その314 …もう少し
■その314 …もう少し■
卒業証書授与式が終わり、最後のホームルームも終わり、卒業生は友人や在校生と別れを惜しんでいる間、教員は会議に集められた。
諸々の連絡事項と注意事項を言い渡され、解放されたのは約1時間後•••
「水島先生」
早く桜雨のもとに向かいたくて、帰り支度を急いでいた俺に、美術の芳賀先生が声をかけてきた。
この先生には、とてもお世話になっているし、何より桜雨の理解者だ、蔑ろにはできない。
「社会科の準備室、戸締まり確認いかれるでしょう?
吹奏楽や合唱部も今日は終わったみたいなので、各教室の戸締まりも、ついでに確認してもらえるかしら?
もちろん、うちの美術室もお願いしたいの」
芳賀先生は人の良さそうな笑みを浮かべて、特別教室の鍵が連なる束を差し出してきた。
「見回り、ゆっくりで構わないから」
俺が鍵の束を受け取ると、芳賀先生は意味ありげな言葉を残して、他の先生方の方へと向かっていった。
「三鷹、分かってるよな?!
卒業式はすんだけど、3月31日までは学生だからな」
隣で、帰り支度をしていた梅吉が、恨めしそうな顔と声で言ってきた。
『まだ学生』そんな事は、百も承知だ。
今まで何年待ってきたと思う?
たかだかあと約3週間、今までの時間に比べたら何の苦もない。
•••そう、今朝までは思っていた。
いつものように純白のセーラー服に身を包み、春の陽射しを浴びながら友人達と談笑するその姿を見て•••たまらなくなった。
今まで何とか抑え込んでいた感情が暴走してしまうのではないかと思った。
『もう少し••• もう少し』
桜雨を傷つけたくはないから、必死に自分に言い聞かせた。
「もう少し••」
梅吉に釘を刺されたからではないが、自らを戒めるために、呟きながら各教室の戸締まりを確認していく。
芳賀先生の言うように、特別室しかないこの校舎には、残っている生徒はいなかった。
最上階の美術室を除いては。
半開きのドアから、見慣れた背中が見える。
美術室の一番奥の窓際。
空に向かってイーゼルにキャンパスを立て掛け、その前にちょこんと座る。
ハーフアップにした伸びた髪、白いセーラー服に、絵の具で汚れたエプロン。
時に小さな体を揺らしながら、時に激しく動きながら、時に調子の外れた鼻歌を歌いながら… 目の前のキャンパスに思いの丈をぶつける。
この時だけは、桜雨の中に俺はいなくなる。
それでもいい。
桜雨がそれだけ夢中になれる事だから。
それだけ夢中になっている桜雨を見ているのも、好きだった。
だから、どんな形でも、あと少しだけでも、この空間で描かせてやりたかった。
今日向かっているのは、小さめのキャンパス。
少し調子が外れている鼻歌は『ビリーブ』。
もう、描き終わったのだろうか、キャンパスの前に座ったまま、腕が動くことはない。
確か、あのキャンパスの絵は…
「卒業記念か?」
細い肩に手をかけて、キャンパスの絵を覗き込む。
小さな体が一瞬ビクッとした感触が、手から伝わった。
「みた… 水島先生。
さっき、最後の一筆を入れ終りました」
俺の顔を見上げて、桜雨は俺の顔を見ると手にしていた筆を少しだけ振って見せた。
「可愛い絵だな」
小さめのキャンパスの真ん中に、2本足で立っているカエルがいる。
そのカエルは黒い傘を逆さまに、買い物篭の様にして多くのモノを運ぼうとしているようだ。
傘の篭には、大きさも色も形も様々なモノが入っている。
小さな星だったり、大きなハートだったり、棘がたくさんついていたり、ツルンとした丸だったり…
それらは傘の籠から溢れだして、カエルの足元や、今通って来たと思われる道にも落ちている。
カエルの表情は、大変そうにも見えるが、どこか楽しげにも見える。
「三鷹さんを想ってドキドキするハートは、ピンクや赤い色で丸みのある綺麗な形。
けれど、たまに黒くなっちゃうのは焼きもちや嫉妬。
悲しい時は青色で、しぼんだ風船みたい。
でも、清々しい気分の時も、青。
その青は、透明なの。
怒っている時は、真っ赤でトゲトゲしていて攻撃的。
何かを期待している時のドキドキは、ピカピカの金色。
誰かを恨んだ時は、真っ黒でとても歪。
形がない、ドロドロした感じ。
皆と過ごす楽しい時間は、張りのある黄色。
大きさだって、色々あるもんね。
気持ちを描こうと思っても、難しいなぁ・・・って」
なるほど…
さしずめ、このカエルは桜雨自身か。
「この、黒い傘は…」
「私の宝物のカエルちゃん。
私の心の支えだから」
言って、桜雨はスカートのポケットから、不格好な黒いキーホルダーを取り出した。
折り畳み傘の持ち手で、真ん中にボロボロのカエルのシールが貼られたキーホルダー。
「そうか」
雨の日に、差し出した1本の傘。
桜雨を濡らしたくなくて差し出した傘は、結局、その命を守ってくれた。
「カエルちゃんを、どうしても描きたかったの」
言いながら、桜雨は少し後ろに立てかけてあるキャンパスを筆で指した。
「卒業制作はあっち」
桜雨は立ち上がると、今まで見ていたキャンパスを下げて、筆で挿したキャンパスを前に出した。
形とは言えない、真っ白なモノ、真っ赤なモノが小さく描かれている。
よく見ると、所々に青や白や黄といった色も覗き込むかのように見えている。
形の崩れた三角形が2つ、歪に重なったモノか?
