おまけの話35 勇一と美世8・転落4
■おまけの話35 勇一と美世8・転落4■
喫茶店の店主は、私と勇一さんを放っておいてくれた。
せっかく淹れてくれた珈琲も、サービスのチョコレートにも手を付けず、向き合って座っているのに会話も無い私達を、閉店の時間まで置いてくれていた。
目の前のカップに淹れられた黒い珈琲を見つめたまま、私は無になっていた。
頭で考えることも、心で思う事も放棄して、ただただぼうっとしていた。
「ミヨちゃん、帰ろう。
車で送るよ」
『Close』の看板を下げて、お店の片付けもすっかり終えた店主が、私に優しく声をかけてくれた。
「外は暗いし…」
帰る?
「その足で歩いて帰るのは…」
帰る?
「どこに、帰ればいいんですか?」
店主の言葉に、止っていたモノが動き出した。
視線が上がって、目の前に座っている勇一さんが見えた。
勇一さんは俯いて、珈琲を見つめている。
けれど私と一緒で、珈琲は視界に入っていても『見えて』いない。
「どこにって… お屋敷じゃないのかい?」
「帰っていいんでしょうか?」
奥様の言葉が蘇ってきた。
『もういらない。
東条にとって、価値のない人間。
東条にとって必要のない人間。
全部、無駄になったわ』
『ミヨ… 貴女も無駄になったわ』
必要とされない私が、お屋敷に帰れるのだろうか?
悲しくて不安で不安で、涙が出て来た。
「… ちょっと、待っていてね」
店主は戸惑いながら、カウンターの中へと向かった。
一度涙が零れてしまうと、止めることが出来なかった。
『いらない』
奥様のこの言葉が頭の中で響いて涙が止まらなくて、エプロンで拭っても拭ってもあふれ出て来て…
「ゆ… ゆう… 勇一さまぁ…」
しゃくり上げながら、勇一さんの名前を呼ぶ。
眉すら動かさない勇一さん。
「ゆう… 勇一様…」
勇一さんの声が聞きたかった。
悲しさと不安で心がいっぱいで涙が止まらなくて、どんな言葉でもいいから勇一さんの声が聞きたかった。
「ミヨちゃん、お屋敷に電話をしたよ。
お屋敷の人達、心配していたよ。
早く帰っておいでって。
大丈夫、お屋敷に帰っていいんだよ」
カウンターの中から出て来た店主は、私と視線を合わせるために腰を落として、ゆっくり優しく話してくれた。
「でも、でも… 奥様が… 要らないって… 私も勇一様も、東条には必要… ないって… あんなに、あんなに… 勇一様は頑張っていたのに…」
自分で吐き出した言葉に、心がズキズキと痛んだ。
止らない涙で、エプロンはグチャグチャになっていた。
「奥様は、病院に運ばれたそうだよ。
大丈夫、勇一様と確り手を繋いでいれば大丈夫」
店主は優しく私の右手を取って立たせると、そのまま勇一さんの横へと促して、私の右手を勇一さんの左手の上に置いた。
「今までの様に、勇一様の隣にいてあげて。
このお店は、いつ来てもいいからね」
私は、多くは話さなかった。
けれど、涙と共に吐き出した細切れの言葉で、店主は何が起こったのか察してくれたのだろう。
それ以上は何も言わず何も聞かず、私と勇一さんを車で送ってくれた。
「2人一緒なら、大丈夫だよ」
勇一さんの横に立ってお屋敷の表門を前に、私もここから入っていいのだろうか? いつも通り勝手口に回ろうか? と躊躇していたら、喫茶店の店主が背中を押してくれた。
2歩だけ、進んだ。
「手を、放しちゃダメだよ」
喫茶店で繋いでから、放していない大きな手。
私はギュッと力を入れているけれど、勇一さんは握り返してくれない。
「ミヨちゃんがいてくれれば、勇一様は大丈夫だから」
そう言って、店主はもう一度背中を押す。
「… ありがとうございます」
泣きつかれた声が出た。
涙は止まっていたけれど、声がガラガラだった。
私は少しだけ振り返ってお礼を言うと、勇一さんの手を引いて、恐る恐る表門をくぐった。
玄関を開けると、サヨさんが立っていた。
すぐ目の前、目を真っ赤に充血させたサヨさん。
「ミヨちゃん!!勇一様!!」
私が口を開くより先に、サヨさんは勢いよく私を抱きしめてくれた。
「サヨさん… サヨさぁーん…」
枯れて止まったと思った涙が、また流れ始めた。
サヨさんは私の肩に顔を埋めて激しく泣いていたけれど、私はサヨさんの名前を呼びながら、静かに泣いた。
私の右手は、勇一さんの左手を確りと掴んだままで。




