その318 初めてだったのに…
■その318 初めてだったのに…■
主と三鷹さんが、雨の中を相合傘でお家に向かっている頃、帰宅した笠原先生を玄関にお出迎えした桃華ちゃんは、
「ちょっと、来てください」
と手を引かれて、一応傘をさしてもらいながら家の前の道を横断して、笠原先生のお家に連れて来られました。
佐伯君は、修二さんのお手伝いでまだ戻っていないみたいです。
戸惑う桃華ちゃんを、ダイニングテーブルの椅子に座らせると、笠原先生は正面に腰を下ろしました。
「これは、なんですか?」
そして、少しソワソワしている桃華ちゃんの方に向けて、スマートホンを置きました。
「あら、撮られた上に、SNSにアップされちゃってる」
スマートホンの画面には、桃華ちゃんに触れようとした男の人が、主に綺麗に投げられた瞬間の動画が流れています。
「加工されて、顔は分からない様になっていますが、見る人が見れば貴女と白川だと分かりますね。
投稿自体は、友好的な書き方をしていますが、しっかり拡散されていますよ」
桃華ちゃんは、そっと両手でスマートホンを持って見ます。
確かに、動画には
『しつこいナンパ男を撃退!』
と、書かれていて、これに対する書き込みも好意的な物ばかりです。
「いつものナンパよ。
今日は、そんなにギャラリーが居なかったと思ったんだけれど… 撮られていたのね」
「なぜ、指輪をしていなかったのですか?」
笠原先生が、トン! と桃華ちゃんの左の人差し指の付け根に人差し指を置きました。
「…桜雨とのデートだったから」
桃華ちゃん、指摘されてちょっと戸惑います。
「…桜雨とのデートの時は、桜雨の『桃ちゃん』としていたいんだもの」
指輪をしたくなかったわけじゃないんですよね。
ただ、『いつもの関係』で、主とお出かけがしたかったんですよね。
「指輪1つで、回避できたことだったかも、とは思いませんか?
そもそも、何のために指輪を贈ったと?
こんな動画を撮られて世界に拡散されて、俺達が良い気分になるとでも思いましたか?」
少しずつ、笠原先生の口調に熱が籠って来たのが分かります。
テーブルを、トントントントン… と、神経質に指で鳴らします。
「これから、貴女達は今まで以上に俺達の手から放れるんです。
こんな事が今まで以上に増えるのですよ。
それをさせないための虫よけの指輪でもあるという事を、お忘れですか?
それとも、見知らぬ頭の軽い男達から声をかけられるのが、楽しいのですか?」
そこまで聞いていた桃華ちゃんの顔つきが変わりました。
キッっと笠原先生を睨みつけて、口を開きます。
「義人さんは私や桜雨を、男の人に声をかけられて喜ぶ、そんな女だと思っていたのね?
確かに、指輪をしていたら、今日の事は回避できていたかもしれない。
それに関しては、私の考えが浅はかだったわ。
けれど… 私の気持ちはどうでもいいのね。
義人さんは、私の桜雨への気持ちをきちんと分かったうえで結婚してくれたのだと思っていたわ」
桃華ちゃんも、怒っていますね。
いつもは温和な黒い瞳が、スッと冷たく光って自分を静かに見つめる笠原先生を映しています。
泣くことも怒鳴ることもしないで、桃華ちゃんは静かに立ち上がりました。
「私の桜雨への気持ちを理解してくれない人は、私の側にはいらないわ」
桃華ちゃんは冷たく静かに言い切ると、椅子から立ち上がって静かに玄関を出ていきました。
「… しまった」
玄関のドアが静かにしまった音を聞いて、笠原先生はテーブルの上に両肘をついて頭を抱えました。
笠原先生、大人しく聞いていると思ったら、桃華ちゃんの意静かな怒りに押されていたんですね。
「確かに、白川への想いを甘く見ていたことは否めませんが… 今回の事、夫としては…
いや、そんな事を今ここで言っている場合ではないですね」
笠原先生は大きく深呼吸をして、すぐに桃華ちゃんの後を追いました。
サンダルを引っ掛けて、玄関を荒々しく開けて、階段を下りる前に下の道を見渡します。
桃華ちゃんの姿を探して。
雨の道を歩く人影は、少しも見当たりません。
「あんな状態で、家に帰りますか?
いや、今日は特に白川に心配をかけたくないはずですから、気持ちを落ち着かせるためにも真っすぐ帰宅はしていないはず…」
では、どこへ?
自問自答しても、出て来るのは主の姿です。
「ここで、白川の姿しか出てこないと言うのは… 桃華がどれだけ白川と時間と気持ちを共にしていたかという事ですよね。
それなのに…」
いまさら後悔しても、言ってしまった言葉は無かったことにはなりませんもんね。
悔しそうに手すりを拳で叩いた笠原先生は、桃華ちゃんを探しに行こうと、階段を下りようとしました。
「はい、傘」
その背中を、トン… と傘の柄が押します。
「ありがとうござ…い…ます」
当たり前のようにお礼を言って、振り返って傘を受け取ろうとして、笠原先生は再度固まりました。
「どこに行くのか知りませんけれど、こんな雨でも濡れたら体が冷えて風邪、ひきますよ」
振り返ったそこに立っていたのは、傘を差し出してお顔を俯かせた桃華ちゃんでした。
少しだけ見えるお顔は、どこかふてくされているようにも見えますね。
「どこに…」
居たのですか?
