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死に至る罪  作者: 猫蓮
怠惰編
26/61

己を律する

 お腹の音が大きく鳴り響く。……うん。起きて早々羞恥に襲われるとはこはいかに。

 空腹は恥です。空腹は一日の糧となる必要な食物をお与え下さらなかったことの証です。それは主から祝福と健康をお与え下さらなかったのと同意。つまり、見放されたということ。それはいけない。


 前回と同じく今回も眠っていたのが一日だと仮定すると三日、下手したら四日は何も口にしていない。いかに劣悪な環境(教会の地下)でも体調を崩さなかった丈夫な体だとしても、さすがに何日も飲まず食わずはよろしくない。

 食は生活の基本だ。主がお恵み下さる慈しみであり、心と体を支える糧となる祝福だ。とにもかくにもお腹がすいた。ああほら、またお腹が鳴ってしまった。取り急ぎ何らかを口にしなければ。


 深く息を吐いて、上体を起こす。まだ痛みが残ってはいるがだいぶ良くなった。凄まじい回復力だ。これなら一人で動くのも可能だ。

 そこへ足音が聞こえてきた。音がする方、テントの出入口に顔を向けると布が揺れる。


「っ、巫女様もう起き上がられて大丈夫なのですか!?」


 テントの中に顔を見せたエクエスが目を見開いてわたしの元に駆け寄る。お腹の音に気づいてなのか、様子を見にきただけなのか。できれば後者であることを切に願う。本当に。音はそこまで大きくなかった……はずだ。けれど確たる自信がないのもまた事実。そして前者であればとても恥ずかしいので聞くに聞けない。

 うーん、テントの中からでも外の声が聞こえてくるからそこまで遮音性は期待できない。考えてたらまたお腹が鳴った。うわー!


「……はい、だいぶ痛みは引いています。それよりエクエスさん。何か食べ物はありませんか? その、お腹がすいてしまって……」

「すぐにご用意致します」


 穴が開くのではないかと思うほどじーっと観察してくる。うう、無理をしていないか注意深く確認しているだけだと分かっているけど、できれば今は凝視しないでほしい。なんせ羞恥心で顔が赤くなっている自覚があるからね。自然と彼から視線を逸らしてしまいました。


 エクエスはテントを出て、すぐに戻ってきた。美味しそうな匂いが鼻腔を擽る。はうっ、またお腹ががが!

 これ以上恥の上塗りは避けたい。大至急、一刻も早く、迅速にお腹を満たさねば。


 エクエスは寝具の前に置いてある椅子に腰を下ろし、膝の上に盆を乗せる。受け取ろうと伸ばした手は無視された。なぜ。


「エクエスさん?」


 湯気立つスープが入った椀を持ってスプーンで掬うと息を吹きかけ熱を逃がす。これは……わたしの食事だと思っていたけど、まさかエクエスの分だったのだろうか。そうだとしてもお腹をすかせたわたしの前で食べるとはなんたる拷問ですか。ええ、効果は覿面です!

 そんなに嫌われてしまったのだろうか……と密かに悲しんでいると口の前に温度を感じる。目を瞬かせてエクエスを見る。


「……あの?」

「どうぞお召し上がりください」


 口の前にスープを掬ったスプーンを差し出される。とても美味しそうだ。気を抜くとお腹が鳴ってしまいそうなので今はお腹に力を入れている。効果は今のとこありそうである。現に彼が椅子に座ってからはまだお腹は鳴っていない。


「わたし、自分で食べれます」

「ご遠慮なさらず。さあ、お口をお開けください」


 話を聞いてくれない。エクエスは真っ直ぐ真摯な眼差しを向けている。そして有無を言わせぬ気迫があった。

 うーん、痛みはマシになったし起き上がれるほど動かせるので看病の必要はないのだけど。しかしそれを言ったところで先程のように聞いてはもらえないだろう。


 背に腹は代えられない。というよりそろそろ空腹で限界なのだ。羞恥に耐えるように目を瞑って口を開ける。開いた口の隙間を縫うようにスプーンを滑り込ませて食べさせられた。


 美味しい。とても美味しい。誰かが言った、空腹は最上の調味料。いやまあレビィと会ってからはずっと美味しいご飯を頂いているわけですけども。

 空っぽの胃に温かいスープが沁みる。香辛料が少ない素朴な味が今はとてもありがたい。


 しかし、何故だろうか。ナニカに負けた気分を感じる。……気迫?

