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「ほら、喜びなって! プロだよ、プロ!」
夏の地区予選の後、俺の元には数球団のスカウトがやってきた。
正直なところ何を話していたのか、さっぱり覚えていない。
「うん……。ありがとう。なのかな」
「いやー、普通の高卒っていうと手取りなら十四、五万ってとこじゃん? よっ! 出世頭!」
いつのまにか出していた志望届に、六位ながらドラフトで指名された事実。
野球雑誌には「地区予選で甲子園四本塁打の望月を封じた力のあるストレートとチェンジアップが持ち味の右腕。変化球の精度とスタミナが課題」と書かれていて、やっぱりあの試合が全てだったんだなと思い知らされる。
「でも会えなくなっちゃうね」
ただ、俺が指名されたのは地元の球団じゃなかった。
上京しないよっちゃんと俺は遠距離恋愛となってしまう。
少しだけ、じゃない。
不安で仕方がなかった。
「あほ? 日帰り余裕だし! そもそも声だけじゃなくて顔も見放題じゃん」
「まぁ……」
「それともなにかな~? あたしの温もりがそんなに欲しいのかな~」
「……うん」
俺の答えにニヤニヤくねくねしていたよっちゃんの動きが止まる。
勘ぐれば睨みつけられているようにも思えるその視線は俺を貫いて、ガシッと腕を掴まれた。
「え」
戸惑いの俺によっちゃんはなにも答えてくれない。
抵抗するわけにもいかず、ずるずる引きずられるがままに連れてこられたのは、体育倉庫の前だった。
「んー……」
「なんでカギ開いてんのさ……」
「ほら、これ持って!」
「え」
ごそごそ漁った後に押し付けてきたのは、グローブとボール。
ひとつずつ俺に押し付けるとそのまま離れていき、とある地点で立ち止まった。
「このくらいー!?」
「……うん」
「よしゃ、ばっちこーい!」
そう言ってしゃがんだ彼女はスカート姿なのに気にする素振りもなく、まるでキャッチャーのように構え始めた。
「サインはアウトローのスライダー!」
「取れるわけないよ……」
「ゆーみんにはびしばし投げてたじゃん」
「ゆみは取れるからだよ! 俺、一応百四十キロ投げるんだからさ、よっちゃんは野球やったこと」
「ゆーみんが取れるならあたしも取れるし」
「……」
何を言っても無駄なんだろうな。危なかったら避けてくれるかも。
幼馴染でマネージャーの夕実なら。そんな考えはまったく浮かばなかった。
仕方なくセットポジションで構える。
……ランナーは二、三塁。サインはアウトローのスライダー。
鼓動が早く鳴り響く。
時間が止まってくれるならどれだけありがたかったかと思う。
間を取る回数も定められている高校野球で、俺は逃れる術を持っていなかった。
心音が大きくなる中で足を上げ腕を振る。
その指から離れる感覚はあの時と同じく、すっぽ抜けになってしまった。
「ナイスボール!」
アウトローのサインに対して届いたボールは真ん中高め。
踏み込んだバッターのスイングをするりとかわすようにミットに収まるボールは、アウトローに決まっていたらどうなっていただろうか。
答えはわからない。
四番打者を四打席封じ込めた俺は、五番打者に逆転のスリーランホームランを浴びてマウンドを降りたらしい。
正直なところ、すっぽ抜けたスライダーで空振り三振を取って以降、記憶がない。
映像では確かに、左バッターのアウトハイに流れていったストレートが叩き込まれたレフトスタンドを、呆然と見つめる俺の姿が映っていた。
降板後はベンチで声も出さずに俯いたままの俺がいた。
試合後の挨拶を夕実に抱えられながら行なっている俺がいた。
「ただのすっぽ抜けたスライダーだよ」
「それでも望月くんから三振取ったスライダーだし。ナイスボールじゃん」
夕実と付き合っているはずの村山は何も言わず、抱えられた俺の頭を叩いていた。仲が良かったわけでもないのに。
「約束がね、あったんだ」
いつどんな状況で交わしたのかは覚えていない。
それでも、グローブを持った俺と夕実の姿だけは、どんな状況でも忘れたことはなかった。
ただの夢物語はなんとなく続いていき、ただ形だけが残っていたはずだった。
「ゆみは何か言ってた?」
「いやなーんも。そもそもあたしとゆーみんそこまでだし」
「そっか。村山に聞くべきだったね」
二回目の冬を越えて、ストレートが百四十キロを超えるようになると、もしかするとって思ってしまったけど、俺は主人公じゃなかったんだ。
「あほ。あんたに言わないのに。誰にも言ってないよ」
「いや、村山は彼氏なんだけど……」
「そういう話じゃないし! っていうかさ、それはまだ終わってないじゃん」
「何が?」
「プロになったんだし、方法ならいくらでもあるってこと! ほら、例えばさ」
「やほー。ごめんね、こんな場所で」
「俺こそごめん。何も考えてなくて」
汚いベンチよりはマシかなとブランコに腰掛けていた俺の肩を、夕実が叩く。
俺の部屋に来てと言ったら、それはちょっと、と断られた。
当たり前の話だ。
俺たちは幼馴染なだけ。
それぞれ別の男女と付き合っている状況で、よっちゃんにバレなくてよかったなと思った。
「で、なーに?」
「うん。あのさ、ゆみ。俺、昨日で……プロ野球選手になったんだ」
「おぉ、おめでただねっ」
「……」
「……」
俺は口下手か!
