だからこそ、在る。


 何も無い男は唯一在るそれに縋るしかなかった。居場所がないなら作ればいい。仲間がいないなら集めればいい。信じるものは自分の中に在る。

『スロウス』は神から御名を賜った敬虔な信徒だ。ゆるしが欲しいなら与えよう。導きが欲しいのなら啓示しよう。


 男は笑う。自分に付き従う者らを見下し心の中で嘲笑う。男は神など信じていない。男は誰も信じていない。さりとて人を受け入れよう。さあ、祈れ。祈ることは自由だ。


「疲れた」


『スロウス』を演じるのも楽では無い。けれどあの教会にいた頃よりはるかに楽になった。

 祈りはただの言葉でしかない。誰に捧げようと同じこと。ならば人は存在するものに縋る生き物だ。目に見える方に近くに居る方に流れていく。


 これは詐欺師スロウスが英雄になる前の物語。

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