おまけの話67 敷かれたレールから外れて君と歩く道8
■おまけの話67 敷かれたレールから外れて君と歩く道8■
7つになる年の冬、私は田舎の実家を出た。
初めて勇一さんの前に立った時、私は小学校に上がる前のみすぼらしい子供だった。
お腹いっぱい食べられるのは年に数回だったから、とても痩せていた。
着ている洋服は姉のお下がりで、襟や袖は伸びて色は褪せているし、あちらこちらツギハギだらけだし、何よりブカブカだった。
寒い時は、そんな粗末な洋服を数枚重ね着して我慢していた。
一本に結んだだけの髪も肌にも艶は無いどころか、垢や煤や埃で薄汚れていた。
手や裸足の指先は霜焼けだらけで、赤黒く晴れてかゆくて、両手や両足の指を合わせて揉む様に動かして気を間際らわせるのが常で、靴下と靴には何か所も穴が開いていた。
そんな子どもだったから、『東条』のお屋敷の勝手口に立った時、物乞いと間違われた。
「あら、ずいぶん図々しい物乞いね。
お屋敷の敷地内まで入って来るんじゃないわよ」
あの時は酷い扱いを受けたけれど、今思えば当然だと思う。
けれど、私が女中として働きに来たと分かると、何も知らないみすぼらしい子どもに1から教えてくれた。
衣食住を与えてくれて、学校まで通わせてくれて… 騒動は色々あったけれど、小学校を卒業する頃には、『東条』のお屋敷の者として、どこに出ても恥ずかしくはない程度には成長していた。
体を包む白いブラウスと、脹脛まであるふんわりとした黒いスカート。
絹の靴下に穴なんて物はなく、足の霜焼けはいつの間にか出来なくなっていた。
炊事洗濯が仕事だから、手荒れはしょうがない。
けれど毎晩、寝る前にハンドクリームを塗ってお手入れをしていたから、昔に比べたら見違えるほど綺麗な手だった。
腰まで伸びた黒髪や肌には艶があり、身長もグンと伸びて、骨と皮膚の間にも年相応にはお肉がついた。
それでもまだ、痩せ気味ではあったけれど。
実家にいた私を、迎えに来た時の勇一さんは高校1年生。
シュッと伸びた背筋と無駄な肉のついていない横顔のラインがとても綺麗だった。
艶やかな黒髪を後ろになでつけ、キリッとした眉とその下の切れ長の黒い瞳。
少し薄めの唇は真一文字に結ばれて、とても真面目そうに見えた。
広い肩幅に、厚みのある胸元… どこを見ても立派な好青年で、その立ち居振る舞いは上品で、『東条』の時期当主として周囲にもお披露目をしていた。
私のお勉強を空き時間で見てくれたり、勇一さん御贔屓の珈琲店に連れて行ってもくれり… もちろん、お屋敷で働く人たちにも、とても優しかった。
言葉数は少なかったけれど、その分、さり気ない優しさがあって、女中や下男さん達からの信頼はとても厚かった。
そんな中、大学受験を失敗して母親である奥様に『捨てられ』た勇一さんは、心を壊しててしまった。
奥様も体調を崩しお屋敷を放れ、旦那様も1年に数回しかお帰りにならなくなって、お屋敷はお客様を迎えることは無くなった。
女中たちは次々に結婚してお屋敷を出ていき、下男たちも最高年齢の武さんを残して故郷に帰ってしまった。
私の目から見ても、お屋敷は文字通り火が消えて衰退してしまった。
けれど、新しい出会いもあった。
それらが良かったのかもしれない。
勇一さんの『心』は、ゆっくりだけれど回復はしていた。
行きつけの珈琲店で働き始めた時には、誰もが驚いた。
その頃には、パッと見た感じでは高校時代と見た目に変わりがないのだけれど、よく見ると、表情が以前より柔和になったと思う。
少なくとも、私を見てくれる黒い瞳は出会った時よりずっと優しかった。
言葉数は、ほとんど『無』に近いけれど。
そんな勇一さんからのプレゼントが、中学校の制服だった。
紺色のセーラー服に、胸元には赤いスカーフ。
伸びた髪をハーフアップにして、スカーフと同じ赤いリボンで結ぶ。
足元は黒いタイツに黒のローファー。
全部、勇一さんからの進学祝い。
「おっ、すっかりお姉さんだね」
珈琲店のバックヤードから一歩でた私を見て、珈琲店の店主がニコニコと褒めてくれた。
中学の制服姿の私を見て、珈琲を淹れながら。
勇一さんの仕事場で、行きつけの珈琲店で、中学の制服姿を初お披露目。
お客さんが居ないのは、ドアにクローズの看板を下げてあったからだと思う。
昨日の夕方、制服が出来上がったとお店から連絡が来たのだけれど、勇一さんが制服姿を一番に見たいから、制服を受け取ったらお屋敷に戻らず珈琲店に寄ってくれと…。
まぁ、会話ではなくて、雰囲気で分かったのだけれど。
「… 勇一様、どう、ですか?」
オズオズと、その場で一周して見せる。
クルン! なんて、恥ずかしくてできないから、ギクシャクしちゃったけれど…
「… うん」
たったその一言。
でも、目元が少し下がって、口元が少し上がったのを、私は見逃がさなかった。
短かったけれど、声を聞けたのも本当に久しぶりだったし。
私は嬉しくなって、フフフって笑いながら、勇一さんの前に座ると、淹れたての珈琲が出て来た。
もちろん、勇一さんが淹れてくれた珈琲。
カップの隣には、個包装のチョコレートが2個。
「入学式、再来週だったっけ?
勇一君がお休み申請していたよ」
「はい。
制服の採寸に行くのが遅くなっちゃって、出来上がったのが昨日でした」
小学校の卒業式は、店主の娘さんのお下がりで出席した。
ちょっと大人っぽい、ベージュのスカートスーツ。
本当は、卒業式のお洋服も勇一さんが買ってくれようとしたんだけれど… 先にお下がりを貰えると分かっていたから、丁重にお断りした。
… ら、勇一さんがいじけてしまったから、髪に結ぶリボンを追加で買ってもらった。
素材も色も太さも、全て勇一さんに選んでもらったリボンは、とても手触りが良くて、結びやすくて、私のお気に入りになった。
「勇一君、買い出し行ってくるから、ここ頼むね」
店主はそう言ってエプロンを外すと、裏口から出て行った。
「いただきます」
勇一さんもカウンターから出て来て、私の隣に座った。
2人でゆっくりと珈琲を飲む。
珈琲の苦味はまだ慣れないけれど、香りは好きになった。
この頃は、仕事をしていたせいもあるだろうけれど、勇一さんからもほんのり、珈琲の香りがしていた。
優しく抱きしめてくれる時、髪や服からほんのり香る珈琲の香りが好きだった。
この頃、勇一さんは不安になると私を抱きしめた。
私が不安がっている時も、何も言っていないのに気が付いて、抱きしめてくれた。
その度に、勇一さんの温もりと一緒に、珈琲の香りが私を包んでくれた。
だから、珈琲の香りはとても好きだった。
あと、甘いチョコレートも。




