その126 バレンタイン・桃華ちゃんとコンプライアンス
■その126 バレンタイン・桃華ちゃんとコンプライアンス■
「・・・では、今日はこれで終了です。
バレンタインは今日までですから、明日はいつも通りに気持ちを戻しておいてください。
では、さようなら」
放課後のホームルームは、いつも通りサラッとです。
鮮やかなオレンジ色の厚めのパーカーの上から白衣を着て、フードを確り被っている笠原先生は、いつも通りの軽い猫背と、眼鏡がチャームポイントです。
教壇で回収したプリントを纏める笠原先生に、数人の女の子が話しかけているのを、桃華ちゃんは内心ざわついて、けれど表情はとても穏やかに見ていました。
「桃ちゃん、今日のお夕飯どうしようか?」
桃華ちゃんの後ろの席の主が、鞄から近所のスーパーのチラシを取り出して、桃華ちゃんに声をかけました。
が・・・
「・・・」
いつもなら、直ぐに振り向いてくれるのに、笠原先生を見つめたまま、反応がありません。
「もーもーちゃん?」
主は上半身を乗り出して、桃華ちゃんの視線を追いました。
お気に入りの簪で、長い髪をお団子に纏めているので、その綺麗な横顔が良く見えます。
「・・お夕飯、鮭大根にしようか?」
視線の先が笠原先生だと分かって、主はニコニコしました。
鮭、笠原先生の好物でしたね。
「東条さーん、お客様よー」
そんな時、廊下側のクラスメイトが、桃華ちゃんを呼びました。
見ると、教室の後ろのドアの向こうに、男子生徒の姿が見えます。
今日、5人目の『お客様』ですね。
「はーい。
今行きますから、待っててください。
ハァ・・・今日は、兄さんも忙しいからなぁ・・・」
桃華ちゃん、思わずため息です。
梅吉さんも、あっちこっちでチョコレート貰うのに、忙しいですもんね。
『お兄ちゃんセキュリティー』が完全に働かない今日が、告白のねらい目なんですね。
桃華ちゃんが立ち上がると、笠原先生が声をかけてきました。
「東条さん、お兄さんがホームルーム終わったら、職員室に来て欲しいとのことです。
ついでなので、このお手伝い、お願いできますか?」
笠原先生の『この』がさす物は・・・
プリント3種類に、科学のノートと問題集です。
いつの間にスタンバイさせておいたのか、教壇の後ろの椅子に、山もりでした。
全部、今日回収する必要があったのかと、桃華ちゃんは疑問に思います。
「・・・はーい。
お手伝いのお駄賃は、兄さんから貰いまーす。
桜雨~、荷物お願いしてもいい?」
「もちろん」
主は広げたチラシをパパパっと片付けて、桃華ちゃんと自分の鞄と大きな紙袋を2つ持って、桃華ちゃんと一緒に笠原先生の所へ行きました。
「ヨッシー(義人先生)、また明日ねー」
「はいはい、また明日」
主と桃華ちゃんが来ると、それまで笠原先生とお話ししていた女子達は、手をヒラヒラさせて教室から出て行きました。
「あの子達に、お手伝いを頼めばよかったんじゃないんですか?ヨッシー」
「いいんですか?」
「・・・運びますよ」
ちょっと嫌味っぽく言った桃華ちゃんんでしたけれど、笠原先生にそう返されて、ちょっとほっぺを膨らませて、ノートと問題集の束を持とうとしました。
「ああ、こちらをお願いします」
笠原先生、すかさずプリントを桃華ちゃんに渡して、自分でノートと問題集を抱え込みました。
そして、教室の後ろのドアから出ました。
「あの、東条さん・・・」
「あ、お待たせしてごめんなさい。
今、先生のお手伝いで・・・」
桃華ちゃんに用があった男子生徒が、躊躇いながらも声をかけてきました。
「ああ、東条さんに御用でしたか。
すみませんね、手伝いを頼んでしまいまして・・・彼女のお兄さんも、彼女を呼んでいたので、そうですね、3時間後には手が空くとおもいますよ?」
笠原先生が、桃華ちゃんと男子生徒の間に一歩入って、桃華ちゃんの言葉に被せるように話し始めました。
「あ・・・いえ、また後日で。
さようなら」
「はい、さようなら」
可哀そうに・・・男子生徒君、今にも泣きだしそうでしたよ。
「今日ぐらいは、良いかと思うんですけれど?」
そんな笠原先生の態度を見て、桃華ちゃんは溜息をつきました。
「俺は、嫌ですけれど」
サラッと言って、笠原先生は歩き出しました。
桃華ちゃんの真っ白なほっぺが、ボっ!と一気に赤く染まりました。
そんな桃華ちゃんをニコニコ微笑みながら促して、主も歩き出します。
「あ、白川さん、水島先生が呼んでいました。
社会科準備室で、待っているそうですよ」
もう少しで職員室という所で、笠原先生が三鷹さんからの伝言を、思い出したようです。
「はーい。
ちょっと、行ってきます」
「桜雨、荷物・・・」
軽やかなスキップで二人の横をすり抜けて、社会科準備室に向かおうとする主に、桃華ちゃんが声をかけました。
「帰りは、みんな一緒に梅吉兄さんの車でしょ?
