雨の夜
グラ領は最も広大な面積を誇る領地であり、その殆どが農地という穀倉地帯だ。山間の道を抜けると一面小麦畑が広がっていた。遮る物が一つもない、見渡す限り麦、麦、麦。窓にへばりつき、壮大な風景に目を奪われた。暫くは開いた口が塞がらなかった。どこまでも畑が続いているみたいだった。
今日はイラ領に最も近い村に滞在させてもらい、明日中心部に向かう。領地が広すぎて端から端まで馬で駆けても一日では辿りつけないほど距離があるらしい。どれほど広いのか想像もつかない。
「どうして……」
村に到着したころには日が沈みかけていた。夕食の前に軽く散策させてもらった。馬車の中からでは物足りない。
夕焼けに照らされた小麦が輝いているように見える。とても美しい景色だった。アバリティア領では、いや、ここ以外では見ることも叶わない風景だ。さぞ夜景は素晴らしいことだろうと期待が高まる。何を隠そうわたしは星空が好きだ。
「どうして、雨が降って……!?」
楽しみにしていた。だというのに日が暮れてからだんだん雲行きが怪しくなった。嫌な予感は当たるらしく、夕食を頂いている途中で雨が振り始めた。通り雨だろうと言っていた店主の言葉とは裏腹に、雨足はどんどん強まっていった。
「落ち込んでいるようだけど、大丈夫かい?」
気分は落ち沈み、恨みがましく窓を睨んでいると背後から声を掛けられた。泊めてもらっている宿屋の店主だ。
「心配していただきありがとうございます。わたしは夜空を見るのが好きで、グラ領に入ってからは夜が待ち遠しく思っていたのですが……」
「ああ、それは残念だったねぇ。そうかい、夜空をねぇ」
切り替えないとと思ってはいるものの、どうにもすぐには立ち直れない。期待していた分ことさらダメージが大きいのだ。
しかし天気を悪く言うのは筋違いだ。天候を左右するのは無理難題だし雨だって天の恵みだ。頭では理解しているけれど、気持ちはそう簡単に割り切ることはできない。
いやいや今日はまだ一日目だ。まだ機会はあると思い直すことにした。ここは辞して部屋の中で一人落ち込もう。身勝手な私心で迷惑をおかけするのは忍びない。
口を開こうとして、苦虫を噛み潰したような表情をしている店主の様子が気になった。逡巡して、別の言葉を口にする。
「夜がお嫌いですか?」
「好き嫌いじゃないさ。ただまあ、馴染みはないねぇ。見ての通りここは畑が多いから自ずと農業一筋になるんだよ。朝が早いから寝る時間も早い。宿屋なんてやってるけどこっちは副業みたいなもんだからねぇ。何とか起きてるけど、もう結構限界なのさ」
「引き留めてしまって申し訳ありません」
「こっちから話し掛けたんだ、あんたさんのせいじゃないよ。老婆心から一つ忠告しておくよ。グラ領にいる間は夜に外を出歩かないことだ。人喰い狼に襲われちまうからね」
「ひとくい、おおかみ……」
グラ領の迷信だろうか。けれど、それにしては店主の恐怖心が強く見られる。そういえば宿に着いて一番に夜間の出入りは禁止だと説明された。散策に出る前も夜の間は玄関口の錠をかけるから暗くなる前に帰ってくるようにと言われた。過剰なほどの徹底ぶりはその人喰い狼を恐れてのことだろう。
「分かりました。ご忠告痛み入ります」
素直に頷けば店主は安堵したような笑みを浮かべた。
翌日、昨日の雨が嘘のように快晴だった。けれど大雨の影響で地面は泥濘している。出発したのもつかの間、馬車の車輪が嵌って動けなくなってしまい立ち往生を余儀なくされた。馬車で進むには完全に地面が乾かないと無理だそうだ。
「わたくしたちだけ馬に乗って先に中心部に向かいます。他の者は通行が可能になり次第、後続することにします」
先を急ぎたいレビィが提案する。賛同したい気持ちは山々ではあるが一つ問題があった。申し訳なく思いながらもそろそろと手を上げる。
「あの、レビィ。わたし馬に乗ったことがありません」
「エクエスと相乗りなので問題ありません」
「あ、なるほど。よろしくお願いしますエクエスさん」
問題はすぐに解決した。レビィも同様にミレスと相乗りするそうだ。
馬に乗るのは初めてだからちょっと楽しみだった。エクエスが先に乗り、手を借りて彼の前に横向きで座る。
おお、いつもより目線の高さが違う。目を開いて見渡しているとエクエスに体を寄せられた。わたしの肩が彼の胸にくっつく。さらに腰に手を回される。
はわわ、近いです。ピッタリくっついてます。胸がドキドキ高鳴っています。安定感があってとても良いのですが心の音はとても悪いです。彼の温もりが伝わってきて胸がポカポカします。うーん、落ち着かないけど落ち着くとは変な感じですね。
「巫女様、大丈夫ですか?」
エクエスの気遣う声が頭上から落ちる。けれど答えない。答えることができなかった。エクエスの服を強く掴んで頭を押し付ける。今のわたしに声を出す余裕はない。顔を上げる余裕もなかった。目的地に着くまで止まることのない馬走。ただひたすら耐えるしかなかった。
初めは良かった。常歩の時は景色を見る余裕があった。その時分はまだ楽しかった。それが速歩になって雲行きが怪しくなった。冷や汗が流れて危機感を覚えた。そして駈歩になった途端、ダメだった。速い、揺れる、怖い。景色なんて見てる余裕はない。
恥も外聞も捨ててエクエスにしがみついた。何か言われているけど知らない。誰ですか楽しみだとか呑気な事言っていた人は。わたしです!
