人魚カイの大きな決意
ある夏の日の夕方、小さな港町にて。
カイという名の少年が、船着場から海を見ていた。
日は傾いてきたものの、まだまだ沈む気配は無い。カイは市場の喧騒を背に、静かに波の音を聞いていた。
カイは人間と人魚のハーフとして、この街に生まれた。人間の男に恋をした人魚の母が、海の精霊王に頼んで人間に変えてもらい、そしてカイを産んだのだった。
彼は13になる前の夏至の日である明日、夜明けと同時に海の精霊王に会いに行き、自分がこれから人間として生きていくのか、精霊王から魚のひれをもらって人魚となるのかを伝えなくてはならない。
カイはもうとっくに、人間として生きることを決めていた。今の人間としての暮らしに不自由は無いし、大人になったら父を継いで職人になれば良いと思っていた。
それなのにカイは、自分が人間を選んで後悔しないか、いまだにうじうじと悩んでいた。太陽が海に描く光の帯を見て、何度目かの重いため息をついた。
「どうしてあなた、そんなに陰気臭いの?」
そんなカイに、後ろから話しかけた人がいた。いきなり失礼なことを言う奴だな、と思った。
振り返ると、栗色の髪をおさげにした少女が立っていた。彼女はこの街では見かけない珍しい衣服を着ていて、瞳は髪と同じ栗色をしていた。
「別に。ちょっと迷ってることがあるだけ」
「ふーん」
カイは彼女をじろりと睨んで、優しい言葉を撥ね退けた。
案の定、彼女は面白くなさそうにカイの頭を見下ろした。
カイには友達がいなかった。みんなは混血の彼を遠巻きに見るだけで、関わろうとしなかった。
時々カイに話しかける奴もいるけれど、こうして無愛想にしてやれば、怒ってすぐに去っていく。
きっとそんな奴らは本当にカイと話したい訳ではなくて、優しいことができる自分に酔ってるだけなのだ。
「何を迷ってるのか知らないけれど、このアンに話してみなさいよ。私、こういうの得意なんだから」
アンと名乗った少女は、とてもお節介な人間であるらしい。どうせ少し聞いたらすぐ飽きるだろうと、カイは自分の迷いを零した。
「今のまま街に留まって普通の生活を送るか、海に出て知らない世界に飛び込むか、今夜僕は決めなきゃいけないんだ」
自分が人間と人魚のハーフであることは、アンに言わなかった。言ってもどうせ信じてもらえないか、気味悪がられるかのどっちかなのだから。
他人の悩みなんか聞いても、面白くないに決まっている。
これで満足してどこかへ行くだろうと思っていたのに、アンは図々しくもカイの隣に腰を下ろした。
「私だったら絶対に海に出るわ。そして世界のあちこちを旅するの。世界はね、素敵な場所でいっぱいなんだから」
そう言ってアンは、自分の故郷の街のことを話し始めた。
「私はね、リンバールってとこから来たの。リンバールにはとっても綺麗な運河があってね。あ、運河って知ってる?運河はね……」
船で何日もかけて、アンは商人の父と共に、遠くの故郷からこの街にやって来たらしかった。
リンバールという港町には美しい運河があって、そこでは何艘もの船が毎日行き来していること。
船の上は小さな商店のようになっていて、その船からパンや花などを買えること。
カイはいつの間にか、アンが語る異郷の街に心奪われていた。
日は昨日より長いはずなのに、日没の時間が来るのがいつもより早く感じた。夕日に照らされたアンの髪や瞳は、美しい黄金色に輝いていた。
いつまでも明日が来なければ良いのに、と思った。
「私、そろそろ行かないと。船が出ちゃう」
「船?」
「日没と同時に船が出るの。今日リンバールに帰るから」
またいつかアンの話を聞ける気がしていたカイは、心が波立つのを感じた。
それはきっと、彼が大事な決断を前にして、不安になっているせいだけではなかっただろう。
「そうだ、あなた、名前は?」
長く話していたのに聞いてなかったねと、アンは恥ずかしそうに笑った。
「名前は、カイ」
アンの顔がぱっと華やいだ。別れの刻が迫るカイにとってそれは、朝露の光のように一瞬しか見られない、儚く美しい笑顔だった。
「カイ。素敵な名前だわ」
名前を褒められたのは初めてで、少しだけくすぐったい。カイというのはこの街で、どこにでもいる平凡な名前だった。
「カイってね、異国の言葉で海を表すんですって。カイはきっと海に出る運命なのよ」
アンにそう言われた瞬間、カイは自分の名前を好きになった。
その後アンは、急いで大きな船の方へ走っていった。間もなく太陽が海に飲まれて、汽笛の音が聞こえた。
大きな船が、港を出ていくのが見えた。カイはとうに日が沈んで辺りが闇に包まれた後も、船の黒い影が水平線の彼方に消えるまで、ずっと海を見ていた。
やがて、カイにも出発の時間が来た。
もし人間になるなら、海の精霊王に「僕は人間として生きます」と宣言して帰って来れば良い。その代わり、人魚になるなら二度と家には帰れない。
カイが人間として生きると決めていることを、カイの両親は知っていた。
だから宵の頃、カイが船着場から小船で海に出るときも、あっさりした別れだった。
けれどカイは、さっき沈んだ夕日を見て決めた。海の精霊王に魚のひれをもらって、人魚になって生きようと。
職人の家に生まれたカイは、アンと違って一生この街を離れることはできない。
だから人魚になって、世界中を旅して生きると決めたのだ。
そしたらいつかリンバールの運河に泳いで行って、大人になったアンを驚かせてやっても良い。
父と母には申し訳ないけれど、カイは部屋に手紙を残してきた。
もう、家には帰らない。
海の精霊王は、夏至の日の夜明けとともに海の真ん中に現れるそうだ。一艘の小船に乗った少年は、たった一人でその場所を目指す。
今日は新月の夜だった。明るく大きな月は無いけれど、その代わり満天の星が綺麗な夜だ。
波打つ水面も瞬く星も、決断したカイの門出を応援するように、彼の背中をそっと押した。
降るような星々の祝福を浴びて、一人の少年は海に向かって力いっぱい漕ぎ出した。