平穏な日々
この館に来てからの生活は、平和そのものだった。
あの10歳くらいの髪がピンク色の幼児のミヒリエが言っていたとおり、山に獣はでないし、村人からの襲撃もない。
庭には穏やかに流れる小川があって小魚が悠々と泳いでいる。
毎朝ミヒリエが手入れをしている花壇には七色に花が咲いていて、小鳥たちや蝶々たちが優雅に飛んでいる。
食事は三回、決まった時間に出てくる。
どの食事も涎が止まらないほど美味しくて、みんなすぐに平らげてしまう。
温かくて優しい味がする。
ボクはそれまで味がしない粉のようなものばかり食べていたので、ごはんがこんなに美味しいものだとは思わなかった。
夜には沸かしたてのお湯で体を洗えるし、寝るときには太陽の匂いがするふわふわな毛布にくるまって眠ることができる。
朝は眩しい日差しと小鳥のさえずりで目を覚ます。
起きるといつもとなりにルルがいる。
穏やかな寝顔で寝息をたてる姿は平和そのものだった。
ただひとつ、毎日9人のこどもたちは昼の食事のあとに採血をされる。
なんでも感染症対策とか病気の予防とかミヒリエが言っていた。
そんなこと、もうみんな、どうでもよくなっている。
きっとみんはそれぞれ辛い場所で生きてきて、採血ごときではなんとも、思わないのだろう。
血をとられるくらいなら痒くないってことだ。
こんな生活を与えられてしまうともう昔のことなんか忘れたくなる。
でも、忘れられない。
毎晩何人かは夢にうなされて大声をあげて起きるのだ。
つられて誰かも目を覚まし、眠れなくなり、朝まで冷や汗を流しながら歯をカチカチ言わせて震えていることもよくある光景だ。
でも誰も不満を言わない。
過去を忘れるように、生きているようだった。
言ってしまうと、また思い出してしまうし、過去が現実になってしまう。
過去を嫌な夢だったということにするには、言わないことがいちばんだ。
みんな、自ずとそう感じている。
それもあって、誰も誰かの過去を聞くようなことはしなかった。
暗黙の了解であるかのように。
それがここの館のルールであるかのように。
気がつけばこの館に来てから一ヶ月が経った。
はじめのうちは、お互いに距離を置いていたものの、徐々に打ち解けて、いまでは言葉を交わすくらいにはなった。
それはルルがきっかけになっていたと思う。
彼女ははじめからすごく人懐っこく、みんなにたくさん話しかけていた。
ここに来てすぐの頃は、誰も心を開いておらず、話しかけても返答がないことがほとんどだった。
そうして返事がないとボクのところにやってきて、「ねえ今日は何して遊ぶ?おままごと?」と聞くのだった。
みんな返答はしないまでも、ボクたちの会話はよく聞き耳をたてた聞いていたようだった。
本当は会話に入りたいのだろう。
まるで話してはいないが会話に入っているような感覚をみんな感じていた。
聞かれて不味いことはないので、ボクは気にせずいつも通りの声量でルルと話を続けた。
この館には9人のこどもがいる。
ボクも含めて。
まずはルル。
緑色の髪をした明るい女の子。
花のような蜜のような甘い香りがする。
次に褐色の肌をした女の子。
クリーム色の長いツインテールが特徴的だ。
すらっとしていて、運動神経が良さそうな気がする。
いつも木に上っているから。
なぜかずっと手袋をしている。
手袋、なのか。
肩のしたからずっと手の先まで続く長い手袋をしている。
でも器用にスプーンやコップを持っている。
いつか、聞いてみたい。
いつか、見てみたい。
彼女の手の先を。
3人目は深々と帽子を被っている子。
顔が見えないので男の子か女の子かは分からない。
いつもはひとりでいて、他の子とは交流がなさそうだった。
ルルですらあまり相手にされていない。
鼻先まですっぽりとおおわれた服を着ているので、表情すらうかがえない。
何か呟いているが誰もその言葉を理解することはできない。