 ここは一つ物申させてもらおうと口を開くと二口目を放り込まれた。美味しい~。

 エクエスの表情は変わらない。静かにわたしを見つめて次々とご飯を口に運ばせる。抵抗というか、反論の一切を封じられている。奪い取ろうにも騎士である彼の方に軍配が上がるし、何より取り落としてしまったら立ち直れる気がしない。


 結局、最後まで彼の手ずから食べさせてもらった。とても美味しかったです。

 途中から諦めて大人しく食べさせられていました。わたしの羞恥心は早々に仕事を放棄した。あ、今更戻って来るんですか。そうですか。


 しかし、これまで看病をする側でしたので知りませんでしたがされる側はこうも恥ずかしい気持ちになるのですね。それは、悪いことをしてしまいました。だからみなさんお顔が赤くなっておられたのですね。あの時は熱が上がったと思ってさらに手を尽くしていましたが間違いだったのでしょうか。要らぬ世話を焼いてさらに羞恥を煽っていたのなら申し訳ないです。


「ありがとうございます」


 何はともあれ看病してもらったことのお礼する。半ば強引だったとしても親切にしてもらって悪態をつくのも感謝しないのも違う。欠礼は誰も得しません。


「今回も眠っていたのは一日ですか?」

「はい。もうすぐ夜になります」


 そう言ったエクエスの表情が硬い。彼は人喰い狼の正体がベルだということを知っている。そして力の暴走により起こったことだと思っている。だから彼女のようにわたしも暴走してしまわないか警戒している。

 たが、それは違う。暴食の力は単なる身体機能の向上に過ぎない。例えば五感が鋭くなったり、自然治癒力が高まったりと言ったもの。


 ベルが人を襲ったのは単に空腹を満たすためだ。何も人肉でなければいけないという制約はない。ただ、環境が悪かった。それだけだ。

 一人しかいない牧場では彼女の生活に口出しする者はいない。無理矢理にでも日中何かを口にしていれば夜の行動は起きなかったはずだ。

 あの日まで牧畜に被害がなかったのはこれまた無意識下で自制していたからだ。羊飼いとしての秩序と言おうか。それが来客という僅かな動揺で制止しきれなかった。悲しい負の連鎖だ。


 わたしを襲ったのはまあ、成り行きというものだ。あそこでわたしが出て行かなければ死闘を繰り広げることはなかった。しかしそうするとベルは罪の意識が芽生えなかったかもなのでどちらが正しいかったのかは判断できない。まあ今になって考えても後の祭りですので意味はありません。


「ご心配には及びません。わたしは狼さんにはなりません。ロギスモイの悪魔どもに屈しません。わたしの目指すところはアパテイアと愛ですから」


 胸を張って言い切るわたしにエクエスは困惑する。

 あれ? 思ってた反応と違う。彼の頭に疑問符が浮かび上がってる。

 ……そうか、彼は信仰者ではないので知識が無いのか。


 聖人の心得『ロギスモイと戦い、克服し、アパテイアと愛を授けよ』。

 ロギスモイとは魂が将来持っている思考や感情を傾向させようとする誘惑のことを指す。平たく言えば生活する上で必要ではない欲を掻き立たせることだ。例えば過度な飲食。例えば手心を加える。例えば無気力感。

 身の内から囁く悪魔どもの声は主から与えられた試練だ。試練を乗り越えた者には主のように何事にも動じぬ心とすべてを愛する深い心を授かれる。


 わたしはまだまだ修行中の身ですから聖人に至れていません。うう、先は遠い。一筋縄ではいかないことは百も承知ですがやはり悪魔どもは手強い。特に今のわたしは八ある悪魔の四番目、怒りに弱い。


「つまりですね、わたしは欲という誘惑を克服して不動の心を身につけようとしています。……あ、信じていませんね? いいですかエクエスさん。欲と言うのは誰しもが生まれながらにして有しているものです。分かりやすいので言えば求生欲でしょうか。これは本能的な欲求とも言われています。呼吸すること、飲食すること、排便すること、睡眠を取ること、体温を保つこと、子孫を残すこと、危機から逃げること、あるいは生きるために戦うことが主ですかね」


 そう言えば生存欲の中に祈り欲という欲求があるらしいです。困難な状況に陥った時に誰彼に助けを求めて縋ってしまう感情のことを指すみたいです。その対象は主に神であり、例え信仰者でなくとも祈りを唱えてしまうみたいです。

 わたしが普段行っている主の祈りとは異なる類の祈りですが似たようなものでもあるだそうです。ややこしいですね。全くです。


「さて、狼さんの貪食を例にすると、これは単なる暴飲暴食への誘惑ではありません。人にはそれぞれ適した食事量というのが決まっていますし、年齢や生活によって変動するものです。一般的な基準で考えてしまうとよく食べる大食の方はみな暴食なる者になってしまいます。貪食とは己の健康を心配して禁欲、制限している方に手心を加えようとする誘惑のことを言います。エクエスさんは思い当たる節はありませんか? お腹いっぱいだけどあと一口、夕食前だけど少しなら、と手を伸ばしてしまうこと」

「……ああ」

「少し我慢すれば耐えることのできる誘惑です。食欲を抑えるなということではなく適量を保ちましょうと、それだけのことです」


 それでも意志の弱い人にとっては揺れ動いてしまう悪魔の囁き。身近な幸福に気づき、ささいな幸せに満足すれば欲に囚われることはない。けれどそれがなかなか難しい。だからこそ試練たりえるのだけど。


 安心させるようにエクエスに微笑む。彼は逡巡した後、ひとまず納得したように頷いた。ふう、人に教えるのは難しいですね。先生の偉大さを身に染みて感じました。その先生の座右の銘は考えるな感じろ、でしたが。

 感覚感性は人によって異なるのだから理屈だけ言っても理解はできない、でしたっけ。今はこうして他人の記憶と感情を知ったことでその言葉の意味を理解できた気がします。

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