その50 『特別』だから・・・(小さな命5)
■その50 『特別』だから・・・■
三鷹さんは、主を抱っこしたまま、図書館の2階を目指して階段を登りました。
2階には、個室の勉強部屋が数部屋あるんです。
主は、ジッ・・・と三鷹さんの顔を下から見つめていました。
所処に擦り傷があるのに気が付きましたが、まさか玄関でサンダルに絡まって顔から転んだなんて、主は思わないでしょうね。
そんな姿、三鷹さんは絶対に見せませんからね。
「・・・あ、あの・・・」
声をかけたものの、主は続ける言葉が分かりません。
ただ、三鷹さんが追いかけて見つけてくれた事、抱き上げてくれた事、それらが嬉しい事だけは分かりました。
三鷹さんの体温に包まれているのが嬉しくて、気持ちよくって、主は三鷹さんの袖を小さく、そっと握りました。
三鷹さんの心臓の音が聞こえます。
多分、走ったから心臓のリズムが早いんだろうな・・・
汗、凄いな・・・
いっぱい、探してくれたのかな・・・
そんな事を考えながら、主は三鷹さんに体重を預けました。
「汗、気持ち悪くないか?」
「うん」
自分の胸元に、主の頭や顔の感触を察知して、三鷹さんが聞きました。
前を向いたまま。
主が頷くのと、三鷹さんが部屋のドアを開けるのは同時でした。
ドアのプレートを裏返して、『使用中』にしてからドアを閉めました。
部屋には、大きめの長テーブルと、それを挟んで向かい合うようにセットされたパイプ椅子が2つ。
それだけの部屋です。
三鷹さんはイスに主を座らせるんじゃなくて、主を抱っこしたまま、ドアを背もたれにして胡坐をかきました。
もちろん、主は膝の上です。
主は三鷹さんの顔が一気に近くなったので、慌てて三鷹さんに背中を向けました。
「顔、見せてくれないのか?」
三鷹さんの膝の上で膝を抱えて、背中を向けて俯いてしまったので、主の顔は見られません。
その代わり、赤くなったうなじが、薄く入れた紅茶色の軟らかな髪の隙間から、チラチラと見えました。
「汗とか涙とか・・・
汚れてるから、ダメ・・・」
小さく答えた主を、三鷹さんはギュッとしたいのを我慢して我慢して、そっと抱きしめました。
「今は『先生』じゃない」
三鷹さんの熱と、感触と、匂いに包まれて、主の気持ちも頭も混乱しました。
主、頭どころか、全身から湯気が出てるみたいです。
首どころか、手や足まで真っ赤っかです。
「プレゼントの手拭い、ありがとう。
あのおかげで、生きて帰れた」
三鷹さん、そこからですか?
主は耳元で囁かれる声に、頷くのが精一杯です。
「心配かけて悪かった」
「・・・連絡聞いて心配したけれど、顔を見てホッとした。
心配もホッとすることも、三鷹さんのそばで出来るなら、それだけでいいの。
だって、三鷹さんも梅吉兄さんも、私や桃ちゃんの事、心配してくれているでしょう?
お父さんもお母さんも・・・それは、大切に思ってくれているからでしょ?
だから・・・」
「そうだな。
自分の気持ちが相手に向かっている時は、どんなことをしても心配はするな」
「すぐそばで心配出来れば、すぐに駆け付けることが出来れば・・・私はそれでいい」
「うん、そうだな」
思っていることを、言葉にして心の中から外に出す。
ただそれだけなのに、主の気持ちはスっ・・・と落ち着いて、分からなかったモヤモヤの理由が分かってきました。
「でも、今は、それだけじゃイヤ、みたい・・・」
「イヤ?」
主の小さな小さな呟きは、確りと三鷹さんに聞こえていました。
三鷹さんに聞かれて、小さくうなずいたけれど、主の口はまた閉じてしまいました。
言葉にして、三鷹さんに嫌われるのが怖いんです。
「・・・俺は、桜雨が俺以外の誰かと話すのが嫌だ」
軟らかな髪の感触を確かめるように、三鷹さんはゆっくりと主の後頭部に頬ずりしました。
「桜雨が、俺以外の誰かを見るのも嫌だ。
その小さな口から出る名前は、俺の名前だけでいいと思っている。
桜雨の全部が、俺のものじゃなければ嫌だ」
少しづつ、少しづつ・・・主を抱きしめる三鷹さんの力が、強くなってきました。
「だけど、全身で絵を描く桜雨も、母親のように弟たちの世話をする姿も、友達と一緒に何かをしている姿も大好きだ。
俺の中に閉じ込めたら、そんな桜雨が死んでしまうのが分かっているし、これからもっともっと色々な経験をして、もっともっと素敵な桜雨が見られるのが分かっているから・・・我慢している。
今も、この首に噛みつきたいのを、我慢している」
三鷹さん、素直。
鼻の頭を、主の首筋に軽くこすりつけてるだけで、それ以上の事はぐっと我慢しました。
主はその感触に、ビクッと体を震わせて、小さくなりました。
「桜雨は?
何を我慢してた?
何が嫌?」
「・・・三鷹さんの隣に立てるのに・・・
私・・・その・・・お部屋、お部屋に入った事がないわ。
いつも、玄関で終わり。
いつもは、そんな事何とも思わなかったんだけれど・・・
その・・・龍虎は・・・梅吉兄さんや笠原先生は前からだけれど、今日は龍虎も上がってた」
つまり、双子君に焼きもちを焼いたわけですね。
ジェラシーですね。
それが分かって、三鷹さん、すごくホッとしました。
ホッとして、主に少しだけ体重を掛けました。
「悪い。
それだけは、ケジメだから、卒業まで我慢してくれるか?
桜雨は特別だから、ダメなんだ」
『特別』の言葉を聞いて、主は嬉しくなりました。
「特別?」
「特別」
「特別なら、我慢する」
主はチラッと三鷹さんを見て、ニコッと笑いました。
目とその周りを真っ赤にして、微笑む主が可愛くていじらしくて愛おしくて・・・
三鷹さん、自身の理性を総動員しながら深呼吸です。
頭の中で、主のお父さん・修二さんを思い浮かべていました。




