業を背負う
長い夢を見ていた。実際は夢ではなく過去の記憶だけどね。憤怒の英雄と、後継者たちの生涯の記憶。
強欲の感情と憤怒の感情がぶつかり合う。胸が張り裂けそうな痛みに襲われる。苦しくて息ができない。水の中に沈められているみたいだ。外傷はないはずなのに全身が軋むような痛みを感じる。息が詰まる。足掻いて抗って空気を求める。痛みに震える体を叱咤して手を組む。
「主よ、われ、ざい……にんを、憐れ、み、給え……」
途切れ途切れになりながらも祈りの言葉を紡ぐ。掠れた声で、それでも何度も何度もその一文を繰り返し紡ぐ。次第に苦しみが薄れて、呼吸が安定していく。体の震えも荒ぶる感情の渦も収まっていく。
正常に戻った頃、パサリと布が擦れる音が聞こえた。
「……お目覚めですか、巫女様」
「……ぁ、ぃ」
音の方に顔を倒して目を開けるとエクエスの姿が見えた。テントの中に入る彼と目が合って声を掛けられた。その手には桶を抱えていた。
エクエスはわたしの前に座ると、真横に持っていた桶を置いた。いつもより硬い声音だ。滲んでぼやけている視界では彼がどんな表情をしているのか分からない。
からっからに乾いた喉を酷使したからか、空気のような音が口から漏れ出た。
「起こしますのでお体に触れるのをお許しください」
一言断りを入れてから背中に手を差し込まれた。丁寧に介助してもらって上体を起こす。背中を支えてもらいながら水を手渡される。冷えた水が喉を通る。すーっと体に浸透して気持ちいい。一気に飲み干してホウッと息が零れた。少し垂れて零れてしまったのは気にしないでおこう。うん。
「あ、あー。コホン。ありがとうございます、エクエスさん」
「巫女様はあの後、一日中眠られておりました。僭越ながら私が馬車までお運びさせていただきました。馬車に着いた後、安全のためイラ領から離れ次なる目的地グラ領に向かっております。現在は朝食中ですが準備を終え次第出立する予定です」
「分かりました。それでは急いで準備をします」
「王女様へのご報告と朝食をお持ちしますので暫し離れます。巫女様はその間に身なりをお整えください」
「はい、お願いします」
一礼してエクエスがテントから出て行った。彼が置いた桶には水が張っていて、縁にはタオルが掛けられていた。酷く汗をかいていたのか服がベタつくのを感じる。
ん?っと嫌な予感が頭を過った。
恐る恐る自分の背中に手を回して触れる。わー湿ってるー。
そうだよね。汗をかいて仰向けで寝てるのに背中がサラサラなわけないよね。
うんうん……あれー変な汗が出てきた。取り敢えず後で絶対謝ろうと心に決めて服を脱ぐ。
水に浸してタオルを絞る。おお、軽い力で大量の水が絞り出てきた。これ、地味に手が痛くなりますよね。しかも何回もとなるととても疲れる。ああでも、力を込め過ぎるとタオルを引き千切ってしまうのか。加減が難しい。
湿ったタオルで汗まみれの体を拭く。いっそのこと頭から水を被ってしまいたいけれど、それは自重する。テントの中だもんね。それに、旅では水は貴重らしいし。
上から順に拭いているとお腹のところで手が止まった。右腹部にサニーと同じ逆さ五芒星が刻まれていた。上から見下ろすと逆さではないけれど。そっと撫でて眺める。っといけない。急いでいた事を思い出して、体を拭くのを再開する。
体を清めて別の服に着替えるとタイミングを見計らったかのように外から声が掛かった。応答するとエクエスがテントの出入口の布を開け、盆を持ったメイドが入ってきた。朝食を乗せた盆を置いて、脱いだ衣服と桶を回収していった。
メイドと入れ替わるようにレビィが入ってきた。ミレスの姿はなく、エクエスも入らずに閉じたのでレビィと二人っきりになった。
「目を開けて良かったわ。体調は大丈夫かしら?」
「心配かけてごめんなさい。もう大丈夫です。あっ、これを見てください」
服を捲って右腹部に刻まれた刻印を見せた。するとレビィは驚いた風に目を開いて口元を隠すように手で覆った。
「憤怒を助けることができたのね。体に異変はない?」
「今のところおかしいところはありません。強いて言うなら頭痛が酷くなったことでしょうか?」
「そう、問題ないのね」
「安心してください。わたし体が丈夫なのが取り柄みたいなものですので。これぐらい耐えて見せます」
「……頼もしいわ。いつまでもここにいては邪魔になるわね。それじゃあ、また」
小さく微笑んでレビィはテントから出ていった。急いで朝食を食べてテントから出る。
外ではメイドと騎士たちが忙しなく動き回っていた。
テントから離れると待ってましたと言わんばかりに騎士が撤去作業に入る。盆をメイドに渡した時も同様だった。追い立てられるように馬車に乗り込む。暫くすると馬車が動き出した。
クッションを抱えて落ち着く。起きてから大変慌ただしかった。一息ついてからクッションを横に避けて姿勢を正す。
「エクエスさんごめんなさい!」
「…………何のことでしょうか?」
深く頭を下げて謝罪する。少し間を置いて返ってきたのは困惑の声だった。顔を上げると少し眉を寄せていた。ああ、やっぱり不機嫌になられている。
「ご不快でしたよね。本当にごめんなさい」
「ですから、何のことですか?」
頭を下げて謝罪を繰り返す。誠意を持って許してくれるまで謝り続けよう。一日中でも何日かかっても。
「巫女様!」
「は、はい!」
大きな声で遮られて思わず顔を上げた。
あれ?