丸みのある鳥の羽根が、羽軸根で重なったモノか?
「テーマは『気持ち』。
このキャンパスとテーマは、入部した時に芳賀先生がくれたの。
最後の筆は、卒業式の日に入れなさいって」
桜雨は俺の隣に戻って来ると、穂先の汚れていない筆を持った。
「キャンパスを貰った日は、オレンジのハートを描いたの。
高等部の生活がスタートしたばかりで、色々な事にドキドキしていたし、ようやく三鷹さんとの学校生活がスタートしたから。
その日から、事あるごとにオレンジのハートには、色々な色と形が重なったの。
三鷹さんとの事で嬉しい事があった日は、丸に近いピンクのハート。
三鷹さんのお家に三島先生が上がった日に気持ちは、真っ黒のバッテン。
時間が経っていても、このキャンパスの前に立つと思い出すから不思議なんだよね。
テストで悪い点を取った日は、くすんだ紫。
秋君が初めて学校に来た日は、ビックリしたから先が丸いトゲトゲの黄色」
つまり、このキャンパスに詰まっているのは、桜雨の3年間の感情か。
「それでね、この絵にはまだ最後の一筆を入れてないんだ。
水島先生…、一緒に入れてくれますか?」
ジッと、桜雨が俺を見つめている。
目尻が軽く下がった、可愛らしい焦げ茶色の瞳に吸い込まれそうになる。
スベスベとした白い頬を手で覆って、ほんの少し開いた、ふっくらとした桜色の小さな唇に、思いっきりかぶりつきたくなる。
細い首にも噛みついて…
…もう少し
俺の体内にあるなけなしの理性を総動員して、その衝動をぐっとこらえる。
ぐっとこらえて、少しだけ頷いた。
「ありがとう」
桜雨は微笑みながら、手にした筆に色を付けた。
「…金色?」
「うん。
希望の色っぽいでしょう?」
桜雨はその筆を俺に持たせ、俺の背中を少し押してもう一歩、キャンパスの前へと立たせた。
「水島先生、肩から力を抜いてください。
私が動くから、抵抗しないでね」」
そう言って、桜雨の小さな手が、筆を持つ俺の大きな手の上に重なった。
「いきます」
その動きは素早く、力強かった。
金の絵の具は、形というよりは影だった。
「激しくて、ビックリしました?」
正直、ここまで力強く描いているとは思わなかった。
顔に出ていたのか、桜雨がクスクス笑っている。
「…これは、翼か?」
キャンパスに現れたのは、白をベースに、色々な色が覗く横向きの二枚の羽根。
それは、今まさに広げられようとしていた。
「だって、これから飛ぶんですもん。
片方は私の翼。
もう片方は…三鷹さん。
三鷹さんは、いつも私の未来を作ってくれるから」
…もう少し
「先生…」
…もう少し
我慢している俺の前で、桜雨はエプロンを外し、胸元の朱色のスカーフを外した。
桜雨、イケない、それは完全にアウトだ。
「女子は第2ボタンがないから…」
そう言いながら、桜雨は精一杯背伸びをして、俺のネクタイを取ろうと悪戦苦闘し始めた。
一生懸命な表情が可愛いく、邪な気持ちが少し薄れた。
「…椅子に座ってください」
背伸びでは上手く出来ないと観念したのか、桜雨は近くの椅子を持って来た。
笑うのを我慢してその椅子に座ると、ようやく桜雨の手は動きやすくなったようで、俺のネクタイを外した。
「ちょっと、浮いちゃうかな?」
そして、朱色のスカーフをネクタイの代わりに巻いてくれた。
「先生、3年間ありがとうございました」
そして、小さな温もりが、優しく頬に落ちて来た。
桜雨、アウトだ。
「私、先に皆の所に行ってます。
戸締り、お願いします」
我慢の限界。
思いっきり目の前の小さな体を抱きしめようとしたら、それよりも先にスカートを翻して逃げられた。
…もう少し、もう少し。
それでも、制服姿は今日で最後だ。
この後ろ姿も…




