おまけの話26 勇一と美世6・変化5
■おまけの話26 勇一と美世6・変化5■
最近は勇一さんの代わりに、勇一さんの珈琲豆を取りに来ていた。
その度に、店主は珈琲豆が挽きあがるまでと、珈琲と個包装のチョコレートをサービスで出してくれていた。
苦い珈琲と、ほろ甘いチョコレートを味覚と嗅覚で味わいながら、耳障りの言いクラッシックを聞く。
意味の分からない言葉は、ぼーっとするのにはもってこいで… 私だけの、秘密の時間だった。
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商店街と住宅地の間にある、それほど広くない喫茶店。
オレンジ色の間接照明が優しく包む木目調の店内は、カウンター席が3つと二人掛けのテーブル席が2つ。
窓もなく、壁にもこれと言った飾りも無い。
流れる音楽はどこの言葉かもわからないけれど、耳障りはとても良いクラシック。
そして店内を漂う、苦みを含んだ香ばしい香り。
飲みなれない珈琲と、赤い個包装の2つのチョコレート。
勇一さんと向かい合って座るのは、お店の一番奥の席。
虐め問題で勇一さんが学校に来てくれた帰り、修二君は学校の正門を出た瞬間、下校するお友達を見つけて一緒に行ってしまった。
逃げるように走って。
私と勇一さんは、いつもの喫茶店に珈琲豆を買いに寄った。
珈琲豆が挽きあがるまでの間、向かい合って座っている勇一さんの顔が… 見れない。
いつもは少しずつ齧るチョコレート。
今日は、手を出すことが出来なかった。
だから、珈琲がいつも以上に苦く感じる。
いつもは耳障りの良いクラッシック。
今日は耳にまで届かなかった。
その代わり、自分の心臓の音が煩い程に聞こえていた。
虐められている事が、勇一さんに知られてしまった。
その後も、先生とお話をしていたから、私が内緒にしていた諸々の事がバレてしまっただろう…
怒っているのか、呆れているのか… 勇一さんは何を思っているのだろう?
私は、どんな顔をすればいいのだろう?
「ミヨ…」
「ひゃい!」
不意に名前を呼ばれて、驚いて変な声が出た。
瞬間、勇一さんを見上げたけれど、勢いよくまた俯いた。
「辛くなかったのか?」
… あ、虐めの事か。
「悪口は、そんなに辛くなかったです。
ほとんど本当の事だし、上女中さん達から言われる事の方がきつい時がありますから。
隠された物は、探せばまた使えたし、きよちゃんとかよちゃんも一緒に探してくれたから。
でも、今日は初めてあんなに酷い事をされて…」
表紙をズタズタに切り刻まれ、中身を黒く塗りつぶされ、トイレに投げられていた教科書。
さすがに、許せなかった。
「そうか」
勇一さんはたった一言呟いて、珈琲を飲んだ。
「勇一様が、職員室であの3人に言ってくれた言葉、ミヨはとても嬉しかったです。
教科書の汚れを、一生懸命勉強した時間て…
私、その言葉を聞く前は、なんでこんなに悔しくて悲しいんだろうって、自分の気持ちだったのにその理由がハッキリ分からなかったんです。
でも、勇一様の言葉で「そうか…」と分かって、3人も謝ってくれたから、気持ちが落ち着きました」
その代わり、勇一さんを見たきよちゃんの目がハートになったのが気になって、心臓の辺りがチクチクしだした。
今度は、それが分からない。
「もう、いいのか?」
「はい、もういいんです。
明日から、3人にもお裁縫を教えてあげる約束もしました」
放課後は、時間を取るのが難しいから、休み時間にやることにした。
「では、先生から聞いた話だが…」
来た!!
心臓が、さらにドキドキして、喉の渇きも増した。
ちょびちょび飲んでいた珈琲を、グイっと多目に飲み込んで、その苦さに顔をしかめながらも、チラッっと下から勇一さんを見た。
「授業参観、保護者会、運動会、学芸会の手紙を出さなかったのは、どうしてだ?」
やっぱり、それだった。
4つとも、私には見に来る親が居ない。
仮に、下女中の誰かが… サヨさんはきっと喜んで保護者として見に来てくれるだろうけれど、学校に来てくれるという事は、その間のお仕事が出来ないという事。
それは、来てくれるサヨさんにも、ファローしてくれる他の女中さんにも申し訳なくて…
「誰も見に来なくて、寂しくはなかったのか?
