始まった生活
ミヒリエと名乗った桃色の髪で緑色の目をした幼女とガイファと呼ばれていた黒い巨体の男性が去った後、こどもたちはしばらく沈黙のまま部屋の中で立ち尽くしていた。
この部屋は暑すぎず寒すぎず心地が良い気温で保たれ、窓からは太陽が燦々と降り注いでいる。
彼女も彼氏も特に攻撃的なところは今のところ感じられない。
ガイファはコミュニケーションを最低限しか取りたくなさそうな雰囲気は出ているが、特に自分たちを無碍に扱おうという意図は今のところ感じられない。
ミヒリエに関してはむしろ自分たちと仲良くしたいと思わせてくれるような好意性がある。
いずれにしても、次の瞬間に命を奪われたりはしなそうだ。
少なくとも、ここにくる前にいた場所よりはずっと快適だ。
誰も刃物を向けたり、隠して毒を持ったり、銃を向けたりはしていないから。
しばしの沈黙のあとに、一人がようやく言葉を発した。
「ねえ、ここって安全なのかな」
9人のこどもたちが部屋の中に点々と立っていた。
そのうち、扉に一番近い場所にいる女の子が沈黙を停止した。
その声に、全員が注目をした。
新緑の森をそのまま髪に色付けたような瑞々しさを持った少女だった。
肩まである髪は綺麗に切りそろえられており、他の子たちとは雰囲気が違っていた。
他のこどもたちは、どの子も擦り切れた服や薄汚れた肌をしているが、この少女だけは太陽の光に肌が反射して輝いている。
「さっきの人たち、悪い人には見えなそうだけど、大丈夫かな」
どうやら彼女が発した言葉は、特定の誰かに投げかけられたものではなかったようだ。
少し声の音量が大きい独り言のようだ。
先ほどまでミヒリエとガイファがいた場所をじっと眺めていた。
しかし、他の8人のこどもたちは、彼女の言葉に反応はしたものの、言葉を返すものは誰一人としていなかった。
その代わりに、他のこどもたちは、それぞれ自分の居場所を探しに思い思いの方向へ向かっていった。
扉の前には緑色の彼女のみになった。
他のこどもたちは、ほとんど壁側に身を寄せて、改めて自分の置かれている状況を把握しようとしているようだった。
怯えた様子を見せつつも、温かく管理されたこの部屋に少しではあるが、安全性を感じているようだった。
沈黙だけが、その空間をしばらく包んでいた。
ボクは扉から一番遠くて、日が当たらないところを探してじっとしていた。
ここは少なくとも”前いた場所”よりは、何倍もいいとろこだ。
でも、少なくとも、今のところは。
きっとそのうち、ガタイがいい大人たちがたくさん現れて、こどもたちを1人ずつ連れて行くのだ。
館の奥からは、こどもたちが泣き叫ぶ声が聞こえて、その声が聞こえなくなったら、大人たちは満足げに顔を高揚させて闊歩するのだろう。
ボクはそんな光景をたくさん見てきた。
平和なのは今のうちだけ。
希望を持つなんて馬鹿げている。
望みを持つほど、絶望になるのだ。
期待するだけ、きっと自分が悲しくなるだけ。
そう自分に言い聞かせながら、改めて部屋の中にいるこどもたちを見た。
さあて、”最初の子”は誰かな。
ボクかもしれないし、ボクじゃないかもしれない。
どの子も沈黙を続けてはいるが、どこかリラックスしているように見えた。
期待しちゃいけないよ、と心の中で彼らに話しかけて、ボクは目を瞑った。
本当は周りにたくさんある初めて見るおもちゃや本を少し見てみたかったが、何かのトラップだ。
”平和で安定した生活”なんてありえない。
この世は、対価との交換でできている。
無償で幸せが手に入るわけがないのだ。
いつものように心の中で独り言を繰り返していると、眠気が体の中からじんわりとやってきた。
そうだ、束の間だけでも眠ろう。
こうして1人で眠るのは本当に久しぶりだ。
ボクは、波のように迫りくる眠気に自然とその身を任せた。
どのくらい眠っただろう。
花のような甘い香りがして、うとうとと徐々に意識が現実とつながる感覚がする。
