その34 間に合え!集中!(剣道部合宿1)
■その34 間に合え!集中!■
皆さんこんばんは。
僕の主の桜雨ちゃんは、今、ものすご~く、集中しています。
夕食もそこそこに、片付けも桃華ちゃんにお願いして、お風呂も珍しくカラスの行水で、髪も濡れたまま、部屋に籠りました。
集中して、手元の刺繍を朝までに完成させようと、必死なんです。
お部屋のローテーブルには裁縫セットと、そこから出されたものが散らかっていて、その前で前のめりになって手を動かしています。
クーラーが効いていても、じんわりと汗ばむほどの集中です。
主、瞬きぐらいしてください・・・
「桜雨、入るわよ~」
ノックの音がして、お風呂上がりの桃華ちゃんが、お盆で2人分のアイスティーを持って、入ってきました。
氷がタップリ入っていて、美味しそうです。
少し厚めの文庫本も、そこに乗っています。
「少し、休憩したら?」
「ん・・・もう少し・・・」
桃華ちゃんは呆れた溜息をついて、ローテーブルの上を少し片付けて、2人分のアイスティーを置きました。
もくもくと刺繍をする主の隣に座った桃華ちゃんは、ベッドに背中を預けて、文庫本の栞が挟まっているページを開きました。
アイスティーを一口飲んで、クリーム色の紙に視線を落としました。
パチン
と糸を切って、フー・・・っと、大きく息を吐くと、主はようやく隣に座っている桃華ちゃんに気が付きました。
「あ、ごめんね、桃ちゃん」
「ちょっと待って、今、良いところ」
今度は、桃華ちゃんが顔を上げません。
薄い紙をめくる音が、主の耳に心地よく届きます。
切れ長でスッキリしている瞳が、真剣に文字を追う横顔を見て、主の肩から力が抜けました。
桃華ちゃんが持って来てくれたアイスティーを一口飲むと、喉が渇いていたことを、体が思い出したようです。
喉を鳴らして、良い勢いで、殆ど飲んじゃいました。
「根詰めると、お肌に悪いわよ」
良いところ、が一段落したんでしょうか?
主がグラスを置くと、桃華ちゃんが主を見ながら、アイスティーを飲んでいました。
「桃ちゃん、夕飯のお片付けとアイスティー、ありがとう」
「龍(冬龍と)虎(夏虎)が、たくさんお手伝いしてくれたから、楽ちんだったわ。
アイスティーの氷、ほとんど溶けて、少し薄くなっちゃったわね。
どう?間に合いそう?」
「手拭いだけは、何とか間に合いそう。
タオルは、帰って来てから渡そうかな?」
主は、ほとんど出来た刺繍を、指先で優しく撫でました。
「合宿が早まったなら、早く言ってくれなきゃね。
ご飯の準備だって、あるんだから」
「先生は、忙しいから・・・。
それに、誕生日の日に帰って来るから」
三鷹さん、剣道の合宿で、暫く家を空けるんです。
いつもは、お盆明けに5泊6日なんですが、今年は明日の8月1日から5日までの4泊5日です。
そうなんです、三鷹さん、明日から合宿なんです。
帰って来るのは、三鷹さんの誕生日当日。
「誕生日当日に渡せるんだから、急がなくても良くない?」
桃華ちゃんは、主の手元を見ました。
剣道部の手拭いです。
白地に、朱色の太い行書体で『白桜私立高等学校』と入っています。
主は、梅吉さんにお願いして、新しい手拭いを1本貰いました。
本当は、部費で作られている物だから、お金を払おうとしたんですが
「剣道部員は、必要なら貰えるものだから。
使うのは、三鷹でしょ?
お金はいらないし、貰ったら収支合わすの面倒だから。
俺の財布に入れるのも、不味いでしょ?」
そう笑って、梅吉さんはお金を受け取ってくれませんでした。
「頭に巻く手拭いなんてさ、何でもいいんでしょ?
試合じゃなければ。
夏合宿なんて、汗かき放題なんだから、柄は何でもいいから、枚数あればいいんでしょ?」
刺繍の出来は、主の手の影で見えません。
「うん。
でも・・・怪我無く、帰って来て欲しいから。
三鷹さん、夢中になると、周りが見えなくなるでしょ?
滅多に怪我しないけど、やっぱり、心配だから」
そう言って笑う主の顔は、ちょっとだけ大人っぽく見えるのは、なんででしょうか?
「ご利益あるわよ。
桜雨がこんなに頑張ってるんだから」
桃華ちゃんは、主の指先をチョンチョンとしました。
主の白くて細い指先は、針で作った傷がいくつかあります。
主、ボタン付けや普通の縫い物なんかは無難に出来るんですが・・・刺繡は苦手なんです。
「ありがとう。
もうちょっとだから、頑張るね」
残りのアイスティーを飲み干して、主は刺繍を再開しました。
そんな主の横で、桃華ちゃんも読書を再開しました。