異国の言葉なのだろうか。
4人目は普通の女の子のようだった。
金色の髪に白い肌。
いつもどこかを見つめている。
ふわふわとした雰囲気があって、ルルとも仲が良いみたいだ。
ボクはルルがそばにいない時は日陰で一人でいるが、ルルがたまにボクのところに彼女を連れてきてくれる。
至って普通の女の子のようだった。
トイレに行く回数が誰よりも多い。
きっとお腹を下しやすいのだろう。
そっとしておこう。
5人目は水色の髪が特徴的な女の子だった。
髪が床につくほどに長く、雨に濡れたように潤いがあるその髪は人の目を惹くものがあった。
耳がとんがっているのをボクは初めて見た。
声がすごく綺麗だと思った。
一人でいる時も歌を歌っている。
魅力的なその声は心が引っ張られるような感覚があった。
水辺が好きなようで外ではいつも小川で水遊びをしている。
この子も普通に見える。
9人のこどもの中では一番年上に見える。
6人目はひょろりと背が高い女の子だった。
クリーム色の服は異国のもののように見えた。
少なくともボクは見たことがない。
メガネをかけていて頬にはソバカスがある。
オドオドしているように見える。
何かに怯えている感じがする。
ここにきてしばらく経つが、一番慣れていないように思える。
ルルも話しかけに行っているが、まだ心を開いてくれるには時間がかかりそうだった。
特徴的なその姿は幾重にも結ばれたとの三つ編みだった。
まるで紐を具現化したおような三つ編みは豊かに彼女の肩から流れ背中に向かっている。
丁寧に手入れされたその三つ編みを結ぶのは大変だろうなと客観的に思うだけだった。
7人目はタトゥーを腕に大きく入れた男の子だった。
見た目は本当に怖い。
いかついのだ。
ボクは筋肉なんてない細めの体をしているので喧嘩をしたら絶対に勝てなさそうだ。
ツンツンのグレーの髪がいかにも強そうな雰囲気を出しており、目はギンギンに大きくてギラギラしている。
あまり絡みたくはない。
常に誰かを睨んでいるような目つきが怖かった。
でも意外と優しい面もあるようだった。
何度か転んだこどもたちに手を差し伸べたり木から落ちたそうになったところを助けている場面を見たことがある。
直接話したことはないが、もしかしたら良い人なのかも知れない。
8人目は赤髪のショートヘアの女の子だった。
常に目をうるうるとさせ、次の瞬間にも泣き出してしまうのではないかと思うほどに弱そうだった。
この子にはボクでも勝てる、と思ってしまう。
女の子はいつもお腹を大事そうに抱えている。
まだこどもなので赤ちゃんがいるわけではないだろうが、そんな風に猫背でお腹をいつも労っている。
そしてお腹に話しかけているようなそぶりを見せる。
不思議な子ではあるが、害はなさそうだ。
最後はこの子が一番厄介かも知れない。
存在が不思議なのだ。
さっきまで遠くにいたかと思えば、次の瞬間隣にいる。
黒髪で真っ直ぐに切りそろえられた前髪の下には目があるはずなんだけど、見たことがない。
もしかしたら目がないのかも知れない。
あのルルだって近づいても見たことがないというのだ。
特に何か悪戯をしてくるわけでもないので今のところは問題はないけれども。
得体が知れないものが一番怖い。
はっきりしている奴の方が付き合いやすい。
ボクたちはこんなに特徴的なこどもたちと毎日過ごしている。
あの日々が嘘であったかのように平和に過ごしている。
けれども夜中の悪夢はまだまだ続きそうだ。
それにいつ前の生活に戻されるかはわからない。
用心はしておいて損はない。
大人なんてそんなものだから。
目の前の欲望には勝てない。
ガイファと呼ばれている鉄の匂いがする巨体も何を考えているのか分からない。
それでもボクはルルといる毎日や美味しいご飯の日々に毎日満足していた。
いつの間にか平和ボケしていたのだ。
いつだって、悪夢は予告なしにやってくるのだから。