持っていくねー」
白いスカートの裾を揺らしてスキップする様は、秋君が尻尾を振って喜んでいるのとよく似ています。
「では、東条さんはこちら」
「・・・これ、お持ち帰りじゃないんですか?」
桃華ちゃんと笠原先生は、職員室のドアを通り過ぎて、階段を上がり始めました。
「俺にも、限界がありますからね。
暫くは、家では仕事をしたくないんです。
明日からは、三年生の大半が自由登校になるので、私も学校内での時間に余裕ができますしね」
2階の化学準備室のドアを開けると、薬品のツンとした匂いが、鼻を軽く刺激しました。
「ちょっと、待っててくださいね」
黒い遮光カーテンが引かれて外の光が入らない準備室は、いつも通り片付けられています。
長細いテーブルの上には、他のクラスのノートや問題集がクラスごとに分けられて、小山を作っていました。
笠原先生は、室内の電気を付けないまま、廊下から入ってくる明かりを頼りに、薄暗い室内をスイスイ歩いて、抱えていた荷物を目的の場所に置きました。
「もう少しスペースを空けますから、そのプリントはここにお願いします」
「はーい。
電気、付けますよー」
桃華ちゃん、準備室に入ってドアを閉めると、壁にある照明のスイッチを探しました。
廊下からの光は思ったより明るかったみたいで、ドアを閉めたら思った以上の暗さでした。
「ここですよ、スイッチ」
スイッチを探して壁を撫でている桃華ちゃんの右手に、笠原先生の手が重なりました。
背中に大きな気配を感じた瞬間、耳元で、笠原先生の囁き声がしました。
「せ・・・先生、これ・・・コンプライアンス違反」
桃華ちゃんの心臓が、一気に跳ね上がります。
どうしていいのか分からなくて、ただただ顔を下げて、左腕で抱えてるプリントを落とさない様にと、そっちに意識が向きます。
「桃華が内緒にしていれば、大丈夫」
きゅっ!と、右手を少し強く握られた瞬間、桃華ちゃんの体はビックリして、抱えていたプリントを落としてしましました。
「せんせい・・・プリントが・・・」
「うん・・・後で、拾いますから、今は・・・」
笠原先生は、桃華ちゃんの右手から手を放すと、両腕で確りと、それでも優しく、桃華ちゃんを抱きしめました。
お団子にしているせいで露わになっていた、細くて長い首に唇を寄せて・・・そこで、我慢しています。
「せ・・せん・・・せんせぇ・・・」
肩と腰を確りと抱きしめられて、首筋には温かな吐息と、初めて感じる唇の感触に、桃華ちゃんは体中に電気が走ったのかと思うぐらいビリビリして、体中の力が抜けてしまいました。
そんな桃華ちゃんの体重を、笠原先生は嬉しく感じながら確り支えます。
「白川さんは大丈夫です。
けれど、白川さん以外は、ダメです。
まぁ、所詮、焼きもちですよ」
今日一日で、笠原先生はずいぶんと、焼きもちを焼いていたみたいで・・・
でも、それは笠原先生だけじゃないんですよね。
「私だって・・・」
桃華ちゃん、腰に回された笠原先生の手に、そっと自分の手を重ねて、力の入ってない声で言いました。
「焼いてました。
・・・焼きもち」
「分かっていましたよ。
さっき、俺を見ていた目・・・あれはアウトですよ。
あんな目で、他の男は見ないでください。
・・・これ以上は、我慢しますから、もう少しだけ、このままでお願いします」
ちょっと拗ねたような囁きに、笠原先生はいつもなら絶対出さない甘い声で、桃華ちゃんにお願いしました。
「内緒ですね」
笠原先生の甘い声に、桃華ちゃんは熱っぽい声で囁きました。