と続けようとして、笠原先生は気が付きました。
桃華ちゃん、玄関ドアの影に居たんですね。
笠原先生、桃華ちゃんがどこかに行ったという先入観からか、真っすぐ前しか見ていなかったから、気が付かなかったんですね。
「こんな顔と気持ちで、桜雨の所に帰れないから、頭を冷やそうと思って…。
でも、外は雨が降っているし…」
笠原先生の読みは、外れてはいませんでしたね。
眼鏡を外して、上を見上げて大きなため息をついて脱力したのは、安心感からですね。
「… ごめんなさい。
先生がどんな気持ちでプロポーズしてくれたか、分かっているつもりだったのに。
先生の気持ちに、甘えすぎていました」
桃華ちゃんは俯いたまま、ボソっと言いました。
「いえ、俺の方こそ… 焼きもちです。
あれは、自分でも情けなくなるほどみっともない、嫉妬心です」
笠原先生は、短時間のうちに桃華ちゃんが笠原先生の気持ちと今日の事を冷静に考えていたことに、正直驚きました。
だから、先生も素直に自分の気持ちが口から出ました。
「指輪、いつもの様に首からは下げていたのよ」
桃華ちゃんは言いながら、チェーンに通して首から下げていた指輪を胸元から引き出します。
「本当に、つけるのが嫌だったんじゃなくて…」
「良いのですよ。
俺の嫉妬なのですから。
すみません、嫌な思いをさせました。
触れても、いいですか?」
笠原先生は、桃華ちゃんが頷いたのを確認して、そっと抱きしめました。
「貴女の気持ちを信じきれなくて、すみませんでした」
桃華ちゃんのサラサラの髪を撫でながら、笠原先生は細い体を抱きしめる腕に、少しだけ力を込めました。
「…先生は馬鹿だわ。
私が指輪を受け取るのだから、特別な存在に決まっているじゃない」
桃華ちゃんはちょっとだけ笑って、背中に手を回しました。
お肉の感触が薄いんです。
「傷つけましたね」
「… 初めて先生のお家に上がったのに、怒られるためなんて、ショックだったわ」
いつもの様に、ちょっとツンとした口調の桃華ちゃん。
「そうですね、考えてみたら初めてでしたね」
「そうよ!
色気も素っ気もないわ」
胸元で桃華ちゃんの笑い声を聞きながら、笠原先生は少し情けなくなりました。
そうですよね、せっかく2人っきりでお家に居たのに…喧嘩ですもんね。
「しかし、桃華の家で話す内容では…」
「そうね、特に今日はダメだわ」
桃華ちゃんはパッとお顔を上げて笠原先生から少し放れると、首に下げているチェーンを外して、2つの指輪を左手の薬指にはめました。
「桜雨とのデートは終わったから」
そう言って、笠原先生の手を確りと握りました。
「先生、ご飯、無くなっちゃうわ。
行きましょう」
繋いだ手を、軽く引っ張られました。
けれども、笠原先生は動きません。
「… お夕飯、こっちで食べます?
運んできましょうか?」
いつものシュッとしたお顔を見上げて、桃華ちゃんが聞きます。
「いえ、確かに色気も素っ気もなかったと思いまして」
そう言って、笠原先生は階段とは逆の、家の玄関へと桃華ちゃんを引っ張っていき、再度お家に入りました。
「せ… 先生…」
奥のリビングの灯りがつきっぱなしなだけで、けれどその明かり玄関まではほんのりとしか届かず、笠原先生の表情がいつも以上に分からなくて、桃華ちゃんは変にドキドキし始めます。
2人っきりだし、先生のお家だし、佐伯君は居ないし、薄暗いし…
「さっきは、呼んでくれていたのに、名前」
背中を壁に押し付けられて、耳元で笠原先生に囁かれて…
桃華ちゃんのドキドキは最高潮!
「それは…」
「名前、呼んで」
桃華ちゃんの長くて細い首筋に、笠原先生の吐息が落ちて、薄い唇が…
「戻りましたー!!」
そこで、勢いよく玄関のドアが開き、元気のいい声が玄関に響きました。
「… あ~… 行ってきます」
仕事帰りの佐伯君です。
見てはいけないモノを見てしまった心境の佐伯君は、静かに出て行こうとします。
「お、お帰なさい。
お夕飯出来ているから、行きましょ!」
薄暗い中でも分かる程、お顔を真っ赤にした桃華ちゃんが、そんな佐伯君と笠原先生の背中を押して家から出ると、先頭に立ってお家に向かって歩き出しました。
だいぶ、早歩きですね。
「先生、邪魔してゴメンね」
そんな桃華ちゃんの後ろで、佐伯君が申し訳なさそうに笠原先生に謝りました。
お顔は、少しニヤついていましたけれど。