エクエスが落とすようなことはしないと分かっている。そこはちゃんと信用している。けれど、それとこれとは話が別だ。ただただこの時間が一秒でも早く終わることだけを望んで耐えた。
「やっと……着いた……」
何もしていないのに疲労感が強い。馬から降ろしてもらった瞬間、ぺたりと地面に座り込んだ。
「へ……あ、あれ?」
「巫女様、失礼します」
「うひゃい!」
手で地面を押して、足に力を入れても立てないでいるわたしをエクエスが抱え上げた。くるっと視界が回ったと思ったら浮遊感を感じた。思わず抱き着いた先はもちろんエクエスで、彼の首に手を回しておりました。
現在エクエスに横抱きされています。周囲から黄色い声が上がっています。冷やかされています。とーっても多くの視線を感じます。
恥ずかしくて、顔を上げれなくて、赤くなっているであろう顔を隠す。結果、さらにエクエスに密着することになって周囲が一層騒がしくなった。降ろして欲しいけれどそれはそれで恥を晒すだけなので甘んじて受け止めましょう。ちょっと涙出てきた。
密着しているせいで彼の鼓動が聞こえる。平常。うん、わたしみたいにどっくんどっくん言っていない。スマートだったし慣れているのかな。騎士の仕事は分からないけどこういうことだって無きにしも非ずなのでしょう。ああ、規則正しい鼓動と温もりに落ち着いてきた。……わたしの激しい心音は聞こえてないと思おう。うんそれがいい。
エクエスは近くにあった椅子まで運び、丁寧に座らせてくれた。
「体に力を入れていた反動で今は力が入らなくなってしまっているのでしょう。少し休めば治りますのでご安心ください」
「あ、はい。ご迷惑お掛けします」
エクエスは馬を預けてくる言って一旦離れた。ここはイラ領のように治安が悪くないから少しの間なら離れても問題ないと判断したようだ。だから他に騎士を連れてこなかったというのもある。不甲斐なくて申し訳なく思う。
「わたくしは先に宿を取りに向かいます。日暮れ時にあちらの噴水で集合に致しましょう」
「分かりました。動けるようになったら末裔の方を探してみます」
レビィはわたしと違ってピンピンしていた。同じようにミレスと相乗りしていたけどやっぱり貴い身分だから慣れてるのだろうか。
一人になって胸に手を当てて深呼吸する。色んな意味でドキドキの連続だった。疲れた。とても疲れた。何もやってないのに疲れた。うーん、やっぱり体力がないからこんなに疲れるのだろうか。筋肉、つけた方がいいのかな?
二人が立ち去って、考え事をしていたらエクエスが戻ってきた。近くの露店で買った飲み物を手渡してくれた。フルーツジュース。冷たくて甘くて美味しい!
「とても美味しいです。エクエスさんも飲みますか?」
疲れているだろうし喉も乾いているだろうと思って勧める。一つしか持ってなかったので飲みかけだけどそこは我慢してほしい。そう思って提案したら胡乱な目を向けてきた。しまった、人が口を付けたものは無理な人か。謝ると少し間を置いて溜息をついてから断られた。なぜ。