運動会の時、お昼はどうしたんだ?」
手紙を出さなかった理由を、勇一さんは察してくれていたのだろう。
少し薄めの唇から、小さなため息が漏れた。
「私は、誰かに見せるために、勉強をしているわけじゃないですもん。
運動会のお昼は、きよちゃんとかよちゃんの家族と一緒に…」
一昨年の運動会も、去年の運動会も、きよちゃんとかよちゃんの家族が、一緒にお弁当を食べてくれた。
だから、独りで食べるより寂しくはなかった。
… 独りよりは、マシだった。
いけない事をしているわけではないはず。
迷惑をかけてはいないはず。
私は『立場をわきまえている』はず…
けれど、勇一さんの視線に責められているように感じて、口篭もって、ますます顔を下げた。
「屋敷の者達を、『家族』とは思えないか?」
思ってもいなかった言葉に、思わず顔を上げた。
この時の、私を見ていた勇一さんの視線は、凄く悲しそうで寂しそうだったのを、今でも覚えている。
「でも、皆のお仕事を邪魔しちゃ…
私は、女中のお仕事をするためにお屋敷に居るのに…」
『立場をわきまえなさい』と、頭の中に響く。
分かっています、タカさん。
「ミヨは『子ども』という立場も持っているだろう?」
言われた瞬間、自分がとても小さなものだと思い出した。
女中と言う鎧も、家族を支える稼ぎ頭という鎧も脱がされ、ただの女の子にされた。
お下がりをリメイクしたワンピースを着て、赤いランドセルを背負った、ただの小学3年生…
「でも…」
「学校に通わせているのは、それが大切で必要なことだからだ。
屋敷の仕事では勉強できない、けれど、社会人になるにはとても大切なことを勉強する場所だからだ。
授業参観、運動会、学芸会… 子どもの成長を一番感じられる行事だが、それ以外にも保護者同士のコミュニケーションを取る場所でもあるんだ。
だから…」
勇一さんが珍しく口篭もった。
何か、上手い言葉を探しているのか、口をモゴモゴ… すぐに、珈琲カップを当てて誤魔化していたけれど。
「勇一様、難しい言葉や遠回しな言葉は、分からないだろうし余計な誤解を与えると思いますよ」
そんな勇一さんの前に、店主が挽きたての珈琲豆を入れた紙袋を置いた。
「…」
勇一さんは珍しく渋い顔で珈琲を飲んでいるし、店主は何故かいつもよりニコやかだし、私は勇一さんと店主の言葉のやり取りの意味が分からず、2人を交互に見て困惑していた。
「単純が一番ですよ」
眼鏡の奥の糸目をへの字に曲げて、店主は私の手元に3個目のチョコレートを置いて、カウンターの向こう側へと戻って行った。
白い個包装のチョコレートは、初めてだった。
「まぁ、食べなさい」
「…勇一様、言ってください」
チョコレートを進めてくれる勇一さんに、私は話してくれるように促す。
「… ミヨは子どもなのだから、もう少し甘えていいんだ」
目の前の勇一さんは、少し、ほんの少しだけ恥ずかしそうで、この時の私は目が点になっていたと思う。
「そんな事、出来ません。
甘えていたらちゃんとお仕事出来ないし、お給金頂くのが心苦しいです。
今でも、皆に迷惑をかけているのに…」」
勇一さんの表情と言葉に驚いて、声が少し裏返った。
「うん… だから…」
言いながら、勇一さんは白い個包装を開けて、真っ白なチョコレートを半分に割った。
そして、少し大きい半分を私の唇に挟み押し込んで、もう半分を自分の口の中に入れた。
「俺にだけは、もう少し甘えなさい」
今まで食べたチョコレートの中で、一番甘かった。
白いチョコレートの様に、私の頭の中も真っ白になった。
苦い珈琲が飲みたかったけれど、いつの間にかカップは空っぽだった。




