その306 3月3日(3)
■その306 3月3日(3)■
ジュエリーショップの近くに、素敵な紅茶店がありました。
アンティーク調のそのお店は、ドアを開けると桃華ちゃんのお家のお店に良く似た雰囲気です。
漂う優しい香りは珈琲ではなくて、紅茶の香りですけれど。
そんなに広くない店内には2人掛けの席が2組と、4人掛けの席が2組。
桃華ちゃんと笠原先生は、大きな窓際の一番奥の2人掛けの席に座って、濃い目に煎れて貰ったアールグレイでゆっくり喉を潤しました。
「急過ぎましたか?」
「あら、決めたのは私よ?
先生は、私に『選択肢』を与えたに過ぎないわ」
大好きな紅茶とお店の雰囲気に、いつもの桃華ちゃんに戻っていました。
「それにしても、早すぎだとは?」
その代わり、目の前で紅茶を飲む笠原先生の方が、今度はいつもと違う感じです。
シレっとした顔は変わらないんですけれど、雰囲気が少し元気ないような・・・
「私、来月には女子大生だわ。
大学には兄さんも先生も桜雨も、誰も一緒じゃないんだから。
悪い虫がついてもいいのかしら?」
そうですよね。
そもそも、それが心配でプロポーズしたんですよね、笠原先生?
「…少しだけ、貴女の弱みにつけこんだと自己嫌悪に陥ったもので」
「らしくないわ」
桃華ちゃんはクスクス笑いながら、左手の薬指にはめた2つの指輪をお顔の上に上げました。
「先生は、『選択肢』を与えてくれただけよ。
選んだのは私。
私自身の意思。
この指輪だって、つけるのを決めたのは私よ。
でも、私の弱みに付け込める人なんて滅多にいないんだから、そう思ったのなら、ある意味自信もっていいと思うわ」
お店の間接照明の灯りが、2つの指輪に当たってキラキラと輝きます。
その輝きを、桃華ちゃんは嬉しそうに眺めます。
「そうですね。
一緒に住むのは、4月過ぎになるかと思いますが、家具類はどうしますか?」
そんな桃華ちゃんの言葉と、指輪を嬉しそうに眺める様子に、笠原先生は背中をポン! と押された気がしました。
小さなため息をついた後、足を組みなおして発した声には、元気のなさは消えていました。
…もしかして笠原先生、マリッジブルーでした?
「一緒に住む…あ、そうですよね。
うん、佐伯君も、4月には1階の部屋に移るって言っていたから…
そっか、私、笠原先生のお部屋にお引越しなんですよね」
桃華ちゃん、笠原先生に言われるまで、お家の事は頭から抜けていましたね?
「20歳まで、別居にしますか?
別居と言っても、貴女が通うのが高校ではなく大学になるだけで、他は変わらないと思いますけれど。
朝食も夕食も、基本そちらのお宅に行きますし、お昼のお弁当も…」
桃華ちゃんが俯いてしまいました。
「20歳で、何か変わるんですか?」
サラサラとした黒髪の隙間から見える耳は、ピンク色です。
キュッとスカートを握る手は、肩から力が入っているのが分かります。
「変わりますよ。
20歳までは、我慢しますよ」
「…今まで、我慢していました?」
シレっとした笠原先生の言葉に、桃華ちゃんの耳はピンク色が濃くなりました。
「していましたよ。
今までも、今も。
まぁ、稀にスキンシップが行き過ぎたことがあったかもしれませんが」
「…嘘つき」
桃華ちゃん、今まで笠原先生との『行き過ぎたスキンシップ』を思い出していますね。
「け、結婚したら、20歳まで我慢しなくていいと思うんだけれど?」
「『先生』と呼ばれているうちは、難しいですね。
背徳感を酷く感じてしまいます」
桃華ちゃんは勢いよく、真っ赤になったお顔を上げました。
桃華ちゃんを見つめていた笠原先生の瞳と目が合って、思わず軽く伏せてしまいました。
「よ…義人さんは意地悪だわ。
あれだけ、制服を着た私に…お、女の子だって、我慢しているんだから」
「では、それはきちんと『夫婦』になってから、2人で決めましょうか?」
モジモジする桃華ちゃんを見て、笠原先生は声を出さずに、口元だけで笑いました。




