暴食の記憶
男は片親だった。
森に囲まれた僻地な場所に建てられた老朽した小屋で育てられた。母は痩せ細っており、男もまた十分な食事を得られなかった。
「ごめんねグラトニー。お腹いっぱいにさせて上げれなくて、こんなお母さんでごめんね」
「ううん、おなかいっぱいだよ。かあさん」
男の食事はもっぱら森で取れた果実だった。当然、それだけではお腹は膨れない。食べ盛りな男児に必要な食事量と栄養の一割にも満たないたった数粒だけ。それも自分で探して見つけなければ食べれなかった。
男は常にお腹を空かせていた。あるいはその状態が普通であった。けれども男は一度として「お腹空いた」とは言わなかった。時には川の水を飲むことで空腹を誤魔化して過ごした。
当然、そんな食生活では体は成長しない。年齢よりもはるかに小さいのは言わずもがなである。肉なんて付くわけがない。骨と皮だけの体。それは彼の母とて同じことだった。
ある日のことだった。母が倒れた。家に帰った男はいつも聞こえる母の挨拶が聞こえてこず、床に倒れている姿を目にした。慌てて駆け寄り、呼び掛ける。
体を揺すり、母を呼ぶ。しかし母は目を開かなかった。口を開かなかった。体を動かさなかった。
温かかった母の体は冷たくなっていた。男の目から涙が流れる。母の身に何が起きているのかは分からなかった。知識のない彼は母の死すら分からなかった。ただ一つ分かることは母が眠ってしまったということだけ。どうして目から水が出ているのかも分かっていなかった。
母を呼びながらずっと涙を流し続けた。夜になって朝が来てまた夜が訪れても、男はずっと母を呼び続けた。やがて糸が切れた人形のように母の隣に倒れた。
目を覚ました後、男はずっと母にくっついた。温めればまた目を開けると思って一時も離れることをしなかった。母に抱きついて、冷たい体を抱きしめて、一日を過ごした。
その間は何も口に入れてない。飲食を忘れて母を呼び、気絶するように眠る。それの繰り返し。けれど不思議と空腹は感じなかった。
声は掠れ、喉に張り付いた感覚がした。言葉という音が出なくなる。次第に目が開いてる時間が減っていった。時間の感覚はとっくに無くなっていた。
意識が朦朧とする中、音が聞こえた。玄関が開く音と自分の声でも母の声でもない低い声たち。それを最後に男は意識を手放した。
それから、男の生活は一変した。
男の元に父と名乗る男性が現れた。彼は男に何でも与えた。大量の食事を、温かい衣服を、豪華なアクセサリーを、小屋より丈夫で広い部屋を。これまでの罪滅ぼしのように何不自由ない暮らしを送らせた。
「お腹すいた」
母といた時と比べれば、はるかに豊かな暮らしになった。けれど男が満たされることはなかった。どれだけ食べてもお腹は満たされなかった。母と離れてから、あるいは母が倒れてから大事なナニカを感じなくなった。
父は確かに男に不自由ない暮らしを与えた。けれど、一つだけ与えることは出来なかった。愛情という名の、形のないモノだけは与えることができなかった。
男は私生児だった。父は貴族で母は平民の出だった。使用人でありながら身篭った母は追い出されたように父から逃げた。帰る場所もお金もなかった母は森でひっそりと暮らした。
父は母を探し続け、ようやく見つけたときには既に息絶えていた。父は母を愛していた。平民であり自分の前から逃げた彼女を探すほど、母を愛していた。しかし、母を愛しているからと言って、自分と彼女の子供だとして、子供まで愛しているか、愛せるかはまた別の話だ。
父は子供のせいで母が死んだと思い込んだ。受け入れたくない現実から目を背けた彼は、己の不幸を他人のせいにすることで脆弱な心を守った。それでも、愛した女性との繋がりは憎き子供しかなかった。彼女の面影が残った子供を放っておくことも、鬱憤を晴らす道具にすることもできなかった。
父は引き取りはしたが受け入れることができなかった。父と言った男性と顔を合わせたのは最初の一度だけで、それ以降は姿を見ることはなかった。
大きくなった男は美男子に成長した。平民にしては美しかった母と貴族としての美貌がある父を親にし、加えて母似だったからかそこらの貴族とは少し気色の違う容姿端麗。
私生児だと知られても顔がいい彼はとにかく女性人気があった。女から誘われることは多々あり、彼はそれらを拒まなかった。食べて、飲んで、まぐわい、眠る。廃れた生活を送っていた彼だがその目に生気はなかった。何をしても彼が満たされることはなかったからだ。
男は常に空腹を感じていた。母を喪った空虚な心には何者も留まらない。男は母からの無償の愛で生きていたと言っても過言では無い。愛情で満たされ幸せだった。けれど今、彼に本物の愛を捧げる存在はどこにもいなかった。
男は夢を見た。母との幸せな日々の記憶。満たされていた幼き頃の情景。身を寄せ合って座り、顔を合わせて笑い合う。
何もなかった。美味しい食事も立派な服も娯楽もない。けれどそこには母がいた。愛してやまない亡き母がいた。手を伸ばしてももう触れることはできない。
母がたまに出してくれた赤いジュースが好きだった。思い出したら喉が渇きを訴える。あれはなんのジュースだっただろう。赤い色のジュースを手当り次第に取り寄せたけれど、どれも違った。そもそも母はどうやってジュースを用意できたのだろうか。無一文で森から出ることを嫌った母。だんだんと疲弊していった母は家から出ることもできなくなっていた。それなのに、あのジュースを自分に振舞ってくれた。
喉を鳴らすとあのジュースと同じ味がした。目を見開いた男は無我夢中でそれを飲んだ。喉が潤っていく。空腹が満たされていくのを感じた。
満足して法悦とした息を漏らした男はふとそれに視線を向ける。手に持っていたのは女の体だった。驚いた顔で白目を剥いて動かなくなっていた。母と同じ冷たい体。一つ違うのは首元を赤く染めていたこと。惹かれるようにそれを舐める。ほんのり温かくて美味しい。長年の疑問だった赤いジュースの正体が判明した。
「美味しい、ねぇ……もっと、もっとちょうだい。お腹が、とてもすいてるんだ」
男の言葉に反応したかのようにお腹が鳴る。大きな音を立てて空腹を主張する。彼は見目が良かった。何もせずとも彼の周りに侍る女は後を立たなかった。男は彼女たちを貪った。新鮮なジュースによって空腹が満たされたのは一時的だった。すぐに空腹が彼を襲う。
「お腹すいた」
もっと欲しい。ずっと満たされていたい。彼の欲は繰り返される度に強くなった。ギラついた目で舌なめずりする。味を占めた獣の行動は一つしかない。知ってしまってはもう知らなかった頃に戻ることは叶わない。男は空腹の満たし方を知ってしまった。
これは吸血鬼グラトニーが英雄になる前の物語。