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入寮して四か月と言っても、基本は先輩の車や自転車での移動が主で、電車というものはあまり乗りこなしていない。
役に立たない俺はアリの巣より複雑そうな路線図を眺めながら、本当にたどり着けるのか、少しだけ不安に思っていた。
「ボンジュール」
そんな俺に、真後ろから耳元に聞きなれない言葉を浴びせかけてくるやつがいた。
相手は女の声で、そもそも何語かもわからない。
俺は英語すら怪しい。
ヤバい。
でも、どこかで聞いたような……。
「ちょっと。返してくれないと、あたし恥ずかしいじゃん」
「……あぁ、よっ……ちゃん?」
ようやく聞きなれた言葉に戻り、よっちゃんだと確信して振り向いた俺の目に映ったのは、俺が知っていたよっちゃんではなかった。
「何さ」
「いや、なんか……誰?」
夕実と同じくポニーテールにしていたはずの黒い髪は茶色っぽくなって垂れ流しになっている。
眉毛がなんか太い。
ほっぺたと唇が赤い。
紺色の上着に、ストライプの、なんか裾が広いズボン。
……ズボン?
そんな服持ってたの?
「あんたの彼女だけど」
「え、待って、え?」
「あたしも待ってほしい。……やっぱ、変?」
「変! ヤバい! だってよっちゃんじゃないもん! 大学入ったらそうなるの!?」
「……正直すぎるし! あたしバカみたいじゃん!」
よっちゃんだと言い張る女の人は、トートバッグの位置を何回も変えながら俯いてしまう。
少し言いすぎたかとも思ったけど、変なものは変なので弁解の仕様がない。
「バカかどうかはわからないよ」
「うるさいし。帰るって言いたいけど帰れないから余計惨めじゃん」
それでもと思った言葉は失敗した。
もう取り返しがつかない。
三か月ぶりに会ったのに、よっちゃんと話すのって、こんなに難しかったっけ?
「どうなの最近は。あの顔見せ以降投げてないでしょ?」
無言で歩いていたけど、よっちゃんから声をかけてくれた。助かった。
「あとちょっとかな」
「なにさそれ。ケガじゃないのね」
「うん。それは大丈夫。八月にさ、ドームで試合があるんだけど、そこで三イニング投げるのが目標だから」
予定では今月三回、来月一回からの中六日で三イニング。
もちろん、二軍戦かつ記念登板みたいなものとは言え、不甲斐ないピッチングを続けたら剥奪はされてしまう。
でも不思議と打たれる気はしない。
「へー」
「……」
「……」
そして会話が終わった。なんだろう。俺は普通に喋ったはずなのに。
「スライ」
「よっちゃ、え?」
そこでグイグイいかないから問題なのかな。
そう考えて、話題をひねり出した。
よっちゃんのキャンパスライフについて聞き出そうとしてみた。
運が悪い時はこんなものかもしれないけど、何か決定的に噛み合ってない感じがする。
「すらい?」
「え? あ、まぁね。スライド式のドアがあんまり好きじゃないからさ」
「……んう?」
「あたし今免許取りに行ってて、車欲しいの。もし乗るとしたら、あんたはどうかな? と思っただけ」
「……変なこだわりがあるんだね」
「ほら、そっちは? 何言おうとしたのさ」
話の順序がめちゃくちゃだけど、何故か俺が聞きたかったことまで答えてしまっていた。
免許を取りに行くとか、結構なイベントじゃないか。これ以上のことってあるの?
「いや、よっちゃん大学で何してるのかなと思って」
「大学~? 大学ねぇ……。あ、サークル入った。合唱の」
言ったっけ? とか言ってるよっちゃん。
もちろん聞いてない。
どこの大学に行ってるのかもよく考えたら聞いてない。
「なんでよ突然」
「ん? いや、ゆみがさ、あんまり大学楽しくないって言ってたから」
「へー……ゆーみん?」
興味なさげに横を向いていたよっちゃんだけど、夕実の名前には反応する。
「そう、ゆみ」
「なんでゆーみん出てくんの?」
「え? この間言ってたから……」
「会ってんの?」
「うん。大学この近くなんだって。そういえば、よっちゃんの」
「なり振り構わずじゃん! ……まぁいいけど。え? 何?」
「……よっちゃんの大学はどこ?」
ツッコミは入れない。
多分目につくだけだから。
距離を置いて初めてわかることもあるし。
「言ってなかった? 市大だよ。市大の合唱サークル。ブログも更新してるから読んどいてよ」
……よっちゃんそんなに賢かったの!?
正直同じクラスになったこともないし、成績の話もしたことがない。
ちなみに俺は案外、六十点くらいは取れる。
その程度なんだけど。
「ってか時間ないし! あたしホテルまだチェックインしてないからヤバイんだけど!」
「え、泊まりで? 日帰り余裕って」
「あほなの? 昼に会うならまだしも、夜八時からでしょ。帰れるわけないじゃん」
ゆーみんじゃないし。
そう言って歩き始めたよっちゃんを見ていると、今日会ってからずっと感じていた違和感の正体がわかった。
俺とよっちゃんは別の世界に住んでいる。
場所も生活面も。
一緒なのは同じ空気を吸っていることだけ。
「え? ちょっと。何さ」
少しだけ、ほんの少しだけ、怖くなった。
出会って三年間。
付き合って二年間。
ずっと同じ生活を共有していたはずなのに。
「いや、なんか、ほら。離れる! って思って」
「……ゆーみんがお姉ちゃんね」
「へっ?」
「兄貴見てるみたい。お姉ちゃんが一人暮らしして、何日か経った日にびっくりするくらい泣いててさ。普段は喧嘩ばっかりだったのに」
あたしらは喧嘩してないけどさ、と俺が掴んだ右腕を見ながらボソボソと喋るよっちゃん。
そこまで喋ってから上げられた顔は、俺の不安をより深くさせるものだった。
「寂しいならもっと連絡すればいいじゃん」
「……うん。これからは、多分」
「はいはい。あたしはここにいまちゅよー」
「よっちゃん妹なのにお姉ちゃんじゃない……」
「あほ。あたしは彼女!」
化粧をして見違えた笑顔のよっちゃんは、俺の知っているよっちゃんじゃない。
そう考えてしまうと、不安は拭えそうになかった。
「いい? ちゃんと連絡しなさいよ」
「うん」
花火大会が終わって、俺の門限の関係上駅までしか送れなかった。
近くのホテルを取ればよかったのに。
……そもそも俺が取ってあげればよかったのか。
次からはそうしよう。
「頑張ってね」
「うん。よっちゃんも合唱、頑張って」
ありきたりな挨拶をして、よっちゃんは改札を通っていった。
振り返ることなく歩く後ろ姿を目で追い続ける。
声はかけられなかった。