おまけの話36 勇一と美世9・家族の形
■おまけの話36 勇一と美世9・家族の形■
6年間、勇一さんとの時間は、とても穏やかだった。
小学4年生に上がる直前の春、勇一さんが大学受験に失敗したあの日…
郊外で療養中だった奥様がお屋敷に戻っていて、勇一さんの『今まで』を、勇一さんの存在を否定した。
恨めしそうに、血を吐いているように苦しそうな声で不合格を責める。
そして、冷静とは違うけれど、今までの熱がスッと冷めた声で存在を否定した。
「勇一は、もういらない。
東条にとって、価値のない人間。
東条にとって必要のない人間。
全部、無駄になったわ」
その時から、勇一さんは心を閉ざしてしまった。
「気持ちが、切れてしまったんだろうね。
今は、そっとしておくのが一番の薬だよ」
往診してくださったお医者様の言葉に従って、私達は騒ぎ立てることなく、日々を過ごすことにした。
サヨさん達は私の心配もしてくれた。
けれど、私は泣くだけ泣いたからか、騒動の次の日にはケロッとしていた。
自分の事より、勇一さんの方が心配だったせいもあると思う。
奥様は一度もお戻りにならず、旦那様は忘れた頃にお戻りになられるも、滞在時間は数時間。
そんなお屋敷に『東条』のお客様が来るはずも無く、気のおけない仲間と勇一さんとの生活は、ほぼ穏やかに過ぎていった。
まるで私達の存在がお屋敷ごと無かったかのように、『東条の者』は誰も構う人はいなかった。
■
心を閉ざしてすぐの勇一さんは、ベッドの中で目を開けているか、閉じているか… 呼吸はしている、それだけ。
口にするのは、水だけだった。
興味も反応も示さない、等身大の人形が横たわっている様だった。
私は毎朝、下男の武さんと勇一さんのお部屋に行って、真っ先に淹れたての珈琲をベッド横の机に置く。
勇一さんが飲むことはなかったけれど、嗅ぎなれた香りが刺激になって少しでも反応してくれたら•••と、本から得た事を毎朝試していた。
窓を開けて、武さんと一緒に勇一さんの体を温かいタオルで拭いて、髭を剃り髪を整え、着替えをさせる。
その後、平日は学校へ。
休日は、仕事の手が空くと勇一さんの枕元で勉強をした。
教科書や図書室で借りた本を声に出して読んだり、学校で教わった歌を歌ったり…
そんな生活を2ヶ月程おくっていた。
あの日は、例年より早く梅雨入りして、昼過ぎから雨が激しく降りだした日だった。
梅雨らしからぬ雨に傘は用をなさなくて、どこもかしこもビショビショになって帰って来た日。
勝手口から土間に入ると、私の帰りを今か今かと待ち構えていたらしいサヨさんに、お屋敷の中から裏庭に続く縁側へと連れて行かれた。
ビショビショに濡れたまま。
「… 勇一様」
裏庭には、激しく雨の降る中で弓のお稽古をする勇一さんが居た。
広い肩幅は変わらないけれど、筋肉が落ちて半分程の厚みになった胸元を白筒袖(弓道着)に包み、約60度に開かれた下肢を覆うのは黑袴と白足袋。
重心を体の中心に置いてから、一連の動作を通して矢を放つ。
激しい雨の中、矢を発したあとも暫くは気合を抜かない…
2ヶ月ほどで筋肉が落ち、頬がこけたどころか全身が細くなってしまった勇一さん。
それでも、纏う空気は相変わらずとても清らかで、緊張感が漂うものだった。
その向こう側、私から影になっていた所で、修二君が弓を構えていた。
勇一さんと同じく、白筒袖と黒袴をきちんと身に着けて、白足袋も履いていた。
窮屈で嫌だと、今まで一度も着たことがなかったのに。
この頃には修二君は、ほとんどお屋敷に居なかった。
私ともほとんど話をしてくれなくなっていて、学校も行ったり行かなかったり… 悪い噂ばかり、聞こえてきていた。
それなのに、この日は勇一さんと肩を並べて、弓の稽古をしていた。
誰も何も話さなかったけれど、激しい雨の音しかしなかったけれど、私は2人をずっと見ていた。
勇一さんが弓を下げ、仁王立ちのまま動かなくなるまで。
その日を境に、勇一さんは自分で起きるようになった。
相変わらず何も話さなかったけれど、朝の珈琲を飲んでくれるようになった。
お天気が良くても悪くても、裏庭に面した縁側に座り、日がな一日読書をしていた。
『勤しむ』様子はなく、『文字を眺めている』そんな感じで。
私は時間があれば、そんな勇一さんの隣りに座って本を読んだり宿題をしたり、花も生けた。
•••時には勇一さんの肩を借りてうたた寝も。
良いお天気でも雨の日でも、勇一さんの隣は居心地が良かったから。
けれど、この時期困ったのは、ご飯を食べてくれなかったこと。
正確には、『私が食べさせないと食べない』。
サヨさんやナツさん、武さんでもお口を開けてくれなかった。
だから、学校のある平日のお昼は食べてくれないので、ほぼ1日2食。
しかも、一食の量は小学4年生の私の半分程。
それでも、寝たきりの時に比べれば、全然良かった。
「勇一様、ミヨちゃんに甘えてるわよね」
サヨさんがご飯の支度をしながら、よく言っていた。
とても嬉しそうに、微笑みながら。
「勇一様が可愛い… なんて思ったら、失礼よね。
でも、ミヨちゃんと一緒がいいのよね、勇一様。
可愛いわ」
ナツさんも、微笑みながらよく言っていた。
タカさんも、他の上女中も居ないから言える言葉。
この頃のサヨさんとナツさんは、働き手は少なかったけれど、お屋敷にお客様がお見えになることも殆どなかったので、ゆったりお仕事をしていた。
食べられるようになると、活力が湧いてくるのだろう。
秋の花を生ける頃には、勇一さんは私と一緒に商店街にお買い物に行くようになっていた。
帰る前に喫茶店に寄って、珈琲とチョコレートを楽しんだのは、皆に内緒の時間。
相変わらず会話は無かったけれど、クラシックを楽しむ余裕は戻っていた。
私の小学4年生から中学3年生は、穏やかにゆっくりと過ぎていった。