先程より怒っていませんか?
「何に対しての謝罪か仰ってください」
「えっと、わたしの、その……あせ、まみれの背中に触れてご不快になられましたことを……」
恥ずかしくて「あせ」の部分は小さくなってしまったけれど馬車内は静かですので聞こえたことでしょう。
エクエスの機嫌がよろしくなかった。人は不潔を嫌うと言いますし、仕方なかったからでもわたしのベタベタな背中を触ってしまったのが気に病まれたのでしょう。そう思ってのことなのに、彼は深いふかーい溜息を零した。なぜ。
「え、エクエスさん?」
「そのようなことは気にしていませんので謝罪は必要ありません」
「で、ですが、気が立っておられます。まさか、気づかぬ内に琴線に触れる失態を」
「巫女様は関係ありません! っ、いえ、大声を出して失礼しました」
びっっっくりした~。思わず口を閉じてしまった。エクエスも我に返ったのか黙してしまった。
うーんと……イラ領にいるときは普通だった、と思う。
とばっちりでお説教を受けた時も特に変わった様子はなかった。……はず。
だとするとわたしが眠っている間に何か嫌な事があったのだろうか。
…………どうして怒っているか分からないけど、直接聞かない方が良さそう。
一人で納得して窓の外に視線を向ける。
移動中だから一人にさせてあげることはできない。せめて心を落ち着かせれる時間は作ろう。だからしばらく話しかけないでそっとしておこう。
「どうして……ですか」
「はい?」
ぼそりと呟く声が聞こえて思わず反応してしまった。独り言の線もある。話しかけられたのが自分じゃないのに返事をしてしまった時の恥ずかしさと言ったらもうね。とっても居た堪れない。さらに今現在馬車の中。絶賛移動中。当然だけど逃げ場はない。
しまったーと悔いてもなかったことにはならない。何事もなかったかのように窓の外に視線を戻そうと思って、エクエスが真っ直ぐわたしを見ているのに気づく。
これはセーフ?
もしかしてもしかしなくてもわたしに向けて話していた?
だとしたらちゃんと聞いていなかったわたしは失礼に当たる。う~、もう一回、もう一回喋ってくれないかな。
「どうして、笑っていられるのですか」
願いが通じたのか推定先程と同じ内容で問いかけられた。良かったと安心すると同時に困惑する。笑うことがいけないことなのだろうか。
初めてエクエスから話し掛けられたという嬉しさはあるが、元々答えられる質問なら何でも答える所存だった。しかし本質を理解せずに適当なことを言うのは憚られる。
それも無表情が素であるかのようなエクエスが顔を歪めているのだ。意図を汲み取ろうと頭を悩ませていると察したのか言葉を重ねる。
「無関係な他者の罪を背負い、本来味わう必要がなかった痛みを、苦しみを耐えて、ぞんざいな扱いを受けていると分かっていながらなぜ……なぜ、笑っていられるのですか? ご存じなのでしょう? 俺の任務が護衛だけではないことを、あなたは最初から気づいておられる。本当は王女様の」
「エクエスさん」
名前を呼んで言葉を遮る。咎められて口を噤むが表情はそのままだ。納得できないと言った様子の彼に笑みを向ける。すると一層苦しそうな顔をした。
これ以上はいけないと線を引く。一線超えないように、情を抱かせないように身を引く。彼は優しい人だから、わたしの事情に巻き込むのは良心が痛む。もう手遅れかもしれないけど、それでも悪あがきぐらいはしてもいいだろう。線を引かないと苦しくなるのはお互い様だから。
「エクエスさん、これはわたしの望みでもあります。確かに始めはレビィの提案からでした。教会から連れ出してくれた恩もあります。それでもこれはわたしの人生です。わたしが選んだ道です。どんなに苦しくても誰かのせいにはしたくありません。それにほら、笑いは人の薬とも言いますし、今日も頑張ろうって活力が湧いてくるんですよ」
指で口角をぐいーっと上げる。少し恥ずかしくて誤魔化すようにいひひと笑う。そしたらエクエスは釣られたようにフッと小さく笑った。
「あっ、今笑いました。エクエスさんも笑いましたよ」
「笑っていません」
「えー笑ってましたよ。こう、ニカーって」
「笑っていません」
教えてあげたらすんっと表情が戻ってしまった。いつもの冷静なエクエスだ。嬉しい気持ちと少し残念な気持ちを隠して、口を尖らせて、いじけた様に顔を背ける。
「可愛かったのに」
「男に向ける感想ではありません」
横目でバレないように窺うとそっぽを向いていた。けれど耳が少し赤くなっているのが見えて、小さく笑みが零れてしまった。耳聡くバレたのを察して視線を戻す。うん、視線を感じる。不穏なオーラをバンバン感じる。揶揄い過ぎてしまったようだ。
それでも、彼が元の様子に戻ってよかった。強引に誤魔化してしまったことを気取られなくてよかった。
嘘は言っていない。
けれど本当のことも言ってない。
だから心の中で彼に謝る。
ずるいわたしでごめんなさい。