作戦は練ったはずだった。よっちゃんのアドバイスを受けて何度も何度も何度も。
なんでこんな、会話が成り立たなくなるのは想定外だ!
「あの、ゆみがその、いてくれたからずっと……」
「あは。よっちゃんの差し金でしょ」
「……え?」
「わかるよそれくらい。何年一緒だと思ってるの?」
にやにやと笑う夕実は長い髪の毛をまとめたポニーテールを、何故か俺に押し付けてくる。
うりうりと言って顔に当ててくる。
まったく意味がわからない。
俺は夕実がよくわからないが、夕実は俺のことをよくわかっているらしい。よく考えたら怖い話だ。
「なら俺の言おうとしてることも、わかってたりする?」
「いやー? わっかんないよー? なんだろ、サプライズとかかなぁー?」
首を何度も左右に振る夕実はやっぱりにやにやと笑っていて、とても気持ち悪い。
バレてるならもう緊張しなくてもいいか。そう思ったら、今までが嘘のように気持ちが軽くなった。
「当たり前の話だと思うけど、俺、頑張るよ」
「うんうん。頑張らないと、無職になっちゃうよ」
「なんとか一軍で投げれるようになって、先発でローテーションを守れるようになって……」
「おぉっ! それで? それで?」
「甲子園で先発する時にゆみを招待するよ」
「よーっし、その意気だよ! そのここぇっ!?」
「……なに?」
吹っ切れてからはよっちゃんとのシナリオ通りに進んだ。
そして言い切った。
でも思ってた反応と違うな、と思っていたら、夕実はいきなり大声をあげて驚き始めた。
「え、えっ、ぼ、あたっ、ええっ!? よっちゃんじゃないの!?」
「なにが?」
「……これからはよっちゃんを連れて行くよ、的な話だと思ってたよ」
……なんで? よっちゃんをなんで連れて行くの? というか勝手に来ると思うけど。
「そもそも、彼女いるのに、彼氏持ちを口説くってどういうこと?」
「なんでゆみを口説くの?」
「口説いてなかった!」
「兄妹は口説かないよ」
「えっ、ならなんで私なの? よっちゃんほっといて私が招待されるの!?」
「いや、だって約束、破っちゃったし……」
「……約束?」
夕実と交わした約束は、一緒に甲子園に行くこと。
ベタで安直ないつ交わした約束かも覚えていないけど、俺が破ってしまったことに変わりはない約束。
「……あ。えっと、いやいや、その、あの時は仕方ないよ。みんな、望月くん三振の時点で緩んでたし。私含めて」
「延長しちゃってもいいかな」
相変わらず歯切れが悪いけど、一応用意してた言葉は全部投げてみた。
なのに、夕実の反応はよっちゃんとのリハーサルとは全然違って、困ったように何度も首を傾げていた。
「私は全然大丈夫だけど……」
「……迷惑?」
「迷惑と言えば迷惑だよ。私がバカみたい」
「待って。もしかして何か、噛み合ってない?」
「ううん。わかってるよ。一緒に甲子園に行こう、って約束のことだよね」
「噛み合ってる……」
話が通じていないわけではなかった。
何がおかしいのかどこからおかしいのか、むしろわかったのは、話が通じていることだけだった。
「延長って十二回なんだよね」
「え? あぁ、プロはそうだったね」
「いいよ。待ってあげる」
「あ、え? あ、ほんと?」
「うん。でも三年だけだよ」
俺がよくわからないまま進んでいくのはいいのかな。
夕実がわかってるのならいいのかな?
諦めかけていると、夕実は指を三本立てて俺に差し出してきた。
「私も人生があるから、三年だけは待ってあげる」
三年、三年か……。
俺がドラフト一位の大型ルーキーならともかくだけど、高卒六位の俺が三年で一軍の先発マウンドというのは、少し難しいと思う。
「延長戦なんだから当然だよ。大人ならお金が要るんだよ」
「そっか……。俺はもう大人なんだね」
「そうだよ」
「わかった。頑張るよ。だから待ってて。絶対に連れていくから」
「うん。頑張って。後悔しないようにね」
笑顔で腰をポンポン叩かれて、よくわからないままに話は終わってしまった。
わかったのは話が通じていることの他に一つ増えた。
あの日交わした約束はまだ続いている。
ひとつでもわかることがあるのなら話は早い。
夕実に頑張ってと言われた。
よっちゃんにも背中を押された。
だから俺は前へと、たとえどんなことが待っていたとしても、プロの世界へと足を進めていく。
そう決意して、頑張るよ、と返答した。