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ベテランの矢口さんにカーブの投げ方を教わっていると、食事に誘われてしまった。
ただし、店は俺の選定で。
「あら矢口さん。お初ですね。ご贔屓にしてくださいね」
「ああ、よろしくね」
西の方から今年入団した矢口さんなので、お前の方が知ってるだろと言われたけど、そんなことはない。
俺のことをまったく知らないらしい。
俺も感覚が麻痺していた。
会う人会う人が俺と夕実と望月くんのことを知っていたから錯覚していた。
ルーキーの知名度を思い知らされて、むしろ安心できた。
「倉田、いい店知ってんな。誰に教えてもらったんだ?」
「あ、横本さんです」
「……要するにあれだな、俺も若いやつ連れて行く時は、ここに来たらいいんだな」
矢口さんは壁に掛けられたサインや写真を眺めながら納得している。
……横本さん知らなかったな。
でも仕方ないと言えば仕方ない。
矢口さんは新入団とはいえ、実績あるベテランだから、話しかけにくいオーラあったし。
俺も決意から四日かかった。
「ナイスよ倉田くん。一人で来た時はサービスしてあげるわ」
カウンター席に座る俺に、体を乗り出して耳元で囁く梢さん。
やっぱり有名人のサインは違うのかな。
……俺、サインしてなくない?
待って俺、サインしてなくない?
もう六月で、一応初登板も済ませたはずなんだけど。
……二軍だけどね。
「どうされます?」
「ん、初めてだし、こいつと同じのがいいかな」
「かしこまりました。倉田くんはいつものやつよね?」
「あ、はい」
「何お前そこそこ通ってんの? 金持ってんな。今日は出してもらおうか?」
「いやその、通ってると言えば通ってます、けど……」
「らっしゃいらっしゃいー! 何でもとは言いませんが、色々と頼んでくださいね!」
連れてこられてるんですよ。
そう答える前に、タイミングとしては非常によろしくないものだった。
おしぼりで手を拭く矢口さんの目が確実に丸くなった。
「いや、普通に緑茶で」
「……あ、俺だな。熱燗で頼むよ」
「あいよー!」
鼻歌を歌いながら引き上げる瑞季さんを矢口さんは見つめていた。
……え、惚れた?
まさかとは思うけど。惚れた?
「なぁ、何でもっていうのは、どこまでなんだ?」
徳利に日本酒を注ぐ瑞季さんと鍋に手をかける梢さんが離れた隙に、矢口さんは耳打ちをしてきた。
……何が?
「言われてみればメニューがないし、なんだ? この店は……」
言われてみれば確かにそうだ。
俺もメニューを出されたことがない。
適当に出てくる料理と、適当に頼む緑茶だけだ。
説明ができない。
もしかして、不満に思って……。
「いい店知ってんなぁ!」
思ってなかった。
背中をバンバン叩かれながら安堵する。
酒の香りで酔っ払ったのかな?
「なぁ、試してみないか?」
そのまま肩を掴まれて引き寄せられる。
酒臭くはなかった。
それにばかり気を取られて、耳元で囁かれた言葉は、何を言っているのかよくわからなかった。
「何をですか?」
「注文が通る限界だよ。気にならないか?」
「……ドデカミンが通りましたけどね」
「へぇ……そいつは手強いな!」
……なんでこんなに燃えてるんだ?
前の球団だとこんな店がなかったのかな。
正直なところ、お父さんと同じくらいの年齢だから、ノリについていけない。
でも、俺も気になっていたのは事実だった。
「へいおまちー!」
徳利に被せたサランラップをぺりぺりとめくって、お猪口と一緒に熱燗が運ばれてきた。
ちなみに俺はまだ肩を抱かれている。え、もう酔ってる?
「おう悪いな」
「おっと! 注がさせていただきますね、優勝請負人!」
受け取ろうとする矢口さんを遮って、瑞季さんは徳利を手に持ってお猪口だけを手渡す。
トクトクと注ぐのは、注ぎ口のようなところとは真逆の丸いところ。
なんでだろうとか考えているうちに、いつの間にか矢口さんは俺から離れていた。
魚料理が運ばれてきて、一心不乱に酒を飲んでいる。
……。
「どうかしましたか?」
緑茶を持ってきた瑞季さんが俺の横に座った。
なぜか瑞季さんは、いつも俺の隣に座っている。
そしてその後は動かない。
俺たちの会話に参加し始める。
俺はほとんど喋らないのに。
……チラッと、矢口さんが俺を横目で眺めるのが見えた。
「あの、その……」
これがパワハラというものなんだろうか。
そう思える威圧感に、質問は言葉にならなかった。
「……あ、わかりましたよ!」
あわあわ言葉を彷徨わせる俺をキョトンと見つめていた瑞季さんは、何がわかったのか、箸を手に取ると、俺の魚をほぐし始めた。そして欠片をひとつまみして。
「はい、あーん」
俺に向けて伸ばしてきた。
言われるがままにあーんと口を開いて、魚を食べさせてもらう。
……美味しい。
「いつでもやってあげますよ!」
もそもそと咀嚼しながら、次第に顔が赤くなっていくのを自覚する。
ただ一点、瑞季さんのジャージのポケットを見つめることしかできない。
梢さんと矢口さんは、今のを見てたかな?
そもそも何やってるんだ?
俺は……。瑞季さんは恥ずかしくないのかな?
確認したくても、顔が見れない……。
「飲み物って、メニューはないんですか?」
「あれ、緑茶は要らないですか?」
「いや、そんなことはないですけど」
「んー、メニューって言っても、なかったらないって言うだけなので、考えたこともなかったですね! コンビニにないものを頼まれるお客様は少ないですし」
雰囲気をごまかすために勢いで聞いた。
なるほど、コンビニ並みってことか。
確かにすぐそこに、コンビニが……。
……いや、きっと違うよね。
赤い顔で見つめた瑞季さんは、笑顔のままだった。
「このお茶って……」
「スーパーでは六十円ですね!」
「……熱燗は」
「小さなワンコインでしたね!」
「……」
「なーんちゃって! さすがに全部じゃないですよ! 信用問題ですからね!」
赤から青へと急変したのが自分でもわかった。
えへへと笑う瑞季さんだけど、俺は笑えない。
矢口さんは……梢さんと話が盛り上がっていた。
……聞けなかったことにして、ごまかしておこう……。