この甘い香りは、夢の続きなのだろうか。
それとも、さっきまでいた幼女と巨体の仕業だろうか。
妙に心が持っていかれるような魅力的な香りだ。
きっと何か麻薬のような、呪いのようなものだろう。
こうしてボクたちの意識を奪って、そうして彼らの好きなようにさせられるのだ。
でも、もしそうでも、この香りならそのまま体を委ねてしまってもいい。
そう思えるくらい、温かくて、どこか懐かしい香りだった。
なんというか、太陽で包まれたような花畑を、好きなだけ走り回っているような、気持ちがいい感覚がずっと押し寄せてくる。
時折、葉の先で頬をくすぐられるような痒さもなぜか心地よかった。
こんな優しい感覚を感じたのは、ずいぶん昔のことだ。
あれはもう思い出せないくらい遠い昔のこと。
まだ、ボクがひとりで生きていなかった頃の話。
それももう思い出すだけ無駄なこと。
でも、今だけはこうしてこのふわふわとした感覚の中に身を委ねてもいい。
そろそろ、”ボクの番”が来たのかもしれない。
今までたくさん辛い思い、苦しい思い、痛い思いをしてきたから、最後に神様がご褒美をくれたんだ。
きっとそうだ。
そうに違いない。
ボクは自らその甘い匂いとこそばゆい感覚を求めて、体の力を一気に抜いた。
「まあまー!」
耳元で甲高い大きな声がする。
当然驚いて、さっきまでの心地よい感覚は一気に遮断され、現実がワタシを引き込む。
咄嗟に身構えた。
薄目で状況を確認すると、そこには大きな目があった。
宝石のような目だった。
「ムー!」
「・・・ムー・・・?」
「気持ちよく寝てたのに、ごめんね!起こしちゃった?」
琥珀色の目をしたその少女は、溶けそうなくらい目尻を下げて笑った。
「え・・・?アナタ、誰・・・?」
甘い香りは彼女からしたものだったのか。
ボクはいつの間にか彼女にもたれかかるように寝ていたようだった。
そして彼女の緑色の髪が頬をくすぐっていたのだ。
「えー?わたし?わたしはね、ルルーディア!ルルって呼んでね」
ルルと名乗るその少女は先ほど、ミヒリエとガイファが姿を消した時に、唯一言葉を発したこどもだった。
なんとも緩い。
それがルルの第一印象だった。
こんな状況なのに、口を常にニンマリとさせて、次の瞬間にも野生生物にとって食われそうなゆるさがある。
弱肉強食の中では、おそらく一番下位層に属する植物のようだ。
それでもあの芳しい香りは、なんだか人を幸福な気持ちにさせる。
緑色の髪をゆらゆらと揺らしながら、こちらを見ている。
真ん中で綺麗に分けられた髪には艶があり、窓からさす太陽の光を受けてキラキラと輝いていた。
「ねえ、あなたは?」
「え。ボク?ボクは・・・」
そこで周囲の目が全部こちらに向いていることに瞬間気がついた。
外からはまだ日差しが高く昇っているので、まだ正午かそこらだろう。
一瞬の眠りに落ちた他のこどもたちも、この会話をきっかけに眠りから目を覚まし、こちらを注意深く観察しているようだった。
自分の身を守るための、情報収集。
今何が起きていて命を守るためには、どうすればいいかをボク達を観察しながら検討している。
でも、もうそうした駆け引きに疲れてしまったワタシは、考えることをやめた。
「ヒオニ」
「え?」
「ヒオニ。ボクの名前」
「可愛い!ヒオニー!よろしくねー!」
ボソリと投げるように言ったその言葉に、ルルはとても嬉しそうに反応していた。
名前なんて、意味のないもの。
それでもルルはとても幸せそうに、何度もボクの名前を呼んだ。
周りはそんなボク達を見ても何も感じていないようだった。
自分に害を及ぼさないだろうと判断できただけでも観察の価値はある。
ルルはそれからもずっとボクの名前を呼んでは1人楽しそうに過ごしていた。
ボクもなんだかそんな彼女から離れるタイミングを見失ってしまい、夕方までそばにいることになった。
日が差し込まない冷たい部屋の片隅だったのに、妙に温かく感じられた。